日本人にとって自我とは、悲惨な概念である。
この本を読むとそういう気にさせられる。
なぜか、
この自我という概念は、西洋から輸入された概念であり、もともと日本人にはこの概念に相当する実質を欠いていた、そのことに加えて国際化、市場経済の発達により、もともとの日本的な文化まで失ってしまい、いわば「二重の欠如」とでもいうべき状況になっているからだ。(本書239項参照)
そのことが、現代の癒しブームにもつながっている。
著者はそう捉えている。
私は、そのことに加えて、ニート、フリーター問題に代表されるような若者の「変質」という問題もこの自我という問題に根源を発しているように感じる。
以下、著者の分析を追ってみたいと思う。(今回は大学のゼミで使うということも会ってレジュメ風に)
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西洋での自我
:基本的に「連続していて同一であること、人格として行為の責任主体である」。
その思想的変遷、
Ⅰ:西洋近世哲学における自我
・カント、デカルト:「思惟するゆえの自我」
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・フィヒテ:個人性としての自我(ライプニッツのそれよりは消極的な意味)
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・フッサール:意識活動としての自我
;自我は、いつでもEgo(自我)-cogito(思惟活動)-cogitation(思惟対象)という志向的構造によって活動する。(70項より)
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・ライプニッツ:「自我の個別性」
;これまでの連続性、同一性という正確に加えて、脈略性、つまりは、他者との関係の中での自我という性格が加えられた。
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・キルケゴール:自分のその時々の自分への関わりとしての「自我」
;自分が自分を意識する、高める、嫌悪する、ひっぱたく、自制する、などのように自分自身への再帰的反省的関わり
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・ニーチェ:「力への意志」としての自我
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・ヤスパース:「実存」、代替不可能な「単独者」としての自我
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[ハイデガーに置いては、これまでの中立的、記号的な「自我」というものに変化を投げかけることとなる。]
・ハイデガー:気分付けられた自我
;そのつどの気分、雰囲気に襲われながら「世界-内-存在」として生かされている。
;存在を静かに、忍耐をもって思惟し、回想し、感謝する人間(本書139項より)
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ここから現代への時代が移り、・・・
「今日の修正された資本主義社会では、十九世紀のマルクス時代と違って、資本によるあからさまな収奪は見出しにくい。行政や、組合によって、労働者はそれなりに保護されている。しかし、『グローバル化』『規制緩和』『構造改革』等の新たな標語のもとで、企業は収益を上げるために、生産。流通の合理化やリストラを進める。その過程で労働者からは労働の意義(やりがい)や、職場への帰属意識が奪われる。労働には労働者の時間、経験、スキルなど、要するに自己のすべてが込められていたはずなのに、その外化された自己は切り離されるのである
こうして、近代の啓蒙理念の下に育まれてきた主体的で同一的な自由な『自我』は、自己実現の場(労働、地域、家族)を他者を、そして自己自身を喪失する。『自我』は急速に形骸化しつつある。」(143項より)
〈ここでの特徴は西洋にても同じく見られる特長であろう。〉
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・ブーバー、レヴィナス:呼びかけ的な関係としての自我
;応答への有責
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Ⅱ:自我のゆくえ〈日本での自我〉
chap1 宮沢賢治の自我論
:自我-毎回、習慣ごとに心に生じた現象
→複数の心たちから成り立っているモザイクのようなもの
「各瞬間瞬間の相」「今にも消え入るそうな電燈」(159項より)
chap2 西田哲学の自我論
:自我-産出的な「事行」
-生死を含めた我という原事実
「直感と反省の内在的結合を可能にする超越論的な自覚」
;自我は定義できるようなものというより、もっと深いところで自己を体験しようとすること。(仏教的な自己探求)
chap3 夏目漱石の自我論
:我は我を知らずして我なり
→デカルトの自我は明確に自分により把握できるという立場に180度逆
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このように見てくると、最近になって若者の間で自我が弱まってきたという風に考えるより、元もとの日本人らしい形態に「自我」がさまよい戻ってきた結果として、現在の若者に問題視されていることが起きているような気がするのは私だけだろうか?