<続く>
5.海岸領域・北ベトナム
東南アジアで最も歴史のある高温陶磁製造現場は、地上式窯の残骸を含む土砂が見られる、タインホア省のタム・トー村(ハノイから約150km南)にある。ヤンセ(Janse)は1930年代に幾つかの丘を発掘し、窯を「土壁」と表現した。窯は、煙突の端で最大の幅を持つプランで長方形または,わずかに台形であった(図13)。

煙突の形は不明であるが、通気孔のように見える、つまり幅が広く低く見える。観察されているように、窯は燃焼室と焼成室を隔てる昇焔壁をもち、床は傾斜している。ヤンセは、焚口は2つで大きいと説明したが、焼成室は2つに分かれてはいないようである。最小の窯は長さ6.5メートル、幅は約2メートルだが、主として長さ8.9メートルから11メートル、幅2.45メートルから2.9メートルである。この時期の地元の墓は煉瓦で造られていたが、これは窯のために使われていたかもしれないものの、タム・トー窯の粘土構造は、窯が煉瓦ではなく粘土から作られたものであることを示唆している。上の窯の下にある古い窯の遺構は、長期間の操業期間を示している。主な製品は、瓶、花瓶、盤、およびカップ(しばしば刻花または印花されたパターンで、場合によっては緑色の釉薬で飾られたもの)、糸車、タイル、動物肖形である。
ヤンセは、出土する陶磁のタイプと硬貨に基づいて、「明らかに中国人によって運ばれたり、指導された」と指摘した。おそらく西暦2世紀からの中国の三国から南北朝(220-587)の時代、ベトナム北部は中国の領土であり、タム・トーでの陶磁生産の開始は、おそらく中国の商業的関心の延長線であった。ヤンセは、漢から宋(960-1279)王朝までの窯の残骸が残っていて、1930年代に窯業を続けているベトナムの陶工たちが、「永続的なプロセスを持っているように見える」と指摘している。
ハノイの東にあるドゥオンサー(DuongXa)で最近発見された9世紀後半から11世紀に属する同様の窯(図14)は、タム・トーの子孫の一部である可能性もあると云う。

(当該ブロガー注釈:何をもって同様な窯とするのか? タムトーは長方形でドゥオンサーは楕円形かつ地下式である。尚、ヤンセによるとタム・トーはドゥオンサーに先立つとしているが、ドゥオンサーを発掘した西村昌也氏は10世紀後半の年代を与えている。またタム・トー窯は一般的に宋代と云われ、それ以前の窯址は残骸で原形を留めているか不明であるものの2世紀の年代を与えている。)
Ha Thuc CanとNguyen Bichは、タインホア省のローアムドンで13世紀の半地下式窯が多く発見されていることに留意している。ここは、部分的に地面に掘られた窯(シーサッチャナーライの移行窯のような)と地上式窯の区別の問題を提起している。定義が必要だが、本質的な違いは、掘削された地面が窯の壁として使われているかどうかということである。
ローアムドンの窯とそれに関連してタム・トーの窯が移行形または真の地上式タイプであるかどうかを判断するには、より詳細な観察が必要である。
その後タム・トーの技術伝承がハノイ地方の窯群の何処か、または未だ発見 されていない別の北部の地点で見つかるかどうかは不明だが、あるとすれば、技術的属性の類似性が考えられる。タム・トーの窯とベトナムの中央海岸・ビンディン省のクイ・ニョンの窯の間には類似点がある。中国から中部ベトナムへの直接的な影響の可能性もあり、それはタム・トーの影響とは別の出来事であったであろう。そうであれば技術的に、場合によっては地理的に関連した源流からの移行が起こっている可能性がある。
<続く>