<再開>
京都・神戸紀行を記事にしていたので一時中断していた。度々の中断で恐縮であるが再開する。
8.内陸領域・ミャンマー:その2
ミャンマーで考古学的に発掘されたのは、2つの地上式横焔窯のみである。1つはラグンビーで、ペグーの近くの12世紀の環濠都市(図20)である。
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窯は内陸部のほとんどが、そうであるように他の地上窯によく似ており、形状は卵形で長さが約10メートル、幅が4.5メートル、単室窯で昇焔壁をもち、焼成室は斜度があり煙突を有している(図21)。
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ラグンビー地域の窯とトワンテの窯の特徴の1つは、焚口に向かって燃焼室を狭くすることで、それは三角形になっている。 ミャウンミャの地下式窯のように、燃焼室の床は昇焔壁に向かって傾斜している。もう1つの奇妙なことは、煙突の後ろにある直径約25センチメートルの穴で、これは地面の高さにほぼ一致している。その目的はテストピースを引き出すことができるようにすること、または単に視覚的に焼き上がりの進行をチェックすることができためと思われている。ミャウンミャの窯の同様の開口部は50センチメートルで、商品の通路として使用されるのに十分な大きさである。この機能は、ビルマでは一般的かもしれないが、東南アジアの他の地域では知られていない。内陸部のほとんどの地上窯と同様に、これらのビルマ窯は、厚さ約11センチメートル、幅23センチメートルの大きな生レンガ(日干し煉瓦)(図22)でできている。
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トワンテ近くのKangyigoneで発掘された同じタイプの窯はより大きく、昇焔壁の近くの焼成室の天井を支えるための一対の正方形の柱を持っているが、柱が窯の設計の一部として建設されたかどうかは分らず、問題が発生したときに追加された可能性もある(図23)。
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これは、内陸部の窯で支柱をもつ唯一の例である。これらの窯は、ラグンビーなどの窯のように、灰釉と、緑色と茶褐色の陶磁を生産したことが知られている。
発掘された第2のレンガ造りの地上窯は、イラワジ川デルタのマウンミャに近いミョーハンである。第1のラグンビーと比較すると窯の形式、焼成された製品の同期関係は明らかになっていない(どちらのサイトの陶磁も他のものとの関連が見つからなかった)。この窯は、無釉土器や鉢や灰釉の動物肖形モデル瓶を作るために使用された(図24)。
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窯は、ラグンビーで使用された約半分のレンガで造られ、長さ約11メートル、幅3メートルである。
―ミャンマーの現代窯の説明・省略―
ラグンビーと似たタイプの地上式横焔窯を使用した別の施釉陶磁生産拠点は、イラワジ・デルタのナプドゥーで、緑釉と灰釉の陶磁が生産された。アラカンのミャウッウでは、窯は類似しているが、鉛釉を施した高火度の陶器が生産された。地元の博物館にカラー・タイルと、白色の鉛釉に青い絵の装飾が施された中型の瓶が展示されている。
ペグーでは錫鉛陶磁、特に寺院装飾用の磚(タイル)をみる。またペグーに多い建築用具、屋根瓦等は現地生産されているが、現在ミャウッウだけが焼成窯と確認されている(新たな発掘で焼成地は別に存在したことが明らかになりつつある)。
これまでに知られている地下式と地上式の横焔窯は、ビルマの歴史的な窯のほとんどを占めている。しかし、タイとラオスに在る伝統的な地下式窯と同様の現代の地下窯が、インレー湖の南端に位置するチャウタイン(Kyauk Taing:ただし歴史的に存在したとの証拠はない)に何カ所か存在する。これらの窯形態は移行型であるが、歴史的発展を示す証拠はビルマでは見つかっていない。
ビルマにおける横焔式窯の形態は、地域や時間の経過とともに変化するが、現時点では情報(知見)がばらばらでパッチワークのようにまとまりがなく、進化の過程や類似性の評価が困難である。
もう一点複雑な課題がある。鉛とアルカリ(灰)釉薬の使用について、広範囲で用いられているものの、それが別々に使用されている。各生産現場では、鉛と灰釉薬の両方を同時に使用することは知られておらず、いずれかを使用している個々のサイトがビルマに点在している。大きな水甕や所謂コンテナの類は、寺院の磚やタイルの場合のように、鉛釉薬でコーティングされているものが存在する。錫鉛の不透明釉薬は、生産現場が未だ確認されていない(2016年ドン・ハインによりマルタバン近郊の発掘で確認されつつある)。パガン近郊で9世紀頃から鉛釉陶を焼くために使用された窯の種類は知られていないが、少なくともその前から横焔式窯が使われてきた(根拠不十分)。灰釉陶は15世紀のシーサッチャナーライ陶(主に皿、鉢、小さな瓶)を連想させる種類の陶磁で、ビルマを代表する横焔式窯で生産された。
<続く>