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桜に人生かけたアメリカ人女性

2013-04-03 08:10:16 | 海外ネットワーク


  3月30日 NHK海外ネットワーク


  アメリカ ワシントンに初めて日本の桜が届いたのは101年前。
  3000本の苗木が日本から贈られた。
  今ではこの桜が日米友好の象徴となり
  毎年 桜祭りが開かれ150万を超える見物客でにぎわう。
  そのきっかけを作ったのはアメリカ人女性のエリザ・シドモア。
  明治時代に日本を訪れた際 桜に魅せられ
  ワシントンに日本の桜を植えようと20年以上働きかけを続けた。
  桜に人生をかけたシドモアの思いに迫ろうとアメリカから女性作家が来日し
  シドモアの足跡をたどっている。

  アメリカ人作家 ダイアナ・パーセルさん。
  シドモアの生涯を伝記にまとめるため日本で取材を始めた。
  訪れたのはシドモアが眠る横浜の外国人墓地。
  “日本の桜を愛した女性 ここに眠る”
  シドモアは1928年にスイスでなくなったが
  日米の友好に貢献したとして日本政府が骸骨を引き取りここに埋葬した。
  シドモアが書いた海外旅行記を偶然手にしたパーセルさんは
  当時 非常に珍しかった女性ジャーナリストが
  海を渡って活動していたことに衝撃をおぼえた。
  (作家 ダイアナ・パーセルさん)
  「アメリカではほとんど知られてない。
   だから彼女の伝記を書こうと思った。」

  国際ジャーナリスト エリザ・シドモア。
  今から130年前の1884年
  日本に駐在していた外交官の兄を訪ねて初めて来日した。
  その後何度も来日し京都や日光など各地を回って人々の暮らしや文化を記録した。
  1896年には明治三陸地震を取材。
  彼女の記事によって「TSUNAMI」という言葉が世界中に広まった。
  日本での旅をまとめた「ジンリキシャ・デイズ・イン・ジャパン」で
  当時のアメリカではほとんど知られていなかった日本の風景や文化を
  イラストをまじえて紹介している。
  この旅でシドモアの心をとらえて離さなかったのが桜だった。
  ほのかな香りが桜の木々から立ちのぼり
  ピンク色の不思議な輝きは見るものを惑わし
  めまいすらおこさせます
  ポトマックの川岸に桜が並び枝が絡み合ってピンク色のトンネルがつくられれば
  すばらしい景色になることでしょう

  シドモアは“ワシントンを桜でいっぱいにしたい”と
  公園を管理する当局に働きかけを始める。
  しかし女性に参政権すらなく声が届きにくかったこの時代に
  彼女の話を真剣に受け止める人はいなかった。
  シドモアはあきらめず責任者が変わるたびに訴えに赴いた。
  思いが通じたのは20余り後
  シドモアは親交があった当時のタフト大統領の妻ヘレン夫人に手紙を書いた。
  そこには
  “水面に映る桜の美しさは首都ワシントンにふさわしい”
  と綴ってあったという。
  日本に滞在した経験があったヘレン夫人はアイデアの素晴らしさを理解し
  壮大なプロジェクトが実現に向けて動き出したのである。

  シドモアはなぜこれほどまでに桜にこだわったのか。
  パーセルさんは当時シドモアが書いた膨大な新聞記事や著書を調べ始めた。
  手がかりの1つが「ジンリキシャ・デイズ・イン・ジャパン」の中にあった。
  墨田区向島での花見の場面である。
  向島はまさに祭りです
  だれもかれもが皆 仲間となり歓喜の酒を振る舞います

  (作家 ダイアナ・パーセルさん)
  「彼女は“ポトマック川のほとりに向島を持ってきたい”と言っていた。
   すばらしい景色と人々が集い楽しむ姿を思い描いた。」
  それでもパーセルさんはシドモアの思いに迫り切れていないと感じていた。
  シドモアの日記や手紙は遺言によってすべて処分されていたのである。
  (パーセルさん)
  「桜の何が彼女の心を捉えワシントンに持ってこようと
   20年もの間 政府に働きかけたのか
   その理由を知りたい。」
  パーセルさんはシドモアが最も多くの時間を過ごした横浜の資料館を訪れた。
  シドモアに詳しい研究員に話を聞くためである。
  シドモアが日本人に混じってアサガオを育てる会に参加していたことを知った。  
  日本人の生活に息づく花への思いを知ろうとシドモアの熱意がうかがえる。
  (資料館の研究員)  
  「日本人が花に寄せる気持ちを甘美なものとしてとらえているのが
   シドモアの日本人に対する理解であり
   花を通じて日本人を見ている。」
  (パーセルさん)
  「桜を通じて日本人の心を見ていた。
   なんて美しいの。」
  パーセルさんはシドモアを魅了した向島を訪れた。
  ここには100年以上前にシドモアが見たのと同じ桜の下に人々が集い
  人々が楽しむ光景があった。
  「桜はとても特別な花。
   心うきうきしてお金のある人もない人も同じフロアで楽しんでいる。」
  シドモアと突き動かした日本人の桜に対する思い。
  パーセルさんは伝記を完成させる手ごたえをつかんだ。
  (パーセルさん)
  「シドモアは日本人の美意識や自然とひとつになる感覚をたたえた。
   彼女はその精神をアメリカの首都に持ち込みたかった。
   ワシントンでは向島と同じように桜を見に行く伝統が100年以上続いている。
   私は伝記を書くことでそうした文化や伝統を将来に伝えていきたい。」

  ワシントンの春といえば桜と有名になり
  桜が日本から贈られたことを知る人も今は多い。
  これまでずっと親しまれてきたかというとそうではない時代もあった。
  戦時中 日本はアメリカにとって敵国だったためにこれらの桜は
  “ジャパニーズチェリー”ではなく
  “オリエンタルチェリー”東洋の桜と呼ばれた時代もあった。
  一方 東京では第二次世界大戦中 空襲などの被害を受けたくさんの桜が無くなった。
  ワシントンの桜の木から苗木を作りまた東京に贈るというようなこともあったという。
  まさに激動の日米の歴史を見てきた桜である。
    
  日本人の心をアメリカに伝えようとしたシドモア。
  その思いは100年の時を経た今も日米友好のシンボルとして大きく花開いている。
  
  

  
  
  
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