私がフリーランスを生業にしているから、かもしれないが、同じ夢を何度も見る。
仕事がまったく入ってこなくなって、蓄えが底をつき、家賃も払えなくなり、家族一同、路頭に迷うという夢だ。
甚だしいときは、二日連続で同じ夢を見るときがある。
全身が、寝汗でビッショリ。
たいへん寝覚めが悪い。
これは、当たり前の推測だが、仕事が入ってこなくなる恐怖心が、こんな夢を見させるのだと思う。
昔、6日間、まったく仕事がなかったことがあった。
手持ちの仕事はすべて終わって、翌週はじめに入ってくる2つのレギュラーの仕事まで、まったくないという状態。
どうせ仕事は入ってくるのだし、休むいい機会だと思って、初日は、図書館で一日調べ物をした。
そして、次の日は、キッチンでノンビリと一週間分の晩メシ朝メシの下ごしらえをしていた。
しかし、「ねえ、仕事しないの」というトゲを含んだ声が聞こえた。
来週の月曜まで、仕事は入ってこないから、今のうちに下ごしらえをね・・・。
すると、「え? 仕事ないの!」「どうすんのよ! どうすんのよ!」と足で床をドンドンされたのだ。
仕事は、必ず来週入ってくる。
しかし、それを言っても無駄だということはわかっていた。
私が独立するとき、強く反対したのがヨメだった。
「できるの?」
「無理だと思うよ」
確かに、独立しても稼ぎは悪いし、生活が不安定だったのは事実だったので、私は反論しなかった。
反論すると自分が惨めになるので、私は随分前から反論することを諦めていた。
安息の地だと思っていた家が、実は「安息の地」ではなかったという現実。
稼ぎの多かった月は当たり前のように受け入れ、稼ぎの少なかった月だけ空気が澱む日々の繰り返し。
3日目。
朝4時に起きて、家族全員の朝メシと息子の弁当を作った。
それから、花屋のパートに出るためにヨメが起きる5時前に、私は家を出た。
埼玉のメガ団地から、自転車に乗って、最寄りの駅に行き5時台の始発に乗った。
そして、当時、神奈川横須賀でコピーライターをしていた友人を朝イチで訪ねたのである。
駅前のカフェで時間をつぶして、9時に電話した。
家出してきた。
だから、事務所で暇をつぶさせろ。
友人は何も聞かずに、事務所に招き入れてくれた。
眠いから寝かせろ。
この無茶な要求にも友人は文句を言わずに、ソファを指さし、横になった私に毛布をかけてくれた。
眠りから覚めたのは、午前11時半を過ぎた頃だった。
目が覚めたとき、友人の奥さんが目の前にいた。
「よく眠っていましたね。
さあ、ピクニックに行きましょうか」
え? ピクニック?
「三笠公園で、昼メシを食おうって話だ」
友人の運転するエスティマに乗って、途中で食い物と飲み物を仕入れ、三笠公園に向かった。
レジャーシートを敷いて、ビールを飲みながら、総菜を食った。
友人は、酒が飲めないので、右の小指を立てて、午後の紅茶を飲んでいた。
友人の奥さんは、酒豪なのでビールだ。
実は、私には貧血と不整脈の持病があった。
不整脈は季節を選ばないが、貧血はなぜか5月、6月に症状が出ることが多かった。
このとき、6月初旬の私は、貧血に悩まされていた。
2杯目の缶ビールを飲んだら、地球が回った。
「どうしました!」
友人の奥さんは、元ナースだった。
冷静に脈を測り、目ん玉と下まぶたを覗き込まれた。
「典型的な貧血ですね」
服のボタンを緩められ、ジーパンのベルトを外された。
足の下にバッグを差し込まれ、足の位置を高くされた。
そのまま、30分放置された。
「一過性ですから、大事には至らないでしょう」
とても安心感のある声と顔で、覗き込まれた。
その顔を見て、荒んだ心の揺らぎが収まった。
友人がエスティマまで担いで運んでくれた。
「埼玉まで送る」
携帯を確認すると、娘から沢山のメールが来ていた。
何も言わずに家を出た私を心配するメールだった。
娘のメールには、いつもすぐに返事を返していたが、このときは返事を返さなかった。
どう説明したらいいか、わからなかったからだ。
横須賀から埼玉のメガ団地まで、私は眠っていた。
目を閉じてすぐ、深い眠りに入ったのだった。
着いたのは午後7時前だった。
友人と奥さんに礼を言った。
「こんな状態で家出なんて、自殺行為だな」と友人に笑われた。
