世界の街角

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北タイ陶磁の源流考・#43<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・18」>

2017-03-25 06:55:20 | 北タイ陶磁

<続く>

11.技術移転の意義

陶磁生産技術は各東南アジアのサイトによって独自に考案されたものではなく、元々中国から伝えられた知識であることは明らかである(・・・と、ドン・ハイン氏は断言している。後述するようにこの結論には脇の甘さがあるものの、結論的には指摘の通りと思われる)。技術移転は基本的な原則によって、その発生の仕方が決まるであろう。

伝統的に陶磁技術は、関連するツールやプロセスに精通している達人からの知識の漸進的導入によって学ばれた。そのうちのいくつかは容易に理解され、容易に学ばれたが、微妙で複雑な技術も存在した。特に、キルンの空間的な内部構造の理解とそれの仕組みは、キルンを築くという訓練を含む長い経験から生まれた。高温を得るキルンは洗練されたものであり、十分な温度レベルと制御を習得するためには、燃焼室、焼成室、煙突の形状などの総合的知識と経験が不可欠である。うまく機能する窯とそうでない窯とは、ほとんど違いがないかもしれない。したがって失敗を排除するため、陶工たちは最高の機能を持つ既存のモデルを正確に複製した。従って現状は維持され、変化は緩やかであった。慎重に調査されたサイトでは、そのような経緯をたどることができる。

そのようなノウハウがモデル、図、または記述で表されていることを示す証拠はない。新しい窯が築窯されたときには、熟練した陶工の参加によって必要な専門知識が伝授された。すなわち、そのような熟練陶工は、新しい窯の効率的かつ成功裏のために、必要不可欠であった。要するに陶磁生産技術がある場所から別の場所に移るときには、陶工の知識・技能の移転が必要であった。彼らが造ったキルン、彼らが使用したプロセス、または彼らが作り出した品物は、移転元のサイトで使われている技術とアイデアの重複を示す。

この仮説は、機能する生産センターから陶磁産業が存在しない新しい場所への技術移転に関するものであり、民族に関係なく、陶磁生産が中国から東南アジアにどのように広がっているかの説明である。環境条件や市場の需要、革新への微妙な、おそらく意識的でない傾向に伴い、変化が起きてきたが、元の特性と属性が明らかに残る傾向が認められる。したがって、中国の親元と東南アジアの多数の子孫とも云える窯間には、交易を通した様々な文化や陶磁技術の何世代にもわたる、交渉が潜在的に存在していたと思われるこの論文では、技術伝播に最も重要な、そして最も永続的なツールである窯が、窯業地間の影響を追跡する際の主要なアーティファクトであると著者が考えていることは暗黙のところである。

窯の寿命は、いくつかの要因に起因する。生産技術の移転に欠かせないのは、経験豊かで熟練した陶工の参加が必要である。成功したモデルを忠実に再現しようとするため、窯の形の変化はまれで、その進化には時間を要した。これと比較して、商品の形態や装飾の変更は、より容易に影響を受け、単純にコピーした事例が存在する。それはスコータイやシーサッチャナーライで明らかで、ベトナムの鉄絵陶磁文様がシーサッチャナーライで見られるが、沿岸部の窯のデザインを内陸部で見ることはできない。既存のキルンサイトへの新しい形の器種や装飾文様が伝播するのに、生産技術の変更が伴っていることを実証した事例は存在しない。

(当該ブロガー注:文様の伝播は容易に模倣できるが、窯様式の伝播は熟練陶工の直接的な関与が必要だと述べている。しかし伝播する生産技術として窯以外の技術、例えば窯詰め技法や轆轤の回転方向があるがこれらは無視されている。窯様式の伝播に熟練陶工の関与があるとすれば、伝播先の轆轤の回転方向は一致するはずだが、そうなっていない・・・これに触れずに窯は中国から伝えられたとしている。これについては、別途考察したい)。

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北タイ陶磁の源流考・#42<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・17」>

