杯が乾くまで

鈴木真弓(コピーライター/しずおか地酒研究会)の取材日記

アメリカ西部モーターハウス旅行11~戦争の爪痕

2012-09-10 11:18:39 | 旅行記

 8月5日にネバダ州ラスベガスからスタートした今回の旅は、ユタ州、アリゾナ州を経て、19日、ニューメキシコ州アルバカーキで終わりを迎えました。
 
 
 
 
 
 最終日の18日は米空軍カートランド基地のあるアルバカーキで最後のお買い物。元米兵ショーンのおかげで、基地内のRVパークに格安で泊まり、翌19日は基地に隣接するアルバカーキ空港から朝5時50分発の国内線でヒューストンに飛び、そこから成田へ帰るという予定です。
 
 
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 アルバカーキでの最後の夜は、地元のブルワリーパブ『LA Cumbre』で地元R&Bバンドの生演奏を聴きながら、しこたまビールを呑みました(前回の記事で紹介した、サンタフェ・サケを造っているジェフは、このブルワリーからビール酵母をもらって日本酒を造っているそう)。
 
 
 
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ビールと音楽をこよなく愛する平野さんは、パワフルな黒人女性シンガーの熱唱を真正面で至福の表情で聴き入っていました。そもそも平野さんの希望で実現した旅だったので、彼女の幸せそうな姿に、ホッと胸をなでおろしました。
 
 
 
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妹夫婦はカウンターで偶然知り合った地元カップルと、インディアンジュエリーの話で盛り上がっていました。私は彼らの愉しそうな表情をつまみにビールに舌鼓を打ちながら、心の内では、この旅で初めて知った戦争の爪痕について想い起していました。出発する前、上川陽子さんとレギュラー放送しているラジオ番組の収録で、原爆や終戦について語ってきたばかりだったからです(こちらを参照)。

 

 

 

 

 

 

 

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 モニュメントバレーのビジターセンターを訪ねたとき、第二次世界大戦のときにナバホ族が「コードトーカー」として徴用され、彼らの功績で戦勝に至ったという展示がありました。・・・恥ずかしながらナバホのコードトーカーについてはこのとき初めて知りました。

 

 

 

 

 

 

 

 コードトーカーとは文字通り、暗号を操る人のこと。米軍は解読の難しいネイティブインディアンたちの部族語を暗号に用いたんですね。第一次世界大戦ではチョクトー族やコマンチ族の出身者がコードトーカーとして従軍し、第二次世界大戦ではナバホ族約400名がサイパン島、グアム島、硫黄島、沖縄に従軍したそうです。硫黄島の戦いでは、「摺鉢山の占領」を、「大きな口の七面鳥、羊の目は治療された」というナバホ語に翻訳されて司令部に報告されました。Imgp0565

 

 ナバホ語が話せても、コードトーカーとしての特殊訓練を受けていないと暗号は解読できないようで、第一次世界大戦時にヒトラーがこれに目を付け、第二次大戦時に多くの人類学者をアメリカへ派遣して言語習得させようとしましたが、ついに実現できず。ヒトラーの動きを察知した米軍は、ヨーロッパ戦線を避けて、太平洋戦争のみにコードトーカーを派遣させたそうです。

 

 

 ナバホのコードドーカーの存在は1968年に機密解除になって初めて世に知られるようになりました。彼らの功績で太平洋戦争が早期に終結し、多くの米兵の命が救われたとして、1982年にレーガン大統領から表彰され、8月14日をコードトーカーの日(National Code Talkers Day)と定められることに。2000年にはナバホ族コードトーカーに議会名誉黄金勲章(Congressional Gold Medal)が授与されています。

 

 

 8月は、日本人にとっては原爆が落とされ、敗戦が決まった特別な月だとラジオで話したばかりでしたが、ナバホの人々にとっても特別な月だったのか、と思うと、譬えようもない複雑な気持ちになります。

 

 

 

 サンタフェ滞在中に訪ねたニューメキシコ・ヒストリー・ミュージアムでもナバホコードについての印象的な展示がありましたが、その隣には、かのマンハッタン計画で知られるロス・アラモスの展示が・・・。「そうか、ロス・アラモスってニューメキシコ州だったんだ!」と今さらながら、ハッとさせられました。

 

 余談ですが、ニューメキシコ・ヒストリー・ミュージアムの日本語パンフレットには、制作者名に、『静岡県立大学国際関係学部サンタフェGPゼミ(藤巻研究室内)』とありました。平成22年度文部科学省大学教育推進プログラム「静岡県立大学国際関係学部フィールドワーク型初年次教育の構築」に採択されて制作したようです。こんなところで故郷の大学の名前に出会えてビックリ!(こちらを参照)。

 

 

 

 

 1943年に、マンハッタン計画の中で原子爆弾の開発を目的として創設されたロス・アラモス国立研究所。現在でも核兵器開発やテロ対策など合衆国の軍事・機密研究の中核で、同時に生命科学、ナノテクノロジー、コンピュータ科学、情報通信、環境、レーザー、材料工学、加速器科学、高エネルギー物理、中性子科学、核不拡散、安全保障など、様々な先端科学技術について広範な研究を行う総合研究所でもあります。場所はサンタフェから車で45分ぐらいのところです。

 

 

 設立当時、初代所長ロバート・オッペンハイマー以下、21名ものノーベル賞受賞者を擁して勧められたマンハッタン計画。この計画で開発・製造された原爆が、広島に投下された「リトルボーイ」、および長崎に投下された「ファットマン」です。

 

 

 展示フロアは、真っ白な壁に、当局によって検閲を受けたロス・アラモスの住人たちの手紙の文字が刻印された、スタイリッシュでアーティスティックなフロアでした。日本人が観るとどうにも違和感を禁じえないのですが、こういう展示をよしとするのが、アメリカ人の感覚なんだと理解するしかありません。手紙の内容からは、機密保持のために徹底的に行動監視された地元住民や科学者たちの苦しい胸の内が読み取れます。

 実際、68人の科学者が日本への原爆投下に反対して大統領に請願書を送ったり、反原爆を唱えたオッペンハイマー所長は戦後、水爆開発推進派と対立し、赤狩りにあって失脚したとか・・・。ロス・アラモス研究所はその後、政府所有の大学運営組織=GOCO形式(Government Owned Contractor Operated)となり、カリフォルニア大学が60年以上に亘り管理・運営を行ってきた後、2006年6月からはカリフォルニア大学、ニューメキシコ大学、ニューメキシコ州立大学はじめ複数の企業による、産学官連合組織Los Alamos National Security(LANS)に移行しています。

 

 

 私たちが最終日に泊まったアルバカーキのカートランド空軍基地も、米軍の中でも核兵器の戦術を担当する重要な基地だとか。戦闘機がバンバン飛び交うような実戦基地ではなく、無機質な建物がところどころに並ぶ倉庫街のような雰囲気でしたが、ここで核戦争が想定される日が来るかもしれないと思うと、ちょっぴり背筋が涼しくなりました。

 

 

 

 「あれ、日本でも話題になっているでしょ?」とショーンが指さしてくれた先にあったのは、オスプレイでした。戦闘機のメカニックだったショーンに言わせると、何かと取り沙汰されているオスプレイの事故のリスクは、一般の軍用機事故のリスクと変わりない、とのこと。私には予想もつかない世界の話ですが、大事な身内である彼の言葉を信じる立場としては、導入を声高に反対する勢力には何らかの政治的意図があるのかもしれない・・・などと思ってしまいます。

 

 

 いずれにしても、この旅の締めくくりに見学したのがホンモノのオスプレイだったというのがどうにも強烈で、今でも余韻として残っていて、この旅行記の〆もこんな話題になってしまいました。

 

 

 長々とおつきあいくださったみなさま、ありがとうございました。

 

 


アメリカ西部モーターハウス旅行10~サンタフェ・サケ

2012-09-08 10:28:15 | 旅行記

 歴史と伝統とアートに彩られたサンタフェは、全米有数の観光都市であると同時に、高所得者層が引退後に余生を過ごしたい街としても人気があります。ショップやレストランも、ニューヨーク並みにレベルの高いお店が多いそう。そんな中、妹夫婦に連れて行ってもらったのが、『Ten thousand waves』という温泉旅館と、『Shohko Cafe』という老舗の日本料理店です。

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 『Ten thousand waves』は『萬波』という日本語の看板の、見た目も中身も日本の温泉旅館そのもの。サンタフェ郊外の高級住宅街の一角にありました。16日の朝一番で行ったのですが、銭湯替わりに?通ってくる地元のお金持ちたちで賑わっていました。

 

