世界の街角

旅先の街角や博物館、美術館での印象や感じたことを紹介します。

北タイ陶磁の源流考・#31<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・6」>

2017-03-07 07:14:59 | 北タイ陶磁

<続き>

4.窯進化のケーススタディー:シーサッチャナーライ
タイ中央北部のシーサッチャナーライでは、その操業期間中の進化を定義つけようと試みられた。その窯形態の研究では簡単な地下式から移行型を経て、地表に煉瓦で構築された窯へと一連の進化過程の結果を示している。
その研究と云うか試みでは、窯様式の変更について、外部の影響の可能性はありそうにない見解である。逆に焼成陶磁の形態と装飾に関しては、影響を受けたであろうと思われる。また一連の変化過程は交易の影響、および業界の終わりを示す証拠も提供している。
この研究が1980年代初頭に始まった時、中国から陶工が訪れ、輸出産業として50の窯で開窯したとしている。(・・・これについては、当該ブログでも過去に何度か取り上げた。根拠は近世にできたチャムロン親王編纂の『年代記集成』によるものであり、400-500年前の事実をどこまで語っているかは不明で、中国側文献は何も語っていないことを付記しておく。)
国内品はモン族の活動に由来し、窯場は数平方キロ以上の広がりを見せ、数百の窯址を有している可能性を示している。
調査の最も重要な成果は、少なくとも4つの生産段階を認め、陶工である民族が変化した可能性、時間の経過により生産技術が変化したことを把握したことである。
シーサッチャナーライの最初の窯は、ヨム川の傾斜した堤防に掘られた小さな(長さ3~4m)窯で、家庭用の壺や瓶を作るために使われた。この地下式横焔窯は広範囲に見出され、壺や瓶に加えて碗、盤、灯明、人形、魚網のおもり、仏教寺院用建材を焼くために使われた。
無釉と白いスリップの上に暗緑色系の釉薬がついたものもあるが、後者は技術的な進歩と審美眼をみることができる。このフェーズをMON(Most Original Node)と呼ぶ。
シーサッチャナーライの次の変化(進化)は、製品に関する新しいアイデアで、白い胎土、黒褐色釉、化粧掛けなしの青磁が出現した。モン陶と製品形状は重複していたが、既存のモン窯で焼成された。この期間に生まれた製品は焼成技術の変更はなく、製品のみ進歩したことになる。この変化の源泉を特定しようとする試みは、決定的な要因を捕らえていないが、青磁と装飾文様はベトナムと親和性がある
生産は主に国内用に留まっていたが、輸出を含む交易品は品質を向上させ、生産量を増加させると云う時の圧力によって影響を受け始めた。交易陶磁への移行期では、新しい装飾デザインの開発と器種の拡大がみられたが、窯様式以外の生産手段の変更はほとんどなかった。
この時期地下式横焔窯から移行タイプの窯が開発された(図11)。窯は、下半分を掘削し、粘土で上部構造を構築することにより作られた。そして窯のサイズは大形化した。

その後、輸出品の生産に専念していたが、最終的な後期段階に至る。この段階で各窯は専門化する。蓋付壺や花瓶を作るのに特化したグループや建築用材に焦点を当てたグループ、大きな壺を作るグループ、人形を作るグループもあった。
これらの窯は、以前のモデル(最大長14m)よりも大きく、比較的大きな燃焼室と高い昇焔壁(1m以上)、急斜度(16度)の焼成室、大きい円形の煙突(径2m以上)を有していた。これらの窯は過去からの廃窯の上に再築されたもので、一部の丘陵には10以上の窯址層が残存している(図12)。

10か所以上の窯址層のC14年代測定では、300年のスパンを示した。つまり、少なくとも300年に渡る操業である。
陶磁器生産センターとしてのシーサッチャナーライは、その全てが解明できたわけではないが、考古学的にはシーサッチャナーライの窯は、北と西方及び輸出を前提に生産活動を行っていたことを示している。







                                   <続く>