「資本」論筑摩書房このアイテムの詳細を見る |
この本は、その意図を聴くときわめて難解に思える。
社会契約論、自然状態という言葉を、思想家ごとに、
「相違を腑分けする系譜学的作業、さらにはそうした相違を生み出すメカニズム、どのような条件の下で、どのような社会契約が可能となるかあるいはならないのか、についての経済学的にいえば『比較静学』、更にそれらが歴史の過程の中でどのように変化するのか、についてどう学的に重点を」
置くこれが、この本の趣旨のようなもので、著者はこれを「生態学的(エコロジカル)アプローチ」と呼んでいる。
さて、一見難解なこの論旨を順を追ってみていこう。
Ⅰ.「所有論」
1.戦争状態と所有
ホッブス-自然状態⇒統治権力が存在せず実定法がない状態
:戦争状態、無政府状態
ロック-自然法あり、秩序ある無政府状態
:ロックでの社会契約は、自然状態でも一応は実現している支配をより確実なものにするためにある。
国家への服従理由は自由意志。
2.国家の存在理由は?
ヒューム-国家への服従はここに利益がある。
:ホッブス的な自然状態を前提としている。
「安全で幸福」に生きるために社会契約がある。
3.私的所有への批判の矢
☆ジャン=ジャック=ルソー『人間不平等起源論』
:著者は、時代こそ前後するが、後に出てくるアダム・スミスの議論はすでに前もってルソーにより批判されつくしているとしている。
-自然状態
⇒ルソーは、ロック、ホッブスの自然状態の定義は、ある意味ですでに、自然な状態ではなく、「社会状態」にあると批判した。
そうではなくて、一人ひとりの人間が孤独のうちに、ばらばらに生きているというのが「自然状態」であるとした。
ルソーの「自然的」社会契約論
:人はもともとこういう孤独な平和の中に生きていたのに、やがて人口が増えてきて、それまで会わずにすんでいた人とがあちこちで出会うようになり、社会というものができてしまい、その中でホッブス的な不都合が生じてきて、そのために国家を作った、というわけです。ところがその国家によって、人々はかえって不幸になっている。その理由はまず第一に、国家のもとでは自然状態において享受していた自由が奪われてしまっているということであり、そして第二に、国家のもとでの所有権の確立によって、人々の不平等が固定してしまうことです。(80ページより)
この意見は、著者は不自然なものである反面、ホッブス的国家は自然状態より善い状態になることで始めて意味を持ちえるとしたこと、先に述べたように、アダム・スミスてき市場経済至上主義への反論をない方していることとして評価している。
☆アダム=スミス
:現在につながる市場主義を説く。
Ⅱ.「市場」論
交換=「違うもの同士の交換」
:所有権の移転⇒人々がより幸せになることに寄与
⇒各自の比較優位性を前提とした「分業」の発達に。
アダム=スミス
:「市場的交換を通じた分業」の利益
:分業が進めば労働の内容が単純化して、さほどの知識も技能も必要ではなくなり、労働者階級たる庶民の知性、徳性は次第に衰えていくのではないかという会議も含む理論。(120ページ参考)
Ⅲ.「資本」論
(アダム=スミスの続き)
労働力、資本、土地を生産資源のひとつとして捉える。
⇒(労働)市場で取引されるものとして
所有と経営の分離:資産としての企業組織という捉え方
Ⅳ.「人的資本」論
マルクス
「本源的蓄積」-資本化からお金を集めること
-労働者階級からの強奪
-労働者の自由意志による労働とその矛盾
:疎外された労働
資本化の指揮下にかれて労働をし、機械のねじ的な働き方をしいられる。
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著者は敢えて、結論的なものを具体的にメッセージのような形でおいているわけではないが、この本では、げんぜい進行中のアダム=スミスに端を発する市場原理主義的傾向の中で、身体を資本として捉えることの可能性を説いている。