 内部はImgp0697男湯、女湯、家族風呂、サウナ、マッサージ、エステ等など、日本のちょっと高級な日帰り入浴施設とまったく同じ。創業者が日本人だったようです。

 

 女湯で一緒になったカナダ人マダムは、神戸に住んでいたことがあったようで、思わぬ“裸談議”で盛り上がりました。

 

 

 

 

 

 

 『Shohko Cafe』は、1975年に開業した老舗のImgp0748日本料理店です。

 

 

 

 オーナーは日本人のフクダ・ヒロユキさん&ショウコさん夫妻。私たちはランチタイムに行ったのですが、ショウコさんがカウンターに立って、若いアメリカ人料理人と一緒に鮨をImgp0729
握っていました。

 

 

 

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 妹たちは顔なじみだったので、おまかせで刺身や寿司や天ぷらの盛り合わせを出してもらいました。黒海産の本マグロはじめ世界中の厳選漁場から取り寄せたネタは、日本でいただくものと何ら遜色なく、感激しました。この旅行では食事は自炊かハンバーガーorタコスばかりだったので、醤油やわさびの風味がよけいに五臓六腑に染みわたりました。 

 

 

 

 

 

 

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 店内に入って目ざとく見つけたのが、日本酒の瓶棚。メニューを見ると、若竹鬼ころし&花の舞が! サンタフェにまで来ていつも呑み慣れている地酒を頼むのも芸がないと思われるでしょうけど、私も平野さんもごく自然にこの2種をオーダーしました。

 

 

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 若竹は大吟醸、花の舞は純米酒を頼みましたが、酒の管理もちゃんと行き届いていたんですね、いつものとおりの静岡酵母の香味がしっかり確かめられました。

 

 

 

 

 

 

 

 ショウコさんから、娘婿のジェフが自分で日本酒を造っていると聞き、ビックリ。ジェフさんと夕方待ち合わせ、店の裏にある“酒蔵”を見せてもらうことになりました。

 

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ジェフはSAKEマイスターの資格を取って、SAKEジャーナリストのジョン・ゴントナー氏からいろいろ情報をもらいながら独学で日本酒造りを学んだそうです。ジョンはよく知ってますと言ったらとても歓迎してくれました。

 

 

 

 

 

 

 

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 酒蔵といっても物置サイズの小さな倉庫に簡易キットを据えたもので、右の写真は蒸し釜です。原料米はアメリカ産、麹は日本から取り寄せ、酵母はアルバカーキーの地ビール酵母を使用とのこと。純米吟醸と熟成純米の2種を試飲させてもらいました。さすがにビール酵母独特のクセが強かったものの、小ロット&直売の良さなんでしょう、日本国内でもしばしば見掛ける、アルコールの角がツンツン立った味気のない酒や、温度管理が悪くて劣化したような酒に比べると格段に呑み応えのある味わいでした。

 

 

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 花の舞の300ml瓶に入っていたのがご愛嬌(笑)。店で出した日本酒の空瓶を再利用しているんですね。

 

 

 

 

 「搾りがうまくいかない、どうしても色やにごりがとれないんだけど」と相談され、搾りのタイミング、活性炭の使い方、搾り袋の材質等など、持てる知識の範囲でアドバイスさせてもらいましたが、きれいな酒に仕上げるには、出来あいの素材&小ロットで造るのはプロでも難しいとImgp0754思いました。

 酒造りって、やっぱり静岡吟醸の取材で学んだ、精米~洗米の段階からすべての工程において完璧が求められる職人仕事なんだと実感します。

 

 

 

 それでも、はるかニューメキシコ州サンタフェの地で日本酒造りを志し、限られた条件の中でも懸命に美味しい酒を造ろうと情熱をかたむける青年に出会えたことは、この旅行の中でも無形の財産になったと思います。完璧を要求される静岡吟醸とは別のレベルで、食文化における日本酒のダイバーシティというのか、地球規模の多様性や新たな可能性に、直に触れたような気がします。

 

 「酒」は、単体商品だけでなく、酒の造り方や呑ませ方等、『ソフト』が求められる時代に、確実に来ているんですね。


アメリカ西部モーターハウス旅行9~芸術の古都サンタフェ

2012-09-05 12:16:23 | 旅行記

 8月15日から17日の3日間は、ニューメキシコ州の古都サンタフェを観光しました。サンタフェって聞いて多くの日本人は「宮沢りえのヌード写真集」を思い出します(自分もそう)が、その程度の認識しかなかったら恥ずかしい、大変魅力的なまちでした。

