排斥論者の弁:
私はこの手の言葉が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが不思議であった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語に融通無碍であるという素晴らしさを見出した。それだけに止まらず、新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と創造性を見る思いがするのだ。
このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎるのである。先頃、他人様のメールマガジンでこのことを取り上げたところ、かなり厳しい反論および反対に出会った。すなわち「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう」という方が多かった。私の論旨は「これらを使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても構わないと思う。だが、実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しい。
私はこれらの言葉を英語にしてみればこうなると知って貰いたかっただけである。何故この主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語として使ってしまう結果になる点を好ましくないと考えているからである。この際、何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたい」であった。
そこで、本題に入る前に「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを論ずることにする。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、漢字のような「表意文字」も使っている日本語との違いがある。そこに文法の違いが加わるのである。さらに日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする方針があることを申し添えておきたい。
さて、具体例を挙げてみよう。先ずは「文法無視」で、その昔にテレビ漫画に「エイトマン」というのがあった。無理矢理英語でスペルすれば”Eight man”となる。これを見たアメリカ人が「8人ならば”men”ではないか?」と疑問を呈した。すると作者は「8番目の男」という意味であると答えた。アメリカ人は「それならば”8th またはEighth man”ではないか?」と追いかけてきた。すると作者は「もう、これで十分通用しているのだから、どうでも良い」と答えて終わったそうである。
次が「単語を並べた」で、具体例は「ヒーローインタビュー」である。これはテレビのプロ野球中継に屡々出てくる言葉である。これは私の考えでは良く聞く「英語は話せないが、兎に角単語を並べたら何とか通じた」の例に分類したい。同時に文法無視でもある。だが、日本人で野球中継を見ていて、これが何のことか解らない人はいないだろうと言いたいほど日本語に「戸籍」を得てしまった。
堅苦しい文法を言えば「目的語であるヒーローが先に出て来る日本語の語順で言葉を並べてしまった例である。強いて英語にすれば”interviewing the hero”辺りだろう」となる。ここには漢字を幾つか重ねて熟語を作り出す感覚が応用されていないか。
次が「ローマ字読み」である。いやその問題点である。あるメールマガジンや自分のブログで「ローマ字の功罪」、特に「罪」を論じた際の反響は凄まじかった。「ウルトラマン」という有名なテレビ漫画がある。スペルすれば”Ultra man”である。英語では間違っても「ウルトラ」とは読まずに「アルトゥラ」に近い。
そして恐ろしい「言葉の誤用」である。多くの方は何ら躊躇わすに「無邪気か純真」を「ナイーブ」と言われる。これは向かい合っている相手に”You are naïve.”等と言えば、殴られても仕方がないくらいの誤用である。
最後に「発音」の問題を。”Sit down, please.”を絶対に「シット・ダウン」のように発音しないことである。「シット」を素直にスペルすれば”shit”となる。これは松本清張が誤解・誤認識していた「スラング」ではなく「汚い言葉」=”swearword”に分類されて、教養ある人が絶対に公共の場では使わない言葉の代表的なものの一つである。こういう発音を教える学校の先生方の猛省を促したい。”shit”が何を意味するかはここには書かないことにする。
私はこの手の言葉が余りにも数多く日常的に日本語に登場するのが不思議であった。だが、よく観察してみると漢字・平仮名・片仮名・ローマ字とともに和製英語やカタカナ語が使われている日本語に融通無碍であるという素晴らしさを見出した。それだけに止まらず、新たな言葉を創造してきた先人と現代人の優れた知恵と創造性を見る思いがするのだ。
このような言葉を「外来語」と呼んだり「和製英語」と称したりするようだが、その多くはすでに日本語として戸籍を得てしまい、今更外国人登録をせよと迫るのは遅すぎるのである。先頃、他人様のメールマガジンでこのことを取り上げたところ、かなり厳しい反論および反対に出会った。すなわち「今更それを否定することはない。このまま使い続けよう」という方が多かった。私の論旨は「これらを使うのは各人の好みと自由裁量であるし、日常会話の中で使っても構わないと思う。だが、実態は純粋な日本製の言葉であり、英語とは全く無関係であるという認識だけは持っていて欲しい。
私はこれらの言葉を英語にしてみればこうなると知って貰いたかっただけである。何故この主張をするかと言えば、「言葉は耳から入った場合の影響が強いので、テレビなどに登場するコメンテーター、有識者、学者、スポーツ等の解説者、議員等の社会的に認知されるかあるいは尊敬されている人たちが、無意識に使うかあるいは誤用すると、一般人はそれを素直に受け止めて英語として使ってしまう結果になる点を好ましくないと考えているからである。この際、何も知らずに使っているテレビ・タレント(これも造語だろうと思うが)たちの悪影響も無視できないことも言っておきたい」であった。
そこで、本題に入る前に「和製英語(=造語)とカタカナ語」の生い立ちを論ずることにする。そこには英語のように「表音文字」を使っている言語と、漢字のような「表意文字」も使っている日本語との違いがある。そこに文法の違いが加わるのである。さらに日本の学校教育で英語を科学として取り扱い、しかも「生徒を5段階で評価するために教えて、話せるようにすることはその目的ではない」とする方針があることを申し添えておきたい。
さて、具体例を挙げてみよう。先ずは「文法無視」で、その昔にテレビ漫画に「エイトマン」というのがあった。無理矢理英語でスペルすれば”Eight man”となる。これを見たアメリカ人が「8人ならば”men”ではないか?」と疑問を呈した。すると作者は「8番目の男」という意味であると答えた。アメリカ人は「それならば”8th またはEighth man”ではないか?」と追いかけてきた。すると作者は「もう、これで十分通用しているのだから、どうでも良い」と答えて終わったそうである。
次が「単語を並べた」で、具体例は「ヒーローインタビュー」である。これはテレビのプロ野球中継に屡々出てくる言葉である。これは私の考えでは良く聞く「英語は話せないが、兎に角単語を並べたら何とか通じた」の例に分類したい。同時に文法無視でもある。だが、日本人で野球中継を見ていて、これが何のことか解らない人はいないだろうと言いたいほど日本語に「戸籍」を得てしまった。
堅苦しい文法を言えば「目的語であるヒーローが先に出て来る日本語の語順で言葉を並べてしまった例である。強いて英語にすれば”interviewing the hero”辺りだろう」となる。ここには漢字を幾つか重ねて熟語を作り出す感覚が応用されていないか。
次が「ローマ字読み」である。いやその問題点である。あるメールマガジンや自分のブログで「ローマ字の功罪」、特に「罪」を論じた際の反響は凄まじかった。「ウルトラマン」という有名なテレビ漫画がある。スペルすれば”Ultra man”である。英語では間違っても「ウルトラ」とは読まずに「アルトゥラ」に近い。
そして恐ろしい「言葉の誤用」である。多くの方は何ら躊躇わすに「無邪気か純真」を「ナイーブ」と言われる。これは向かい合っている相手に”You are naïve.”等と言えば、殴られても仕方がないくらいの誤用である。
最後に「発音」の問題を。”Sit down, please.”を絶対に「シット・ダウン」のように発音しないことである。「シット」を素直にスペルすれば”shit”となる。これは松本清張が誤解・誤認識していた「スラング」ではなく「汚い言葉」=”swearword”に分類されて、教養ある人が絶対に公共の場では使わない言葉の代表的なものの一つである。こういう発音を教える学校の先生方の猛省を促したい。”shit”が何を意味するかはここには書かないことにする。
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