しばらく更新をサボっていたら、ネタが溜まりに溜まってしまい、どれから書こうか迷っています。イザ書くとなると、ハンパには書けない性分で、「書くぞ!」と気合をいれないと書けないのが悩み。
そんなこんなで、ちょっと時間が経ってしまいましたが、今日は5月13日(月)に参加した『駿河近郷十二薬師巡礼』について書こうと思います。
みなさんは駿河近郷十二薬師ってご存知ですか? 私はまったく知らなくて、バイトでお世話になっているお寺さんから教えてもらいました。
駿河近郷とは、正確には清水湊(清水区内)のことで、12ヵ所のお寺に祀られた薬師如来を順にお参りすること。幕末頃から始まった風習のようです。
お寺の巡拝・巡礼は、有名なところでは西国三十三箇所巡り。これは古く平安中期から始まったようです。お寺巡りがブームになったのは江戸時代で、坂東・秩父地方の三十三観音巡りから火がつき、江戸、京都、大阪などで三十三観音が選定され、ここ静岡でも駿河三十三観音や駿河百地蔵などを選定されました。これもそれも、もとは、戦乱の時代が終わって江戸の泰平の世になって、民衆が安心して旅が出来るようになったからなんだと思います。やっぱ家康さんエライ!
駿河近郷十二薬師も三十三観音にあやかって選定巡礼されたものと思われ、観音巡りと同様に、人々は御詠歌を唱えて巡拝しました。
13日は、この十二薬師を順番に回る信徒のみなさんのバスに同乗し、そのレポートを禅宗の協会誌に寄稿するお仕事。一日で12ヵ寺を回るという結構ハードなスケジュールでした。
一番ヵ寺は上清水の禅叢寺(ぜんそうじ)。享禄4年(1531)、岡部美濃守を開基とし、建長寺の雪心和尚を開山に創建。準開山にあたる九岩和尚は、織田信長の三男神戸信孝の息子神戸飛騨守の子=つまり織田信長のひ孫にあたる人だとか。開基の岡部氏はその名の通り、岡部町の出身で岸和田藩主岡部氏の先祖にあたる人で、当時、清水一帯を領有していたそうです。この寺の井戸からこんこんと湧き上がる水が、『清水』という地名の由来とか。白隠禅師が若い頃、この寺で修行し、修行の壁にぶち当たり、大いに悩んだという逸話も残っています。こんな由緒あるお寺が清水の街中にあったなんて知らなかった・・・!
薬師如来は、山門正面の薬師堂に祀られていて、もとは寺の前にあった塔頭の法西寺のご本尊だったそうです。天竺から伝来したといわれる由緒あるものですが、60年に一度しかご開帳されません。そもそも薬師如来さまというのは、人々の病苦を癒すものすごいパワーのあるほとけさまで、ふだんは厨子の中に納まっていて、パワーが強すぎるというか、パワーが放出されるのを恐れ、めったに公開しないものだそうです。
信徒のみなさんは般若心経を唱えたあと、薬師如来真言『オンコロコロ センダリ マトウギ ソワカ』を唱和します。これは以前、こちらの記事にも書いたように、意味はわからずとも発音そのものに秘めたパワーがある、という陀羅尼の一節なんでしょう。
そのあと、有志のみなさんが御詠歌を詠われました。ご存知の通り、5・7・5・7・7の和歌にリズムをつけて詠うもの。ここでは禅叢寺のことを詠った歌『むかしより 詣る道者はたえもなく まこと如来を おがむみなもと』に節がついたものが披露されました。
二番ヵ寺は追分の東泉寺。ちょうど国道1号線と南幹線をつなぐ新しい抜け道ができましたよね。そこから線路沿いすぐ。境内には地蔵菩薩や羅漢さまなど様々な石仏が並び、キンポウジュという赤いたわしみたいな珍しい花が咲いていました。天正年間(1573-91)創建の寺で、開山の樹岳宗白座元が以前からあった薬師堂を一寺として創建。ここでは薬師如来が公開されていましたが、惧れ多くて真正面から写真を撮るのをためらってしまいました。
ちなみに、薬師如来が本尊の場合、脇侍は必ず日光菩薩と月光菩薩がつとめます。奈良の薬師寺は日光と月光も麗しいほとけさまとして名高いですよね。数年前、東京国立博物館で薬師寺展があったときは、360度のお姿を拝見できて感激しました。
本尊が釈迦如来だったら、脇は獅子に乗った文殊菩薩と、象に乗った普賢菩薩。文殊さまは知恵を、普賢さまは慈悲を象徴する菩薩さまですね。「智慧を磨き、優しさや謙虚さを持て」という教え。あらたまって解説してもらうと、なるほど~とナットクです。
三番ヵ寺は渋川の金剛法寺。本尊の薬師如来は鎌倉期の仏師雲慶の作と伝えられています。寺はもともと真言宗で久能寺の末寺として鎌倉期から栄えていましたが、永禄11年(1568)武田信玄が駿河侵攻した際に焼失。江戸元禄期に臨済宗の寺として再建されました。
四番ヵ寺は北脇の西照寺。創建は文禄期(1592-95)。安政の大地震(1854)で本堂が倒壊し、仮の御堂を造ったあと、昭和に入って再建・改築されました。現在は住職が常駐しておらず、訪問時にも中に入れず、御堂の外で読経と御詠歌を捧げました。
五番ヵ寺は下野の崇寿寺。本尊の薬師如来は、もともと鎌倉の崇寿寺の本尊で、正慶5年(1336)、北条高時が討たれたとき、寺も兵火に遭い、住持の南山和尚が本尊を背負って清水のこの地まで逃れてきたのだそうです。薬師如来は弘法大師作と伝わる堂々とした木彫立像とのこと。釈迦如来の後ろの厨子の中に納められ、ふだんは写真で拝礼します。
六番ヵ寺は大内の保蟹寺。本尊の薬師如来は、なんと蟹の上に乗っています。巴川から蟹の背中に乗ってやってきたとのこと。なんだかまんが昔話に出てくる御伽噺みたいですね。昔は道端の小さな薬師堂に祀られていましたが、永禄年間(1558-69)に三河の設楽村から移住した設楽四郎左衛門が寺を建立しました。
こちらも写真でしか観られませんでしたが、これを観たら、実物も観て見たい!と誰もが思うでしょう。ご高齢の檀家さんから「生きているうちに一度拝ませてほしい」と懇願され、今の和尚さんも、「お盆のときだけでも公開しようかと考えています」とおっしゃっていました。実現するといいですね。
長くなったので、つづきはまた後で。