深刻な老化現象、それとも言い損なっただけ:
昨日からバイデン大統領の言い間違え?それも「同じ日に2度もとは」が、大きな話題にされている。古くて陳腐な言い方をすれば「何処も同じ秋の夕暮れ」なのかなという思いだ。
半年もすれば92歳になってしまう当方などは「そんな事でクヨクヨしていられるか状態」に入って久しいものがある。だが、未だ言い間違いや、取り上げたい店等の名前が出てこなくて、慌てて検索したりしているのだから未だ軽症ではと、自分に言い聞かせている。
そう言えば、60歳が近づいた頃に、中学・高校同期で旅行会社の常務だったK君に「物忘れや人の名前が出てこないことで苛立っている間は未だ大丈夫なのだ。だが、そのうちに間違いを何とも思わなくなったら本格的に老化したのだと認識せよ」と教えられたのが忘れられない。
昨夜も「ジャイアンツが勝たねば良いのだが」と念じつつ、ベイスターズとの一戦を見ていた。そこに家内が「ジャイアンツのピッチャーは誰」と突然訊いてきた。すると、その直前の回のことで、ベイスターズは2死ながらの好機に戸柱を代打に送り出して失敗していた。「あんな粗雑なバッターを出したからだ」と密かに嘆いていた。
その戸柱の代打起用の失敗の印象が強く脳裏に残っていたのか、ついつい「戸柱」と言ってしまったのだった、画面では戸郷が投げていたのに。「戸」までは同じだったが、間違っていたことは明らかなのだった。言い間違いには、こういう事も原因になるのかと気が付いた次第だった。
ここで、ふと思いついたのだが、バイデン大統領も「プーチン大統領を倒さねばならないと思っていたので、ついプーチンと言ってしまった」というような言い訳をしておられたのは、私が「戸柱じゃ-駄目だろう」否定したことが脳裏にあり、無意識に「戸柱」と言ってしまった現象と似ているのではないのかなとも考えていた。
「戸郷」を相手の捕手の「戸柱」と間違えたのはご愛敬で済ませられるかも知れないが、「ゼレンスキー」と言うべき所を、不倶戴天の敵とも言うべき「プーチン」としてしまわれたのでは、私でさえ深刻な状態ではないのかと受け止めざるを得なくなる。「ゼレンスキー」と言いたくても出てこなかったのはとは事態が違うと思う。「心理学」や「神経科」のことは解らないが「言葉が出てこない」のと「言い間違える」のとでは何れが深刻なのだろうか。
私は最早公衆の面前や公式な場で語ることはなくなったが、普通の会話をしていても「しまった。間違えた」と気が付いたことは何度もあって、間に合えば言い直していた。私よりも10歳はお若いバイデン大統領が、自分自身の状態に気が付いておられないとは考え難いのだ。ジョージ・クルーニーの苦言の件も、昨日はジムのサロンでNY TIMESの見出しだけ読んだ。進退を決めるのは大統領自身の問題/判断ではないのだろうか。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます