就職活動中の娘が、水曜日、内々定を貰った。
ただ、内々定したからといって、完全に進路が決まったかというと、そうではない。
まだ、いくつかの選択肢を娘は持っているようだ。
だが、内々定はめでたい。
だから、乾杯をしようか、ということになった。
場所は、私の長い友人の尾崎が中野でやっているスタンド・バーに決めた。
実は、娘の二十歳の誕生日に尾崎に頼んで、スタンド・バーで「初飲み」をしたことがあった。
スタンド・バーだから、本来ならスツールはないのだが、尾崎が娘に気を使ってくれて、洒落たスツールを2つ用意してくれたのだ。
しかも、店を貸し切りにして。
その店は、尾崎の店ではあるが、尾崎は店には出ない。
店を取り仕切るのは、尾崎の義弟だった。
まずは、ビールを・・・ということで、クアーズライトを出された。
苦みの少ない、サッパリとした味わいのビールだ。
初めて飲むことを考慮して、尾崎の義弟が選んでくれたのだ。
その気配りは当たって、娘は「美味いな。ビールって、もっと苦いと思っていたけど、イメージが違うね」と気に入った。
2杯目は、シーバスリーガルだった。
娘は水割り、私はロックだ。
初めてのスコッチ・ウィスキー。
やや甘みのあるフルーティで飲みやすいウィスキーだ。
これも初めてだから気を使ってくれたのだろう。
3杯目も同じもの。
娘は、私に似て、酒が強かった。
1時間半で3杯というスローペースだったこともあったが、顔が赤くなることはなかった。
饒舌になるということもない。
腰を上げようとしたそのとき、今までかかっていたジャズが終わって、ZARDの歌が流れてきた。
「夏を待つセイル(帆)のように」だった。
私が、娘の名前の入ったこの曲を聴くと泣くのを尾崎の義弟は知っていて、たまに不意打ちのように流すのだ。
私が泣いている姿を見て、同じように涙を流す娘。
それを無表情に見つめる尾崎の義弟。
意地の悪い男だ。
内々定を貰った次の日。
スタンド・バー。
1杯目は、前と同じで、クアーズライトだった。
乾杯をしようとした。
そのとき、驚いたことに、尾崎の義弟が、「僕もさせてもらっていいですか」と聞いてきた。
もちろん。
3人で乾杯をした。
そして、尾崎の義弟が、私の顔を窺うように、ためらいがちに口を開いた。
「4日前に、娘が産まれました」
娘とふたり、立ち上がって拍手をした。
背を向ける尾崎の義弟。
背を向けたまま、震える声で「ありがとうございます」と言った。
名前は?
「カナンと言います。夏の南と書きます。女房が、南を2つ続けてナナと言いますので、それから取りました」
まだ、背を向けたままだった。
尾崎の義弟の背中に、私は、こんな話をした。
浜田省吾の曲に「I am a father」というのがあった。
決して、スーパーマンやヒーローではないが、家族のために懸命に働いて、家族を守るという歌だ。
そして、俺はムービースターじゃない、ロックスターでもない、ただの普通の父親として家族の明日が、いい日になることを信じている、と歌っていた。
俺は、君がカナンちゃんのために、普通の父親になってくれることを願う。
俺は、君が出す酒を信じているから、ここはとても居心地がいい。
それは、君のおかげだ。
君はロックスターではないかもしれないが、最高のマスターだよ。
私が、そう言うと娘も頷いた。
くるりと振り向いた尾崎の義弟が、握手を求めてきた。
握手した。
娘もした。
最後に出されたのは、「響」の17年ものだった。
なぜ、尾崎の義弟が、それを選んだのかが、私にはわからなかった。
だが、普段は口数の少ない尾崎の義弟が言ったのだ。
「僕の祝いの酒です。祝いたいとき、僕は必ずこれを飲みます。幸せな気分になるんです」
今までに何回これを飲んだ? と私が聞くと、尾崎の義弟は、切ない笑顔を作って「3回ですかね」と答えた。
「尾崎に、この店を任されたとき、入籍したとき、子どもが産まれたとき」と指を折った。
祝いたいときが3回。
そして、今回が4回目。
私たちは、とても貴重な機会を共有したようだ。
カナンちゃんに乾杯、とまた娘と二人でグラスを持ち上げた。
尾崎の義弟の目から涙が溢れ出してきたので、私たちは、見ない振りをして「響」を飲み干し、店を出た。
中野駅までの道。
娘が言った。
「『響』は、ボクたちも祝いのときだけに飲みたいな。ロックスターじゃないおまえには、お似合いだ」
俺は、もうスターダストだからな。
「確かに」と娘。
内々定、おめでとう。
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