2017-03-24 07:13:29 | 北タイ陶磁
<続き>
 
10.内陸部領域:タイ王国・その4
タイ中央北部の別の注目すべきサイトは、シンブリー(Singburi)近くのバン・ラチャン(Ban Rachan)で、それらはメナム・ノイ(Maenam Noi)窯と呼ばれる。レンガ造りで、長さ15メートル、幅5メートルまで測定することができ、結果として巨大な窯になっているが、内部に支柱は追加されていない(図35)。
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煙突の直径は2メートル以上で、昇焔壁の高さは1メートル以上である。いくつかの窯は巨大な人工丘陵の上に築窯されていた。大部分は粘土と窯の破片で構成されており、マウンド自体は発掘されておらず、窯の基礎となるものは不明である。中型の瓶や擂鉢などが主な製品であった。窯形式では、メナム・ノイ窯はシーサッチャナーライの後期の窯を模倣するが、サイズがより大きくなっている。
上記の窯場は、12〜18世紀の時代のどこかに属しているが、長期に継続していたと思われる一般的な創業は14-15世紀と云われ、ドン・ハイン氏の見解とやや異なっている)。
メーホンソン県のクン・ユアムの近くのフアイ・メアム・タムと呼ばれる窯場はビルマとタイの国境に近い。いくつかの周辺窯は、険しい川岸に掘られ、緑色施釉陶の瓶(壺)、鉢、およびビルマのスタイルの印花文が施された小皿などを作ったようである。
チェンマイ(Chiang Mai)では、20世紀初頭から1970年代まで、シーサッチャナーライに似たいくつかの大きな地上式横焔窯が、緑釉の家庭用雑器、中型の瓶(壺)、鉢などを作っていた(図36)。
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それらの陶工は、ビルマのシャン州から来たと言われている。このことは次のことを現わしていると考えられる。ビルマがランナーへ侵攻した1558年(ドン・ハイン氏は1569年と記す)ランナーの陶工は捕虜になりビルマに連行されて、チェンマイの陶磁技術は絶える。それがシャン州の陶工によって里帰りしたことをあらわしているであろう。

                                                                                            <続く>

                                     

北タイ陶磁の源流考・#41<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・16」>

2017-03-23 08:18:20 | 北タイ陶磁

<続き>


10.内陸部領域:タイ王国・その3

タイ中央の北部地域では、最初のタイの王都であるスコータイとその姉妹 都市であるシーサッチャナーライが、14世紀から16世紀の陶磁器輸出交易に幅広く参加したことで知られている。2つのセンターのうちどちらが最初に設立されたかについては議論があるが、シーサッチャナーライのMON陶はスコータイの小さな窯場での生産に先行しているようである。2つの場所の焼成陶磁の違いは、胎土の特徴によって容易に区別することができ、スコータイの胎土は精緻ではなく、白化粧の上に釉下彩で装飾したものに限られていた。スコータイのレンガ造りの横焔窯は、シーサッチャナーライのものと似ているが、小さくて独自の針状のような横断面があり、窯をより丈夫にしている。どのようにして製品(陶器)を焼成室に並べたかはまだ分かっていない。20基以上の横焔窯が見つかっており、それらは昇焔式窯を含む2つの地域に集中している。昇焔式窯は無釉の屋根瓦と関連しているが、廃棄陶片には施釉陶も含まれている。その昇焔式窯が施釉陶磁にも、用いられたかどうかの結論は出ていないようである。東南アジアにおける昇焔式窯の存在は、まだ十分に究明されていない。上記のように、海岸沿岸地域では昇焔式窯が報告されておらず、他の地域でも見ることができていない。ラオスでは知られていないが、ビルマには1箇所あると云われている。今日まで、タイではこの種の窯のほとんどが横焔式窯と共に発見されている。屋根瓦や鉢を製造するために使用されたシーサッチャナーライでは、更新された窯がある。スコータイの40余りの昇焔式窯の1つに二重の焼成室がある。シーサッチャナーライで発見された幾つかのように、それは通常の円形の形状ではなく方形である。ナコン・シー・タマラート付近の南に、昇焔式窯があると報告されているが、明確な図面や資料は存在していない。ピサヌローク県のバン・タオハイ(タ・パ・カオハイ窯 図32)では、1985年に土手の5箇所に窯址が発見され、1つは1984年に発掘された。

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ナーン川の左岸に位置する窯は、煉瓦をV線に沿って敷くことによって作られた、独特の形態を示している(シーサッチャナーライとスコータイは同様のテクニックを使用したが、やや異なるパターンであった)。主な利点は、フレームワークを必要としないことで経費を削減した。主な製品は、貯蔵壺、蓋付壺、球状壺、擂鉢、小鉢、やシーサッチャナーライでみる口縁が波打つ壺(瓶)などであった。出土した焼物の中には黒褐色や茶色の釉薬のものもあったが、ほとんどが焼締め陶であった。この発見には、窯印をもつものを除き、シーサッチャナーライで作られたものと同一の装飾をもつものが、含まれていた。これらの幾何学的および絵画的な装飾文様は、タイの他の地域の陶磁には見られない種類のものであったが、地元の仏教寺院建設に使用された煉瓦に描かれた刻印と類似していた。またデザインのいくつかは、シーサッチャナーライで発掘されたポット・ドゥアン(pot duang)と呼ぶ銀貨の刻印(図33・34)に似ている。

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バン・タオハイ(タ・パ・カオハイ窯)のサイトは、シーサッチャナーライ後期の延長のようである。

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北タイ陶磁の源流考・#40<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・15」>

