ある貧しい男がいた。
彼は、仕事をしていく上で「食事」と「睡眠」が、とても重要だと考えていた。
だが、そうは考えていても、実践している気配はない。
彼がいま住まう場所は、国立市の3DKの賃貸マンションだ。
6畳3つと10畳のDK。
3つの部屋は、彼の妻と息子、娘がそれぞれ使っていた。
彼はDKの隅っこに、大型のデスクを置いて、パソコンを2台並べ、デスクの下にA3のレーザープリンターを置いて仕事をしていた。
息子と娘は、それぞれベッドを置いて寝ていたが、ダイニングキッチンにベッドを置いたら邪魔になる。
そもそも、ベッドのあるダイニングキッチンはダイニングキッチンではない。
そこで、彼は、ダイニングキッチンの機能を残したまま、自分のための寝場所を確保することにした。
ヨガマットを使うことにしたのだ。厚さ5ミリ程度のヨガマット。
180センチ×60センチのヨガマットだ。
それに、バスタオルをクルクルと巻いて作った枕と布団を使う。快適な寝場所だ。
ヨガマットは、クルクルと巻けば、置き場所が最小限で済む。
クルクルと巻いたヨガマットとバスタオル。クルクルの2段活用だ。とても合理的だ。
広い世界で、ヨガマットをベッド代わりにしている人は、どれくらいいるのだろうか。
それを考えることに意味があるとは思えないが。
ヨガマットは快適だ。
世の中には、枕が変わると眠れないとか、マットレスの固さや柔らかさが合わない、などという方々がおられる。
眠りというのは、とても繊細なものだと思う。
でも、眠っちまったら、何も気にならない、と思う彼は野蛮な人種なのかもしれない。
電車に乗って、座れたら、彼はすぐに眠る。
だって、こんなチャンスはないんだから。
スマートフォンをいじるより、いまそこにある睡眠の方が、遥かに尊い。
スマートフォンは便利だが、彼に安らぎを与えてはくれない。
安らぎを与えてくれないものよりも、明らかな休息を与えてくれるものを彼は選ぶ。
とにかく眠る。
ヨガマットでの睡眠も貴重だが、電車内での睡眠も貴重だ。
わずかの睡眠でも、生き返った気がする。
昨日、友人の新築祝いに、井の頭線高井戸駅近くに、彼は降り立った。
もともと2階建ての家だったが、2世帯住宅にするために建て替えたのだ。
立派な家だった。羨ましかった。
成功しやがったな、この野郎、という嫉妬を隠しながら、千疋屋で買った超高級リンゴを友人に渡した。
「なんだよ~、こんな心遣いはいらないのに~」という金持ち特有の余裕のある笑顔を振りまいて、友人は新築祝いを受け取ってくれた。
殴りたい衝動にかられたが、寸前で我慢した。
「お昼を食べていけよ」と言われたが、負け犬は30分で帰ると決めていたので、愛想笑いをして、じゃあ、また! と明るい笑顔で、その場を逃げた。
井の頭線高井戸駅には、ガラス張りの待合室があった。風を遮る暖かい待合室だ。
負け犬は、その温々とした環境に負けて、目を閉じた途端、すぐに眠りに落ちた。
1時前に寝て、起きたのは3時過ぎだった。
完璧に疲れが取れた。
疲れが取れた彼は、バッグからアルミホイルに包んだ特大のおむすびを取り出して食った。
南高梅が3つも入った特製のおむすび。沢庵が二切れ付いた本格的なおむすびだ。
おむすびモグモグ、沢庵パリパリ。
同じ待合室にいた人が、彼を見ていたが、食い気には勝てない。人様の視線など知ったこっちゃない。
おむすびを食った彼は、とても満足した。
食い物と睡眠を同時に取ることができたのだ。
人間の営みのほとんどの部分は、食い物と睡眠だ。
どれだけ偉い人だって、この2つがなければ生きていけない。
つまり、彼は、多くの偉人と同じく2つの欲望を満たしたのである。
満足、満足。
満足しながら家に帰ると、大学4年の娘に言われた。
「おまえ、なんか、顔が蒼いな、熱があるんじゃないか」
熱を測ったら、38.3度だった。
あれ?
熱い風呂に入って、クリアアサヒを飲んで眠った。
さっき熱を測ったら、36.3度まで下がっていた。
今日も彼は元気だ。
ヨガマットは、快適な睡眠を与えてくれているようだ。
ヨガマット、バンザーイ!