 

 

 

 まず、初歩的な情報から。サンタフェは1607年に出来た全米で二番目に古い町(一番古いのは1565年建設のフロリダ州オーガスティン)。もともとは原始インディアンのプエブロ族が住んでいましたが、16世紀にスペインに征服され、総督領が置かれました。

 

 

 その後、プエブロ族の武装蜂起等で内乱が続き、1824年のメキシコ独立戦争で新生メキシコ領となり、アメリカ―メキシコの交易の中心地に。1846年の米墨戦争でアメリカ合衆国のニューメキシコ準州となり、鉄道が開通して産業革命を迎え、1912年に47番目の州に昇格、サンタフェはニューメキシコ州の州都となりました。

 

 

 1922年からは、プエブロ族の伝統的な陶磁器や装飾品を展示即売するサンタフェ・インディアン・トレード・フェア(Santa Fe Indian Trade Fair)が始まり、インディアンアートのメッカに。町の周辺の豊かな自然に惹かれ、ジョージア・オキーフなど多くの芸術家が集まりました。

 

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ギャラリーや美術商の数は230を超え、アート市場規模はニューヨークに次ぐ全米第2の大きさ。アートギャラリーが軒を連ねる美しい街並みや、スペイン統治時代からの古い教会等の歴史的建造物は、この町の大きな観光資源になっています。

 

 

 

 

 ちょうど訪れた期間中の17~18日に、全米最大のインディアンマーケット(アート&クラフトフェア)があって、プラサ周辺は世界中からやってきた観光客で賑わっていました。プロのアーティストやインディアン作家たちの手作り逸品展で、コンテストも行われ、受Imgp0765賞作品もその場で買えるとあって、お値段はもちろんそこそこしますが、この日のために1年間貯金してやってくるファンやバイヤーも多いそう。

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 カチーナ像を持ったこの人は、何かの賞を獲ったようで、観光客の写真モデルでモテモテでした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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  建築に興味のある方ならご存知かもしれませんが、この町は1573年にスペイン国王フィリペ2世が制定した都市計画法「インディアス法」(スペイン語:Leyes de Indias)のもと、プラサ(広場)を中心として都市に必要な建物が造られました。都市の通りはプラサから放射線状に延びています。

 

 

 1912年にニューメキシコが州に昇格すると、計画性のない都市設計で「アメリカのどこにでもある街」になってしまうのではないかという危惧から、サンタフェ市は総督邸をはじめとする歴史的な建物を修復し、リオ・グランデ川流域のプエブロ族の伝統建築にならって市内の建物の外観をアドビ風に統一。1930年頃になると、今度は白い壁や切妻屋根といったスペイン植民地復古様式の建物を建て始めます。1958年には歴史地区内に新築・改築する際にはこのような伝統様式を踏襲するよう、条例で定めました。

 

 

 

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 ・・・私はアメリカといったらニューヨークやサンフランシスコのような大都市しか行ったことがないので、京都や奈良のように歴史的な街並みが残る芸術の町があるってことに、まず感激しました。

 

 この教会はプラサ近くにある聖フランシス大聖堂。ロマネスク様式です。1869年から86年Imgp0739の建設といいますから、日本ではちょうど明治維新のころでしょうか。聖フランシスは自然や生き物の保護者として知られています。誰でも無料で入れます。座ってひと息ついたら、なんだかじんわり涙が浮かんできました。・・・こういう場所で、こういう反応をした自分に、なんとなく少しホッとしました。

 

 

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 こちらは1873年建造のロレット教会。ゴシック様式です。支柱が一本もない奇跡のらせん階段で有名です。

 伝説によると、修道女たちは、はしごを使って2階にある聖歌隊席に上らなければなりませんでしたが、聖ヨセフ(マリアの夫。大工の腕を持つ)に9日間の祈りを捧げ、その9日目に白髪の男が現れこの階段が作られたとか。完成するとすぐにその男の姿は見えなくなりました。未だに、誰がどうやってこの階段を作ったのか謎だそうです。

 

 

 

 

 

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 15日は夜、サンタフェ・オペラに行きました。これも今回初めてしったのですが、サンタフェには全米で最も美しいといわれる野外オペラ劇場があり、夏の時期だけ上演されるサンタフェ・オペラは世界的にも知られ、チケットがなかなか取れないそう。私たちのこの旅行は、人気の高いグランドキャニオンやモニュメントバレー等のRVパークを予約するため、4月初めに妹がプランニングしてくれたので、サンタフェオペラのチケットも早々に入手できたというわけです。

