8月になりました。昨日は丸一日浜松を走り回っていましたが、ちっとも8月気分にならない天気で、運転中は冷房を切り、窓を開けて自然の風で十分涼しい~。暑くならないと稼げないお仕事の皆さんはタイヘンだなぁと思いました。
さて昨日は新聞社の特集記事のリサーチで、久しぶりに樹木医の塚本こなみさんにお会いしました。静岡県の歴史と自然というお題目で自由に記事を作ってくれといわれ、夏休みの自由研究課題でも貰った気分・・・。あまりにも漠然としすぎているので、ここは、日頃から親しくさせていただいている専門家の先生にお知恵をいただこうと、自然篇ではこなみさん、歴史篇では朝鮮通信使の北村欽哉先生に相談することに。
昨日は多忙なこなみさんが、わざわざ半日空けてくれて、ご自身が治療された浜松市内の巨木古木を案内してくださいました。
まず、JR天竜川駅の近く、住宅街の一角にある『法橋の松』。こなみさんが 樹木医になって最初に治療した思い出の松です。フツウの住宅と住宅の間のわずかなスペースに、この姿で窮屈そうに立っていて、「うわぁ、しんどそう・・・!」というのが第一印象でした。
この松はもともと妙恩寺というお寺の開基・金原法橋が大事にしていた松で、樹齢は約700年。樹高14m、根回り5m、枝張りは南北18m、東西12mありますが、いかにせん、この姿。地元の人から相談を受けた静岡大学の専門家が「寿命は10年ぐらいでしょう」といい、こなみさんも最初に見た時は同様の診断をし、「安楽死させてあげたほうがいいのでは」と思われたそうです。
とりあえず倒木を防ぐ補強工事をし、栄養剤を与え、観察を始めると、余力がないと思われた枝から翌年、新芽が。新芽は毎年のように生き生きとつけ、鮮やかな緑をたたえます。・・・15年経った今は、一部分だけですが、まるで若緑のように元気そのもの。
「安楽死させなくてホントによかった・・・」と感慨深げな表情のこなみさんを見ていたら、こなみさんの仕事は、一個の生命体・・・しかも700年の命の重さを背負う、とてもとても重い仕事なんだということがしんみり伝わってきます。
次いで訪れたのは浜松八幡宮。本殿横の『雲立の楠』は、根回り14m、枝張り南北23m、東西21m、樹高15mの圧倒的な存在感!1051年、八幡太郎義家がこの木の下に旗を立てて武運を祈願したことから“御旗楠”と呼ばれ、1572年、三方ヶ原合戦で武田信玄に大敗を喫した徳川家康が、命からがらこの木の下に隠れ、その時、空に雲が立ち込めたという逸話から、“雲立の楠”の名が付けられたとか。歴史&自然の特集記事のネタとしては、願ってもないポイントです!!
こなみさんは、この楠や参道の松をはじめ、浜松八幡宮の樹木全般の保護を請け負っています。雲立の楠のケアは、まず根元に人が入らないように防護柵を設置。木に近寄って触ったりできないのは残念な気がしますが、木にとっては大事な根っこが、人間に踏まれて“窒息状態”になってしまうのを防ぐため。900年以上も人間に寄り添い、人々の思いを受け止めてきたご神体のような存在です。近寄って見られなくてもいい、いや、おいそれと近寄ってはいけない・・・そんな畏敬の念が湧き上がってきます。
木の仕事が、ビジネスから“使命”に変わったきっかけを、こなみさんは「孫が産まれたことかしら」と言います。「若い頃は自己実現のためだけにガムシャラだったけど、木の仕事と出会ってから、共に生きるということを学んだ。自分を支える家族、友人、隣人、そして自然の存在の価値。昔の日本人は大家族で地域コミュニティがしっかりしていて、共生という理念を当たり前に持っていたけど、今のように個の時代になってからは、意識して見直さないと」。
厳しい自然環境の中、生き残れずに倒れた木があるとします。木が倒れるとそこにぽっかり空間ができて、太陽の光が燦々と降り注いで来る。散らばった種が倒木の上で発芽して、朽ちる倒木を土壌代わりにして成長し、一番早く成長した木だけが太陽の恵みを十分に受け、生きながらえる・・・ある意味、シビアな生存競争ともいえる営みが、何百年という単位で繰り返されるわけです。
目の前の古木が、そういう厳しさを乗り越えて存在し続けることを思うと、自分に命を繋いでくれた親や祖父母やその前の世代、自分の命を継ぐ子や孫たちの存在が、途方もなく貴重で愛おしくなるのでしょう。
私の場合、この先、たぶん自分の子を持つことは難しいだろうけど、友人の子や、取材先で出会う子どもたちや、地酒の会に参加する大学生ですら、垣根なしに愛おしく思います。
木に関わり、子や孫に恵まれ、今は時間があれば畑仕事に夢中だというこなみさんが、共生という言葉を大切にしたいという気持ち、深く深く伝わってきます。
この8月は、こなみさんに紹介された県内の巨木や古木を訪ねて、木が与えてくれるメッセージを言語化し、体現できたらと思っています。