25日(火)夜は静岡県朝鮮通信使研究会に参加しました。朝鮮通信使研究家で郷土史家の北村欽哉先生が、毎回とても刺激的な歴史トリビアを披露してくださるのですが、今回はとびきりのトリビアでした。タイトルにも書いたとおり、朝鮮通信使が富士吉田口浅間神社に『三国富士山』という額字を揮毫していたという新発見事実。当ブログでもとびきりアクセス件数の多い朝鮮通信使カテゴリーの読者諸氏も大いに満足されるかと思います。
話は、北村先生が教職を定年退職され、フリーの郷土史家となられ、念願の朝鮮通信使扁額めぐりの旅を始められた2001年4月にさかのぼります(以下、敬語略)。
岡崎、彦根と通信使の足跡のあるまちの寺をめぐっていたとき、事前調査ではノーマークだった滋賀県のある寺に通信使の扁額があることを知り、実際に観に行ったところ、筆者名に「朝鮮国●齋」(●は「尞」という字の小の部分をカット)とありました。
先生は、●に当たる字はおそらく『春』の略字ではないかと考え、春齋という人物を朝鮮通信使一覧表で調べたそうですが、該当する人物はいません。異体辞典で再度、●の字を調べたところ、春ではなく『慎』の略字であることが判り、天和年間の1682年に来日した朝鮮通信使一行について幕府が記録した『通航一覧』の中に写字官・慎齋の名を認めました。
慎齋なる人物については、北村先生が2005年に大垣市で開かれた朝鮮通信使縁地連絡協議会(全国の朝鮮通信使ゆかりの町の関係者が集う全国大会)に参加した際、懇親会の席で通信使研究の第一人者・李元植氏と知己を得て、氏より後日、「慎齋とは天和期の上通事(通訳)だった安慎徽である」と情報提供を受けたそうです。
・・・話は逸れますが、縁地連絡協議会は大会行事もさることながら、お酒が入る懇親会で研究家同士がざっくばらんに情報交換できる機会が本当に大事なんですね。
残念ながら2007年に清水で開かれた縁地連大会では懇親会の時間や場所が十分に用意されていませんでした。私も、このとき脚本を担当した映画『朝鮮通信使~駿府発二十一世紀の使行録』の完成披露上映会があったので、全国の研究家の方々からじっくり感想をうかがいたかったのに、縁地連有志のみなさんが清水駅前の居酒屋に自主的に集まった席で、ちょこちょこっと呑み交わしただけでした。もしふたたび静岡で縁地連大会を誘致する機会があれば、懇親会を充実させてほしいと、北村先生も申しております!
それはさておき、慎齋の正体がわかってひと安心した北村先生でしたが、あるとき、静岡の郷土史料『駿国雑志』巻31に、
【富士山浅間額字】 富士郡、不二山一合目、浅間社大門にあり。其銘いわく、「三国富士山」 是 天和二年、朝鮮の人、春齋の書也
という記述を見つけます。
先生は「さては駿国雑志の編者も、慎齋を春齋と思いこんだのでは・・・」と苦笑いしつつ、富士宮周辺の浅間神社をいくつか廻ってみたのですが、該当する額は見当たりません。富士吉田まで足を延ばし、浅間神社の宝物や所蔵品に詳しい富士吉田市歴史民俗博物館の学芸員に訪ねたところ、「朝鮮通信使は東海道を通ったのだから山梨側にそんなものが残っているはずがない、吉田口富士浅間社の文物はここに書かれているものがすべてです」と、地誌『甲斐国志』のコピーをもらったそうです。
専門の学芸員がそこまで言うなら望み薄だと思いつつ、帰宅して『甲斐国志』に目を通していた先生、なんと、しっかり「朝鮮」の文字を発見!
「大鳥居、秋元氏本願トシテ再建、・・・文字三国第一山、萬珠院宮無障金剛入道二品親王良恕書、寛永十三丙子年(1636)二月十七日 秋元但馬守寄進」
「富士登山門垣ノ西隅ニアリ、額字富士山、横額、天和二壬戌年(1682)八月、朝鮮人春齋書、前ニ銅鳥居アリ」
「富士山大文字掛物 筆斉京 秋元但馬守様奉納 裏書ニ天和二壬戌秋八月 朝鮮国昼齋来朝之時染翰」
富士吉田の学芸員さんの名誉のためにも書いておきますが、甲斐国志、ものすごく字が小さくてびっしり書かれているので、膨大なページの膨大な文字の中から『朝鮮』の二文字を見つけられるのは、おそらく北村先生のように朝鮮通信使をトコトン研究している専門家だけだろうと思います。私も、ちゃんと解説を聞いてからコピーを読んだのに、見つけるのに数分かかりました(苦笑)。
それにしても、通信使と直接接点のなさそうな山梨側の浅間神社になぜ慎齋(春齋or昼齋といった誤字で書かれてますが)の揮毫が残っているのか・・・。気になるのは、ちょこちょこ名前が出てきた秋元但馬守という人物ですね。北村先生は秋元氏についてもトコトン調べ上げ、徳川家康や駿府、久能山、日光東照宮とのつながりに辿り着きます。
長くなりましたので続きはまた。