2017-03-22 07:50:32 | 北タイ陶磁

<続き>

10.内陸部領域:タイ王国・その2

チャオプラヤー川の上流域にあるランナーの窯群には、カロン(Kalong)、ワンヌア(Wang Nua)、ナーン(Nan)、パヤオ(Phayao)、サンカンペーン(San Kamphaeng)(図30)があり、これらのすべてが青磁を焼成している。多くは、シーサッチャナーライのMON陶、特にパヤオの陶磁によく似ている。最近インターキン(Intakhin)窯が発掘された。窯は同じタイプで、同様の焼物を生産していた(図31)。調査が進んでいないもう一つのキルン・サイトはランパーンに存在する。

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パーンの近くにある窯群の2つのグループの1つは、窯がレンガで造られた地上式であるという点で、北タイでは非典型的である。窯の形態、焼成技術、および製品は、シーサッチャナーライの後期段階に類似しており、現時点ではパーンはそのシーサッチャナーライからの技術移転とすれば、最もうまく説明することができる。

サコーンナコン県のアカッド・アムヌアイ地域にある現代窯の東に、ソンクラム川に沿って点在する、おそらく数百基もの移行タイプと思われる横焔式窯を含む8つ以上のサイトがある。報告によると、窯は部分的に川岸に掘られ、粘土で天井部分が追加されている。長さが約5メートル、幅が2.5メートル、直径が約70センチメートルの丸い、またはおそらくやや方形の煙突を持つ細い窯である。瓶(壺)が瓦礫の中に見いだされ、この地域の二次的な火葬埋葬地から回収された茶色がかった釉薬の壺と特徴が同じである。火葬埋葬のための壺の使用は、シーサッチャナーライのMONとの文化的関係を示唆している可能性があり、同じ埋葬物が発見されている。出土する壺の耳のデザイン要素は、シーサッタナーク、バン・サンハイ(以上ラオス)。ランナー、シーサッチャナーライと共通している。


                           <続く>

 

北タイ陶磁の源流考・#39<ドン・ハインの「東南アジアの窯業系統・14」>

2017-03-21 08:05:53 | 北タイ陶磁

<続き>

10.内陸部領域:タイ王国・その1

タイの陶磁生産窯は、1世紀以上にわたり調査され、今日まで東南アジアで最も広く研究されている。それは比較的安定した政治情勢の反映であろう。沿岸地域に属するブリラム県のクメール陶窯を除くと、タイの陶窯分布パターンには、1つの顕著な特徴が見られる。国の北部には多くの窯群があり、密度は南に向かって減少している。生産は都市に集中しているか、周辺の村落、特に主要な輸送ルートを構成する河川に沿って集中しており、内陸農民に役立つように窯が配置されていることは明らかである。タイ南部は、既存の海上交易により将来された陶磁器が、十分に供給されたかもしれないが、タイ北部は不便であったことが、北部に集中する理由であろう。もう一つの理由は、技術の拡散を抑制する南北間の政治的および文化的な違いに関係しているかもしれない。

タイでの陶窯の創業時期は、主に野外考古学と科学的調査の欠如のために、最近でさえ不確かである。いくつかの事例では、交易関係で発見された商品(陶磁器)に関して相対的な年代観が確立されているが、ほとんどすべての場合において、国内生産は交易品が流通する前に始まった(この初期段階の年代観が不確かである)・・・(これは、何を云っているのであろうか?施釉陶を云っているとすれば、時期的に早すぎる感じがするが、土器生産を云っているとすれば、その通りであろう)。北タイの窯のほとんどすべてが地下式窯または移行型の窯のいずれかであり、その地域において、それらを超えた変化の証拠はまだ実証されていない(時代はややくだるものの、パーンでは煉瓦構築の地上窯をみることができるので、ドン・ハイン氏の見解について理解しづらい点もあるが・・・)。スパンブリーに近いバン・バンプーンのSuphanburi川の左岸に、粘土構築の移行形のような窯が広範囲に存在するが浸食されている(図29)。

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窯は他の多くのタイの窯と同様の形をしていたが、中部タイのドヴァラバティー(MON)陶と同様の刻印が施された、高くて肩の広がった壺(瓶)を生産していた。特に、動物文等のイメージは、他のキルン・サイトで見つかったモン陶と似ている。寺院のタイル、ビルマの印花文陶磁、クメールの彫刻文様などから、インドの影響を受けていると思われる。スパンブリーのバン・バンプーン窯が主張されているように過渡的(移行式)であれば、開発の面ではシーサッチャナーライのMON窯よりも後になるだろうが、シーサッチャナーライのMON窯からスパンブリー(バン・バンプーン)の文様が入った陶器が出土した。この窯はシーサッチャナーライの初期に運用されていた窯である。窯址の研究では、このような明らかな矛盾が生じる。それらはスパンブリー(バン・バンプーン)窯の定義付けにおける誤り、またはシーサッチャナーライの移行窯が採用される前にスパンブリー(バン・バンプーン)で移行式が開発された可能性によって説明される必要がある。バン・バンプーン窯は輸出をする適地であるが、その瓶(壺)の発見はまれであり、輸出ではなく船員が使用したものと思われる。


                             <続く>