そして、「オレは来週半ばまで、仕事がほとんどないから、体が良くなったら、また遊びに来てもいいぞ。車で埼玉まで迎えに行ってやってもいい」と言われた。
そのあと、奥さんから「市販の鉄剤です。毎日飲んでください」と袋を渡された。
私が寝ている間に、どこかの薬局で買ったものだろう。
ありがとう。
迷惑をかけたな。
悪かった。
深くお辞儀をしている間に、エスティマはいなくなった。
娘に、メールを返した。
いま、郵便局前にいる。
これから帰る。
「腹が減った。
早く晩ご飯を作れ」
団地の号棟の階段まで歩いていった。
一階の階段に、娘が座って待っていた。
迎えにきたのか、と聞いたら、「郵便物を確認に下りてきただけだよ」と娘は言った。
このとき、娘は小学校5年生。
自分の家こそが「安息の地」と思っていたのが、実は幻想だということがわかった日に、階段で娘の笑顔を見た。
あとで、ご近所の人に聞いたら、娘は午後5時前頃から階段に座って、私の帰りを待っていたらしい。
娘が3歳の頃、私が仕事から帰ると、足音を聞き分けて、玄関で私を待っていた。
私の顔を見ると、玄関でピョンピョンとはねて、「お帰り-!」と歓びを表現した娘。
授業参観に行くと、私の顔を認めてから、元気よく先生の質問に答えた小学2年の娘。
一緒に買い物に行ったとき、掴んだ私の手を絶対に離さなかった小学4年の娘。
「早くお風呂に入ろうよ」と私の手を引いた小学6年の娘。
どんな小さなことでも、幼稚園や小学校、中学校、高校、大学で起きたことを報告してくれる娘。
安息の地は「幻想」だったが、娘の存在だけは幻想ではない。
その幻想でないものだけを生き甲斐に、それからの私は生きている。
仕事がまったく入ってこなくなって、蓄えが底をつき、家賃も払えなくなり、家族一同、路頭に迷うという夢だ。
甚だしいときは、二日連続で同じ夢を見るときがある。
全身が、寝汗でビッショリ。
たいへん寝覚めが悪い。
これは、当たり前の推測だが、仕事が入ってこなくなる恐怖心が、こんな夢を見させるのだと思う。
昔、6日間、まったく仕事がなかったことがあった。
手持ちの仕事はすべて終わって、翌週はじめに入ってくる2つのレギュラーの仕事まで、まったくないという状態。
どうせ仕事は入ってくるのだし、休むいい機会だと思って、初日は、図書館で一日調べ物をした。
そして、次の日は、キッチンでノンビリと一週間分の晩メシ朝メシの下ごしらえをしていた。
しかし、「ねえ、仕事しないの」というトゲを含んだ声が聞こえた。
来週の月曜まで、仕事は入ってこないから、今のうちに下ごしらえをね・・・。
すると、「え? 仕事ないの!」「どうすんのよ! どうすんのよ!」と足で床をドンドンされたのだ。
仕事は、必ず来週入ってくる。
しかし、それを言っても無駄だということはわかっていた。
私が独立するとき、強く反対したのがヨメだった。
「できるの?」
「無理だと思うよ」
確かに、独立しても稼ぎは悪いし、生活が不安定だったのは事実だったので、私は反論しなかった。
反論すると自分が惨めになるので、私は随分前から反論することを諦めていた。
安息の地だと思っていた家が、実は「安息の地」ではなかったという現実。
稼ぎの多かった月は当たり前のように受け入れ、稼ぎの少なかった月だけ空気が澱む日々の繰り返し。
3日目。
朝4時に起きて、家族全員の朝メシと息子の弁当を作った。
それから、花屋のパートに出るためにヨメが起きる5時前に、私は家を出た。
埼玉のメガ団地から、自転車に乗って、最寄りの駅に行き5時台の始発に乗った。
そして、当時、神奈川横須賀でコピーライターをしていた友人を朝イチで訪ねたのである。
駅前のカフェで時間をつぶして、9時に電話した。
家出してきた。
だから、事務所で暇をつぶさせろ。
友人は何も聞かずに、事務所に招き入れてくれた。
眠いから寝かせろ。
この無茶な要求にも友人は文句を言わずに、ソファを指さし、横になった私に毛布をかけてくれた。
眠りから覚めたのは、午前11時半を過ぎた頃だった。
目が覚めたとき、友人の奥さんが目の前にいた。
「よく眠っていましたね。
さあ、ピクニックに行きましょうか」
え? ピクニック?
