台風18号は、大きな爪痕を残して日本列島を過ぎ去った。
京都、福井など、被災された地域の方々には、心からお見舞いを申し上げます。
それとは少し話はそれるのだが、台風中継に関しての話をしたいと思う。
毎回のように、アナウンサーや記者が台風現場に出て、「目を開けていられないほどの強風です」「水位が上がって氾濫をしそうです」「波しぶきがすぐ近くまで来ています」などという報道方法をしている。
あれは、必要なのか。
「臨場感があって、いいじゃないか」と、すべての友人たちが言う。
しかし、私は言うのである。
アナウンサーや記者が、芸人のように体を張る必要があるのか。
映像と言葉だけで表現するのが、プロではないのか。
あれを「報道」というのは、違うのではないか。
「いや、ありのままの現場を伝えるのが報道だから、あれはあれでいい。視覚的に、とてもわかりやすい」
しかし、視覚的にと言うなら、映像と音声だけでも普通に伝わるだろう。
現場で、状況を叫ぶだけの報道は、最も安易な表現方法ではないのか。
あんな方法で、「こんな豪雨は初めてです」「危険が間近に迫っています」と言われたら、遠く離れた場所の災害が、ニュースの中だけの出来事だけのように思えて、私にはむしろ現実感がないのだが。
私がそう言うと、友人たちは、「それは、お前のイマジネーションが乏しいからだよ」と口を揃えて言うのだ。
イマジネーションの乏しさ。
それが、キラーフレーズ(殺し文句)になったら、あとは何も言えなくなる。
他のことでも、まったく友人たちと意見の合わないことがある。
みのもんた氏の子どものことである。
彼の子どもが、「容疑者」と呼ばれる事件があったようだが、年を調べると、30歳を過ぎているというではないか。
定職を持った30歳過ぎの息子。
彼が何がしかの犯罪を犯したとしても、親を引き合いに出すのは、お門違いだろう。
私は、そう主張した。
しかし、友人たちは、「いや、親の責任は大きい。みのもんたは謝るべきだ」と言うのである。
私は、みのもんた氏が出演する番組は「学校へ行こう」以外見たことがない。
だから、特別ファンというわけではない。
彼を擁護するつもりもない。
ただ、誰が対象でも、子どもが不祥事を起こしたら、謝らなければいけない年齢は、未成年までだと私は思っている。
成人して、しかも定職に就いている身であれば、それは社会的に「立派な大人」だと判断していい。
その大人が犯した犯罪は、「彼だけ」が背負えばいいことだ。
親は、その「巣立った息子」のことまで背負う必要はない。
成人して定職に就き、独立した人格になった子は、親にとって「分離した家系」なのだ。
親として、「分離した家系」にまで責任を問われるのは、「子の自立」の観点からすると、どこか「いいがかり」の感が拭えないのである。
なんで、無理に親に謝らせる?
それは、マスコミの悪しき伝統によるものではないのか。
とりあえず、弱った人を叩く。
言い訳のできない状況で叩けば、溜飲が下がる。
相手が大物であればあるほど、その「快感」は強い。
だが、それって、ただの「いじめ」じゃないのか……。
今まで、色々なしがらみの中で守られていた人が、身内の不祥事で弱い立場に追い込まれる。
それまでは、「強いものになびく行動」をとっていた人が、手のひらを返して、「弱点を持った人」を叩く。
まったく「いじめの構図」と同じ。
そして、「犯罪」という分かりやすい構図しか目に留めない人は、感情的に「けしからん」としか思わないのである。
感情だけを前面に出されたら、「ああ」と言うしかない。
繰り返すが、30過ぎの男は、親とは分離したものだと私は思っている。
だから、彼が犯した罪は「彼のもの」。
親とは関係がない。
世間とマスメディアが「裁判所」になるのは、おかしい。
私が言いたいのは、そこだ。
「まあ、有名税だから、仕方ないよな」
したり顔で言う友人たち。
有名税。
これが、キラーフレーズ。
反論はできるが、深く掘り下げるほどの話ではないので、この話は終了。
他に、宇多田ヒカルさんのツィッターの話題も出た。
彼女がマスコミ恐怖症になっている、というのである。
「先日、週刊誌の記者に突撃されて『一週間家に張り着いて尾行してた』と言われ色々変な質問されたけど、なんかもう怖くて気持ち悪かったので一言も答えなかった。今までは何されても『彼らも仕事だし』と流してたけど、今回の一連のことで完全にマスコミ恐怖症になってしまった」
「マスコミに対する気持ちが変わったのはママの出棺の時。ある程度覚悟して助手席に座ったけど、まさか報道陣が霊柩車の前に立ちはだかって出棺を妨げてまで私を撮影すると思ってなかった。死者への冒涜だよ…」
マスメディアは、事実を知らせるのが仕事で、悲しみに打ちひしがれた人に恐怖を与えるのが仕事ではない。
それでは、体罰を「愛のムチ」などと強弁する輩と同じレベルの人間になってしまう。
相手の身になって考える。
金を貰って仕事をしている以上、最低限のルールは守らなければならない。
それができない人は、ただの「鬼畜」だ。
私がそう言うと、「そうそう、だからあいつらマスゴミは……」と皆が同調してくれた。
この場合のキラーフレーズは、「マスゴミ」。
だから、話がそこで終わるかと思ったら、「マスゴミ」「マスゴミ」と、友人たちのうるさいこと。
この場合、「マスゴミ」は、キラーフレーズというより、「酒の肴」と言った方がいいかもしれない。
ちなみに、私はマスゴミという表現には、違和感を持っています。
