「怖いですね。毎日イヤな思いで暮らしています」:
これは昨日出会ったこのアパート住んでおられる私よりも高齢のご婦人の一言だった。私も将にその通りの捉え方で日々を過ごしている。
今週の週刊文春では飯島勲氏が小池都知事の英語(私に言わせれば「擬き」に過ぎないが)の乱用を批判しておられたが、知らない人は尊敬するかも知れないとの皮肉まであった。また、林真理子女史は「女帝」とは言ったが「でも、総理大臣にはならないで」と締め括っていた。東京都内の感染者の数が一向に減る様子がないのは、私は小池都知事が功を焦ってステージとやらの段階を1週間早めてしまった事が影響した気がしてならないが、もうどうにもならない事態なので、黙って外出の自粛しかないかと割り切ることにした。
小池都知事は歌舞伎町辺りの「接客を伴う業種」のことを言い出していた。だが、それを言うのであれば緊急事態宣言の解除とステージとやらを繰り上げたことなどが、多くの市民たちや自粛営業に耐えてきた者たちが開放感を味わいたくて、損失を幾らかでも補おうとしたことも原因ではないのかと考えている。何れにせよ、何らの強制力がない法律の下では市民の外出を禁じ得ない以上、東京のような事態が生じるのは不可抗力ではないのかと思っている。決して小池都知事だけを責める気はない。
そうかと思えば、読売巨人軍のように待ちかねたシーズン開幕を控えたこの時期に、2名の主力選手が擬陰性だか陽性だか知らないが、入院という状態になったようだ。後難を恐れて言うと「何ら感染するような場に出ていなかったにも拘わらず、抗体があったという事はこのウイルスは知らぬ間に感染させる物だ」となってしまう。高額の年俸を取って職業として野球をやっている者が自粛要請の期間中にストーイックに生活していたはずだが、まさか・・・ということはなかったと、ふと考えてしまう。だが、ウイルスの恐ろしさは十分に思い知らさせる事案だった。
週刊誌からの引用ばかりでは、まるで野党の揚げ足取りと同じになってしまうかと危惧するが、週刊新潮では室内でマスクを着用している場合にかの「ソーシャルデイスタンス」とやらの2 mは過剰ではないのかと疑問を呈していた。この問題はテレビが起用する医師によって見解が分かれるように聞こえるが「マスクとは感染者が飛沫を飛ばさないようにする為のものだ」と「ウイルスの侵入を阻止するだけの機能性はない」と2説に別れている。週刊新潮の指摘は「そうであれば、劇場等の屋内では何とかデイスタンスを採るのはは過剰ではないか」となっていた。
私は現在のように未だに特効薬もなく、ワクチンが実用化されるまでに一定以上の日数とか年数を必要とするのであれば、何とかデイスタンスのような防御法を採るのは仕方がないことではないのかと考えている。いや、言葉を換えれば、フラストレーションからの開放感を味わいたくて、危険を知ってか知らずかのこのこと夜の巷に出ていく連中の危機意識の欠如こそ問われるべきではないかと思うのだ。西村康稔大臣にも小池都知事にも何らの強制権が与えられていない以上、人々の良識に依存するしかないのでは、百年とまでは言わぬが、せめて1ヶ月くらいは河清を待たねばなるまい。
これは昨日出会ったこのアパート住んでおられる私よりも高齢のご婦人の一言だった。私も将にその通りの捉え方で日々を過ごしている。
今週の週刊文春では飯島勲氏が小池都知事の英語(私に言わせれば「擬き」に過ぎないが)の乱用を批判しておられたが、知らない人は尊敬するかも知れないとの皮肉まであった。また、林真理子女史は「女帝」とは言ったが「でも、総理大臣にはならないで」と締め括っていた。東京都内の感染者の数が一向に減る様子がないのは、私は小池都知事が功を焦ってステージとやらの段階を1週間早めてしまった事が影響した気がしてならないが、もうどうにもならない事態なので、黙って外出の自粛しかないかと割り切ることにした。
小池都知事は歌舞伎町辺りの「接客を伴う業種」のことを言い出していた。だが、それを言うのであれば緊急事態宣言の解除とステージとやらを繰り上げたことなどが、多くの市民たちや自粛営業に耐えてきた者たちが開放感を味わいたくて、損失を幾らかでも補おうとしたことも原因ではないのかと考えている。何れにせよ、何らの強制力がない法律の下では市民の外出を禁じ得ない以上、東京のような事態が生じるのは不可抗力ではないのかと思っている。決して小池都知事だけを責める気はない。
そうかと思えば、読売巨人軍のように待ちかねたシーズン開幕を控えたこの時期に、2名の主力選手が擬陰性だか陽性だか知らないが、入院という状態になったようだ。後難を恐れて言うと「何ら感染するような場に出ていなかったにも拘わらず、抗体があったという事はこのウイルスは知らぬ間に感染させる物だ」となってしまう。高額の年俸を取って職業として野球をやっている者が自粛要請の期間中にストーイックに生活していたはずだが、まさか・・・ということはなかったと、ふと考えてしまう。だが、ウイルスの恐ろしさは十分に思い知らさせる事案だった。
週刊誌からの引用ばかりでは、まるで野党の揚げ足取りと同じになってしまうかと危惧するが、週刊新潮では室内でマスクを着用している場合にかの「ソーシャルデイスタンス」とやらの2 mは過剰ではないのかと疑問を呈していた。この問題はテレビが起用する医師によって見解が分かれるように聞こえるが「マスクとは感染者が飛沫を飛ばさないようにする為のものだ」と「ウイルスの侵入を阻止するだけの機能性はない」と2説に別れている。週刊新潮の指摘は「そうであれば、劇場等の屋内では何とかデイスタンスを採るのはは過剰ではないか」となっていた。
私は現在のように未だに特効薬もなく、ワクチンが実用化されるまでに一定以上の日数とか年数を必要とするのであれば、何とかデイスタンスのような防御法を採るのは仕方がないことではないのかと考えている。いや、言葉を換えれば、フラストレーションからの開放感を味わいたくて、危険を知ってか知らずかのこのこと夜の巷に出ていく連中の危機意識の欠如こそ問われるべきではないかと思うのだ。西村康稔大臣にも小池都知事にも何らの強制権が与えられていない以上、人々の良識に依存するしかないのでは、百年とまでは言わぬが、せめて1ヶ月くらいは河清を待たねばなるまい。
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