「三笠公園で、昼メシを食おうって話だ」
友人の運転するエスティマに乗って、途中で食い物と飲み物を仕入れ、三笠公園に向かった。
レジャーシートを敷いて、ビールを飲みながら、総菜を食った。
友人は、酒が飲めないので、右の小指を立てて、午後の紅茶を飲んでいた。
友人の奥さんは、酒豪なのでビールだ。
実は、私には貧血と不整脈の持病があった。
不整脈は季節を選ばないが、貧血はなぜか5月、6月に症状が出ることが多かった。
このとき、6月初旬の私は、貧血に悩まされていた。
2杯目の缶ビールを飲んだら、地球が回った。
「どうしました!」
友人の奥さんは、元ナースだった。
冷静に脈を測り、目ん玉と下まぶたを覗き込まれた。
「典型的な貧血ですね」
服のボタンを緩められ、ジーパンのベルトを外された。
足の下にバッグを差し込まれ、足の位置を高くされた。
そのまま、30分放置された。
「一過性ですから、大事には至らないでしょう」
とても安心感のある声と顔で、覗き込まれた。
その顔を見て、荒んだ心の揺らぎが収まった。
友人がエスティマまで担いで運んでくれた。
「埼玉まで送る」
携帯を確認すると、娘から沢山のメールが来ていた。
何も言わずに家を出た私を心配するメールだった。
娘のメールには、いつもすぐに返事を返していたが、このときは返事を返さなかった。
どう説明したらいいか、わからなかったからだ。
横須賀から埼玉のメガ団地まで、私は眠っていた。
目を閉じてすぐ、深い眠りに入ったのだった。
着いたのは午後7時前だった。
友人と奥さんに礼を言った。
「こんな状態で家出なんて、自殺行為だな」と友人に笑われた。
そして、「オレは来週半ばまで、仕事がほとんどないから、体が良くなったら、また遊びに来てもいいぞ。車で埼玉まで迎えに行ってやってもいい」と言われた。
そのあと、奥さんから「市販の鉄剤です。毎日飲んでください」と袋を渡された。
私が寝ている間に、どこかの薬局で買ったものだろう。
ありがとう。
迷惑をかけたな。
悪かった。
深くお辞儀をしている間に、エスティマはいなくなった。
娘に、メールを返した。
いま、郵便局前にいる。
これから帰る。
「腹が減った。
早く晩ご飯を作れ」
団地の号棟の階段まで歩いていった。
一階の階段に、娘が座って待っていた。
迎えにきたのか、と聞いたら、「郵便物を確認に下りてきただけだよ」と娘は言った。
このとき、娘は小学校5年生。
自分の家こそが「安息の地」と思っていたのが、実は幻想だということがわかった日に、階段で娘の笑顔を見た。
あとで、ご近所の人に聞いたら、娘は午後5時前頃から階段に座って、私の帰りを待っていたらしい。
娘が3歳の頃、私が仕事から帰ると、足音を聞き分けて、玄関で私を待っていた。
私の顔を見ると、玄関でピョンピョンとはねて、「お帰り-!」と歓びを表現した娘。
授業参観に行くと、私の顔を認めてから、元気よく先生の質問に答えた小学2年の娘。
一緒に買い物に行ったとき、掴んだ私の手を絶対に離さなかった小学4年の娘。
「早くお風呂に入ろうよ」と私の手を引いた小学6年の娘。
どんな小さなことでも、幼稚園や小学校、中学校、高校、大学で起きたことを報告してくれる娘。
安息の地は「幻想」だったが、娘の存在だけは幻想ではない。
その幻想でないものだけを生き甲斐に、それからの私は生きている。