新宿少数民族の声

国際ビジネスに長年携わった経験を活かして世相を論じる。

米の供給量と価格(物価)

2025-03-03 08:18:24 | コラム
米の供給不足と価格高騰=農水省の政策の問題なのか:

私はお米が食べられるだけでも「感謝、感謝」の戦後の何も無い時代に育ったので、滅多に食べられなかった米飯に郷愁が無いし、お米の値段にもさして関心がなかった。そこで、何故そうなってしまったかを振り返ってみようかと。

私は米どころか玄米すら手に入らず、配給の油の搾りかすの豆や薩摩芋や麦を食べて過ごしてきた戦後の物がない時代に育ち盛りと言われる中学生だった。当時は、なけなしの玄米を一升瓶に入れ、棒で突いて白くして食べていたものだった。だから、主食とされているお米を食べることに、それほど執着心がないのだ。お米は配給と言ったが「切符制」で、その通帳でしか買えなかったのだ。

そういう時代を過ごしたので、中学生の頃にはご飯を腹一杯食べたという記憶はない。そういう時代に育ったせいか米の美味い不味いはほとんど判定できないし、お米を食べることにさして執着心がない。無ければ無いで「仕方がない」という時代の育ちだから。

それでも、2006年だったか、新潟県の十日町市の催し物に参加した時に振舞われた、無農薬で育てられた「コシヒカリ」の大きな塩だけのお握りを食べたときに「この世にはこんな美味い食べ物があったのか」と大感激で、お米のおいしさを見直したのだった。

しかも、1972年にアメリカの会社に移ってからは、米飯など出てくることがなく、言うなれば「御数=おかず」、即ち我が国でいう副食物だけを食べる洋食の世界だったので、個人的に益々米離れが進んでしまったのだった。結果として今では米の飯は一日に精々ご飯茶碗一杯と一寸しか食べないで過ごしている。

であるから、そのお米が現在のように品薄で、小売価格が上がる一方となる前までは5kgで¥2,000前後だと思っていた。だが、今や¥4,000を超える高級品まで出てきたそうだ。その値段でも供給が不十分だという事態に、農水省は備蓄米を放出すると言ったが、それも入札制なので、市場に出回るのは今月の末だとの観測がある。

昨日久しぶりに見ていた北野武の「テレビタックル」で専門家が指摘していたことは、農水省の失政だとのこと。減反を推進してしまったことも要因だが、どうやら問題点は「現在の高値でも米作りの農家には漸く採算が採れるかどうか」にあるようだった。巷間批判されている農協の支配の問題ではないと、東大出身の26歳で専業農家になった米利休が指摘していた。

しかも、大規模な農業で機械化も進んで合理化されているアメリカでも、米作りは不採算なのだという話まで出たのは印象的だった。私も1972年に初めてアメリカに入って、1時間走っても延々と畑が続き、人影がなく、機械ばかりが動いているのを見て、「アメリカでは農業は産業なのだ」と、その規模に驚かされたのだった。それでも米作りが不採算とは信じにくかった。

何も、この番組に影響された訳でもないが、思い当たったことがある。それは、「物皆上がるこの時期にあっては、どんな物でも経済的な値段で手に入れようとするのは無駄な努力となる。生産者の採算が採れる値段を受け入れなければならない」という事だった。見方を変えれば「製造業の世界では、元受けが下請けの犠牲の上に成り立っていてはならない」ということになるのだ。

だが、そうなった時点での米価も含めて、諸々の物価はどうなるだろうか。想像するだけでも恐ろしくなる。それに追いつけるように賃金が上がっていくのだろうか。


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