YouTubeで「北帰行」を聴いて:
昨日のことだった。何気なく見ていたYouTubeに、緑咲香澄という人が歌う北帰行(「ホッキコウ」である)が出て来た。見出しには旅順高等学校とあったが、私の記憶では寮歌のはずだった。「窓は夜霧に濡れて」と、何とも昔懐かしい歌詞が聞こえてきた。これは小林旭などが歌っていたので、流行歌なのかなと思わせられた時もあった。
私の記憶では終戦と共に消えてしまった満州に出来た、国立の旅順高等学校の寮歌だったので、Wikipediaで確認してみれば「寮生の愛唱歌で、準寮歌」となっていた。大袈裟に言えば「懐かしさに涙こぼれる」かのような良い歌なのだ。旅順高等学校には近所に住んでおられた湘南中学のお兄さんが進学されたので、小学生でもその存在を知っていた。
このつい2~3日前には、矢張りYouTubeで北海道大学の学生寮「恵迪寮」の寮歌の「都ぞ弥生」を聴いていた。そこで、進駐軍に学校制度を変えられて我々中学生の憧れの的だった(旧制)高等学校を受験できなくなった残念さと悔しさが蘇ってきた。戦後70年以上も経ってしまった21世紀に「あの弊衣弊帽に朴歯の高下駄、その上にマントを羽織った姿の格好良さ」等と言っても通じないのは解っている。
私淑していた元日本興業銀行常務の故上田正臣氏が「清新の気溢れる新進気鋭の青年たちが共に寮で暮らして勉強し、切磋琢磨していた事で、どれほど多くの優れた人材を世に送り込んでいたかを思う時に、あの制度が廃止されたのは返す返すも残炎だった」と回顧されたのを思い出した。
我々昭和20年(1945年)に旧制の中学校に入学した者は3年が終わったところで同じ中学が新制高等学校に変わった為に、突如として高校生になってしまった。その結果で旧制高等学校に進学出来るかも知れない(する?)機会を失ってしまったのである。2期上までの人たちの中からは中学5年で高等学校乃至は大学の予科を受験できて進学して行かれた。
我々の年代は同じ学校で6年続けて学ぶことになったのは寧ろ幸運で、充分に切磋託する時間があったし、同期の仲間たちと非常に親しくなり、言うなれば心が通じ合う同期生が多くなったという利点があった。それと比べれば、現在のように3年毎に切ってしまい、受験まであるような制度には、何となく疑問を感じざるを得ない。
聞くところでは「六・三・三」なる制度は、当時の進駐軍の教育面の担当者の出身の州での制度であり、アメリカ全体の制度ではなかったにも拘わらず、押しつけられたものだという事。それを未だに墨守しているとは、平和憲法を守っていることにも似た現象のように思えてならない。「北帰行」を聞いただけで、これほどの思いが浮かんできた次第。
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