京都、福井など、被災された地域の方々には、心からお見舞いを申し上げます。
それとは少し話はそれるのだが、台風中継に関しての話をしたいと思う。
毎回のように、アナウンサーや記者が台風現場に出て、「目を開けていられないほどの強風です」「水位が上がって氾濫をしそうです」「波しぶきがすぐ近くまで来ています」などという報道方法をしている。
あれは、必要なのか。
「臨場感があって、いいじゃないか」と、すべての友人たちが言う。
しかし、私は言うのである。
アナウンサーや記者が、芸人のように体を張る必要があるのか。
映像と言葉だけで表現するのが、プロではないのか。
あれを「報道」というのは、違うのではないか。
「いや、ありのままの現場を伝えるのが報道だから、あれはあれでいい。視覚的に、とてもわかりやすい」
しかし、視覚的にと言うなら、映像と音声だけでも普通に伝わるだろう。
現場で、状況を叫ぶだけの報道は、最も安易な表現方法ではないのか。
あんな方法で、「こんな豪雨は初めてです」「危険が間近に迫っています」と言われたら、遠く離れた場所の災害が、ニュースの中だけの出来事だけのように思えて、私にはむしろ現実感がないのだが。
私がそう言うと、友人たちは、「それは、お前のイマジネーションが乏しいからだよ」と口を揃えて言うのだ。
イマジネーションの乏しさ。
それが、キラーフレーズ(殺し文句)になったら、あとは何も言えなくなる。
他のことでも、まったく友人たちと意見の合わないことがある。
みのもんた氏の子どものことである。
彼の子どもが、「容疑者」と呼ばれる事件があったようだが、年を調べると、30歳を過ぎているというではないか。
定職を持った30歳過ぎの息子。
彼が何がしかの犯罪を犯したとしても、親を引き合いに出すのは、お門違いだろう。
私は、そう主張した。
しかし、友人たちは、「いや、親の責任は大きい。みのもんたは謝るべきだ」と言うのである。
私は、みのもんた氏が出演する番組は「学校へ行こう」以外見たことがない。
だから、特別ファンというわけではない。
彼を擁護するつもりもない。
ただ、誰が対象でも、子どもが不祥事を起こしたら、謝らなければいけない年齢は、未成年までだと私は思っている。
成人して、しかも定職に就いている身であれば、それは社会的に「立派な大人」だと判断していい。
その大人が犯した犯罪は、「彼だけ」が背負えばいいことだ。
親は、その「巣立った息子」のことまで背負う必要はない。
成人して定職に就き、独立した人格になった子は、親にとって「分離した家系」なのだ。
親として、「分離した家系」にまで責任を問われるのは、「子の自立」の観点からすると、どこか「いいがかり」の感が拭えないのである。
なんで、無理に親に謝らせる?
それは、マスコミの悪しき伝統によるものではないのか。
とりあえず、弱った人を叩く。
言い訳のできない状況で叩けば、溜飲が下がる。
相手が大物であればあるほど、その「快感」は強い。
だが、それって、ただの「いじめ」じゃないのか……。
今まで、色々なしがらみの中で守られていた人が、身内の不祥事で弱い立場に追い込まれる。
それまでは、「強いものになびく行動」をとっていた人が、手のひらを返して、「弱点を持った人」を叩く。
まったく「いじめの構図」と同じ。
そして、「犯罪」という分かりやすい構図しか目に留めない人は、感情的に「けしからん」としか思わないのである。
感情だけを前面に出されたら、「ああ」と言うしかない。
繰り返すが、30過ぎの男は、親とは分離したものだと私は思っている。
だから、彼が犯した罪は「彼のもの」。
親とは関係がない。
世間とマスメディアが「裁判所」になるのは、おかしい。
私が言いたいのは、そこだ。
「まあ、有名税だから、仕方ないよな」
したり顔で言う友人たち。
有名税。
これが、キラーフレーズ。
反論はできるが、深く掘り下げるほどの話ではないので、この話は終了。
他に、宇多田ヒカルさんのツィッターの話題も出た。
彼女がマスコミ恐怖症になっている、というのである。
「先日、週刊誌の記者に突撃されて『一週間家に張り着いて尾行してた』と言われ色々変な質問されたけど、なんかもう怖くて気持ち悪かったので一言も答えなかった。今までは何されても『彼らも仕事だし』と流してたけど、今回の一連のことで完全にマスコミ恐怖症になってしまった」
「マスコミに対する気持ちが変わったのはママの出棺の時。ある程度覚悟して助手席に座ったけど、まさか報道陣が霊柩車の前に立ちはだかって出棺を妨げてまで私を撮影すると思ってなかった。死者への冒涜だよ…」
マスメディアは、事実を知らせるのが仕事で、悲しみに打ちひしがれた人に恐怖を与えるのが仕事ではない。
それでは、体罰を「愛のムチ」などと強弁する輩と同じレベルの人間になってしまう。
相手の身になって考える。
金を貰って仕事をしている以上、最低限のルールは守らなければならない。
それができない人は、ただの「鬼畜」だ。
私がそう言うと、「そうそう、だからあいつらマスゴミは……」と皆が同調してくれた。
この場合のキラーフレーズは、「マスゴミ」。
だから、話がそこで終わるかと思ったら、「マスゴミ」「マスゴミ」と、友人たちのうるさいこと。
この場合、「マスゴミ」は、キラーフレーズというより、「酒の肴」と言った方がいいかもしれない。
ちなみに、私はマスゴミという表現には、違和感を持っています。