 

 

 

 

 劇場は、西武球場のように屋根が乗っかっている形で、屋根を支える柱の間から美しい夕焼け空が広がります。・・・借景効果としては申し分ありません!。

 

 

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 この日の演目は「トスカ」。私はこれまでプッチーニの作品では「蝶々夫人」(ニューヨークシティオペラ)、「トゥーランドット」(浜松アクトシティ)を観たことがありますが、室内劇場とは異なるユニークな舞台装置に目を惹かれました。前の席の背もたれに翻訳機(英語とスペイン語)が付いていましたが、自分の語学力では無駄なシロモノですから(苦笑)、ストーリーを事前に頭に入れておき、上演中は舞台に集中しました。

 ナマで聴くアリア『歌に生き、愛に生き』、やっぱりトリハダものでした・・・!

 


アメリカ西部モーターハウス旅行8~ホピ族の村

2012-09-03 19:37:30 | 旅行記

 8月14日(火)は、妹の家から西へ車で2時間ほど、ナバホ・ネイションの中にあるホピ族のリザベーション(居留地)を訪ねました。

 

 ホピ族、恥ずかしながら今回の旅で初めて知ったインディアン部族ですが、調べれば調べるほど興味深い民族です。ウィキペディアの解説をまとめてみると、

  • 主にアリゾナ州北部の6,000km?の居留地(Reservation)に住み、ナバホ族の居留地に周囲を囲まれている。
  •  

    ●男子の正装は、鉢巻に白服。女子はベルベットのロングドレスで、20世紀初頭までは蝶々型の独特の髪型を結い上げていた。

     

  • 母に髪を結ってもらう少女(1900年)

     

    ●トウモロコシの作付け・収穫が全ての儀式の中心である。主食はトウモロコシのパンで、村のあちこちに円いパン焼き窯を持つ。

     

    ●西方のサンフランシスコピークの近くの聖なる山に住んでいる「カチーナ」という数百に上る精霊群を守護とする。儀式の際には、このカチナ群に扮したダンサーが踊りを捧げる。儀式の際のトリックスターは「コシャレ」という。

    ●子供たちへの教育用に作られるカラフルな木彫りの「カチナ人形」は、民芸品・芸術品としても人気が高く、日本にも輸入されている。

     

    ●夏至の頃、「ニーマンの儀式」という非公開の仮面行事を行う。水木しげるはこっそりこれを写生して、画に残している。

     

    ●フォーコーナーズというホピの住む土地にはウラン採掘所があり、広島市・長崎市に投下された原子爆弾の原料となったウランは、ここから採掘されたものである

     

    ●彼らの居留地(Reservation)には、ウランのほかにも石炭や地下資源が豊富で、20世紀初頭からたびたびアメリカ政府によって埋蔵資源が狙われている。

     

    ●マヤ文明の末裔とされ、神に導かれ現在の地にやってきたのが1000年前のこととされる。「ホピの予言」として、神からの様々な預言を伝承している。

     

    ●現在から未来にかけての予言「世界は今物質への強欲のためにバランスを失っており、このままでは世界は終わる。」という警告であった。正しい道を選べば発展の道が残されているという。2012年に人類の滅亡がうたわれたきっかけはこの予言なのだがこの部分をホピ族は全く発言していない。

     

     

    原子爆弾についても予言がされており、「灰のつまったひょうたん」と表現されていた。また、「東に黒い太陽の昇るとき、ホピは雲母の家に向かい、世界は滅びに向かう」とあった。

     

     

    ●第二次大戦の後に、トマス・ベンヤクヤたちホピの長老は環境破壊と地球の危機を訴えるため、ニューヨークの国際連合に向かった。このとき、インディアナ州の工業都市ゲーリーの、スモッグと煤煙に煙る空に、黒い太陽が昇るのを見た。そして、ニューヨークに着き、国連ビルを見た彼らは、それが「雲母の家」だと悟り、有名なホピによる全世界への呼びかけを行った。

     

     

     

     当日は、何の予備知識も持たず、「昔ながらのインディアンの暮らしをしている村」とだけ教えられて向かいました。居留地は、ファーストメサ(第一丘陵)、セカンドメサ(第二丘陵)、サードメサ(第三丘陵)と3つの小高い丘陵ごとにエリアが分かれ、小さな村がいくつか点在しています。

