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北タイ陶磁の源流考・#39<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・14」>

2017-03-21 08:05:53 | 北タイ陶磁

<続き>

10.内陸部領域:タイ王国・その1

タイの陶磁生産窯は、1世紀以上にわたり調査され、今日まで東南アジアで最も広く研究されている。それは比較的安定した政治情勢の反映であろう。沿岸地域に属するブリラム県のクメール陶窯を除くと、タイの陶窯分布パターンには、1つの顕著な特徴が見られる。国の北部には多くの窯群があり、密度は南に向かって減少している。生産は都市に集中しているか、周辺の村落、特に主要な輸送ルートを構成する河川に沿って集中しており、内陸農民に役立つように窯が配置されていることは明らかである。タイ南部は、既存の海上交易により将来された陶磁器が、十分に供給されたかもしれないが、タイ北部は不便であったことが、北部に集中する理由であろう。もう一つの理由は、技術の拡散を抑制する南北間の政治的および文化的な違いに関係しているかもしれない。

タイでの陶窯の創業時期は、主に野外考古学と科学的調査の欠如のために、最近でさえ不確かである。いくつかの事例では、交易関係で発見された商品(陶磁器)に関して相対的な年代観が確立されているが、ほとんどすべての場合において、国内生産は交易品が流通する前に始まった(この初期段階の年代観が不確かである)・・・(これは、何を云っているのであろうか?施釉陶を云っているとすれば、時期的に早すぎる感じがするが、土器生産を云っているとすれば、その通りであろう)。北タイの窯のほとんどすべてが地下式窯または移行型の窯のいずれかであり、その地域において、それらを超えた変化の証拠はまだ実証されていない(時代はややくだるものの、パーンでは煉瓦構築の地上窯をみることができるので、ドン・ハイン氏の見解について理解しづらい点もあるが・・・)。スパンブリーに近いバン・バンプーンのSuphanburi川の左岸に、粘土構築の移行形のような窯が広範囲に存在するが浸食されている(図29)。

イメージ 1

窯は他の多くのタイの窯と同様の形をしていたが、中部タイのドヴァラバティー(MON)陶と同様の刻印が施された、高くて肩の広がった壺(瓶)を生産していた。特に、動物文等のイメージは、他のキルン・サイトで見つかったモン陶と似ている。寺院のタイル、ビルマの印花文陶磁、クメールの彫刻文様などから、インドの影響を受けていると思われる。スパンブリーのバン・バンプーン窯が主張されているように過渡的(移行式)であれば、開発の面ではシーサッチャナーライのMON窯よりも後になるだろうが、シーサッチャナーライのMON窯からスパンブリー(バン・バンプーン)の文様が入った陶器が出土した。この窯はシーサッチャナーライの初期に運用されていた窯である。窯址の研究では、このような明らかな矛盾が生じる。それらはスパンブリー(バン・バンプーン)窯の定義付けにおける誤り、またはシーサッチャナーライの移行窯が採用される前にスパンブリー(バン・バンプーン)で移行式が開発された可能性によって説明される必要がある。バン・バンプーン窯は輸出をする適地であるが、その瓶(壺)の発見はまれであり、輸出ではなく船員が使用したものと思われる。


                             <続く>