今週は、締め切りが3件重なったので、睡眠時間が削られた。
「オレ眠っていないんだよね」と眠ってない自慢をすると嫌われるらしいので、言わない。
こんな風に眠気が襲ってきたとき、私はレモンをかじることにしている。
丸ごとだ。
外国産は危ないので、必ず有機野菜を売っている店で、無農薬のものを20個くらい買うようにしている。
料理にも使うが、生でかじることの方が多い。
レモンをかじると、私は覚醒する。
仕事が続けられる。
ここで、いつものように、話が11メートルほど飛ぶ。
小学校5年生のときのことだ。サエキという同級生がいた。女子だ。
サエキは、体が弱かった。
学校に来るときは、調子のいいときは松葉杖。悪いときは車椅子だった。
車椅子のときは、学校がバリアフリーではなかったので、同級生たちが車椅子を持ち上げて2階の教室まで運んだ。
サエキは絵がとてもうまかった。
そして、私の絵をよく描いてくれた。
いつも走っている絵だった。
サエキが言った。
「マツはいいよな。いつも気持ちよさそうに走っているもんな。アタシは、マツの走っている姿を見るのが好きだよ」
体育がいつも見学だったサエキが描く私は、明らかに本物よりもいい男だった。
それを見て、私は「誰だよ!」といつも突っ込んだ。
小学校6年の5月、サエキが入院したということを担任から知らされた。
なかなか退院してこないので、私は一人で病院に見舞いに行った。
病室に入ったとき、ガリガリに痩せたサエキの姿を見て、私は衝撃を受けた。
重病人の顔だった。
しかし、それでもサエキは、私の見舞いを喜んでくれて、「マツ、秋の運動会、楽しみにしているからな。またブッチギリ頼むぞ」と病人とは思えないような強い目線を向けて、私を励ました。
何も言い返せなかった。
帰り道、私の心は打ちのめされて、とても凶暴になった。
目黒川にかかる橋の下に打ち捨てられた自転車を、獣になった私はうなり声を上げながら、何度も蹴った。
左足の感覚がなくなるまで、蹴った。
それでも、気が収まらなかった。
一学期最後の日。
朝早く来て、私は校庭を軽く走っていた。
そのとき、担任がやってきて、サエキが死んだことを知らされた。
足下から血の気が引いていく感覚を私は初めて味わった。脳がしびれた。自分が立っているのかさえ、わからなかった。
そのあと私の足の下の地面が崩壊した。
クラスを代表して、私が葬儀に参加した。
出棺のとき、誰かにレモン色をした風船を渡された。クラクションとともに、その風船をみんなで解き放った。
空に舞い上がるレモン。
あとで聞いたら、サエキの祖父は淡路島でレモン農家をしていたらしい。
サエキは、そのレモン農家を継ぐのが夢だったというのだ。
残酷にも、その夢は叶わなかった。
葬儀が終わって4日経ったとき、私は担任に呼び出された。
そのとき、一枚の原稿用紙を渡された。
「読んでみろ」
それは、サエキの5年生のときの作文だった。
「私は体が弱いので走ることができない。でもM君の走る姿を見て、私はいつも励まされている。M君は私の代わりに走ってくれているんだと自分で勝手に思っている。いま私は、走ることができないけど、いつかM君のように楽しそうに走りたい」
そんなことが書かれていた。
「サエキのご両親が、これは君が持つべきだと言っているんだ。重いものかもしれないが、貰って後悔はしないと先生は思っている。それがサエキへの供養じゃないだろうか」
そのとき、バカな私は「供養」という言葉を知らなかった。
だが、「供養」という呪文のような言葉に引きつけられて、家に持ち帰った。
その作文は、大分色あせてしまったが、いまも手元にある。
そして、レモン。
レモンをかじれば、私は覚醒する。
それは、きっとサエキが覚醒させてくれているのだ、と私はいまも思っている。
走れなかったサエキ。
走るのが夢だったサエキ。
中学に上がったとき、私は迷わずに陸上部に入った。
高校でも大学でも。
そして、いまでもランニングは続けている。
サエキの代わりに・・・などと思い上がったことは私は考えない。
だが、レモンだけは、絶対に私を守ってくれていると思う。
私の仕事に、レモンは欠かせない。
レモンをかじったら、体が生き返る。
レモンが、いまも私を助けてくれている。
そのあと私の足の下の地面が崩壊した。』
全く同じ感覚がありましたね。
記事を読んで思い出しました。
小学6年か、父が『仕事首になった』と言った時でしたね...