     

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     家は伝統的な土レンガの伝統的な家屋。私たちが訪ねたセカンドメサのKykotsmoviという村は、一部、太陽光パネルを屋根に乗せた家はありましたが、ほとんどの家は電線を引いておらず、電気なしの暮らしのようです。残念ながら、人物はおろか風景も含めて写真撮影は一切NGといわれ、ビジターセンターの看板と中庭だけしか撮れませんでした。

     

     ビジターセンター内でホピ族の歴史文化を紹介した写真パネルには、ウィキ写真の蝶々結びの髪の女の子が大勢紹介されていて、「おお、スターウォーズのお姫様はこれがモデルか~!」とビックリ。ホピの女性は、明治大正時代の日本人モデルにも似ていて、親近感を覚えます。

     

     

     

     Kykotumovi村では、「SANDRA HAMANA」というアート&ジュエリー店を訪ねました。ホピ族のジュエリーは、2枚のシルバーの板を張り合わせる『オーバーレイ』という手法で、一枚目(上側)のシルバーの板は様々な模様を描いて切り抜き、もう一枚(下側)のシルバーの板に上から被せます。模様を切り抜く精密な作業には定評があります。模様の一つひとつに意味があって、雨、雲、太陽、熊、鳥、スパイダー、トウモロコシ、豆・・・というように、自然信仰をモチーフにしています(こちらを参照)。

     

     

     

     インディアンジュエリーにハマッている妹夫婦と、アクセサリー好きの平野さんは、オーナーのDennis Koeyahongyaさんとアート談議に夢中。Dennisさんが、精霊“カチーナ”になるための修行を経験し、村のアーティストたちから信頼され、ジュエリーショップを任され、村人たちの生活の糧を支えていることを聞き、日頃はほとんどアクセサリーのImgp0843
    類を身に着けない私も、カチーナを象ったネックレスを買いました。

     

     ホピ族のジュエリーは人気が高いそうで、ビジターセンターや大きな町の土産物店でも売っていますが、この店はホピ族直営店なので紛い物ナシ&お買い得とのこと。ただし、「カード払いだと手数料が引かれ、その分、アーティストたちの収入が削られるから、できたら現金で払ってあげて」と言われ、現金をあまり持ち合わせていなかった私は、結局、このネックレス1本しか買えませんでした・・・。

     

     写真は撮れなかったけど、Dennisさんは俳優のウィレム・デフォーに似た渋メンで、長いシルバーヘアを後ろで束ね、ホピの文化について饒舌に語ってくれました。

     私の英語力では理解しきれませんでしたが、カチーナにはレベルがあって、段階を追って厳しい修行をこなしていくのだとか。Dennisさんは、一度は村を出て都会暮らしを経験したそうですが、村に戻り、伝統的な修行を経験して、今は村の文化の伝道師としておだやかな暮らしをされているようでした。

     

     

     

     帰国してから、友人たちに「写真NG,電気なしの村があった」と話したところ、現代社会を否定する宗教家かエコ活動家の集団、みたいに受け取られてしまいましたが、私の首にネックレスをかけてくれたDennisさんの明るく人懐っこくて饒舌な応対を思い出すと、そんな雰囲気は微塵もありません。もちろん実情を知らない一見のツーリストの勝手な印象に過ぎませんが、なんていうのかな、本当にインディアンの伝統的な暮らしや価値観を、必死になって守っているという気負いなく、淡々と続けているような気がしました。

     

     ちなみに、写真NGの意味ですが、インディアンの教えというのは口伝えによるもので、彼らが1000年間、先祖からの教えや価値観を失わずにいるのは、直接ひとからひとへ情報伝達する口承文化の伝統を守り続けているから。写真や映像などでうかつな誤用を防ぐ目的があるからだそうです。

     

     

     帰国後に読んだ本の中から、ホピ族の言葉を紹介しておきます。

     

    「善人にも、悪人にも、雨は降り、陽は昇る」

     

    「慎ましく食べ、慎んでしゃべる。そして誰も傷つけない」

     

    「答えがないのも、答えのひとつ」

     

    「怒りは自分に盛る毒」 

     

    「泣くことを恐れるな。涙はこころの痛みを流し去ってくれるのだから」

     

    「物語りに長けたものが、世界を制する」

     

    「ひとりの敵は多すぎ、100人の友は少なすぎる」