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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

私の中のあなた(V)

2011-07-04 22:35:17 | 映画(わ)
評価点:67点/2009年/アメリカ

監督:ニック・カサヴェテス

突きつけられた矛盾の矛先が丸い。

アナ(アビゲイル・ブレスリン)は意図的に作られた子どもだった。
それは姉のケイト(ソフィア・ヴァジリーヴァ)のドナーとしての役割を期待されての子どもだったのだ。
ケイトは14歳になった時、白血病に加えて腎不全を併発し、腎臓を妹のアナから提供されなければ生きていけない状態に陥る。
アナはそれまで幾度となくケイトに血液や臍帯、その他のものを提供し続けてきたのだ。
堪えかねたアナは、両親を相手に弁護士を雇い、臓器提供拒否の訴訟を起こす。

公開当時、見たいなと思いつつ結局見られなかったもの。
DVDで見てみることにした。
主演は最近加齢が目立つキャメロン・ディアスと、「スピード2」で人々をガッカリさせたことで有名なジェイソン・パトリック。

病気、死、家族愛とくれば日本人の十八番(おはこ)の設定だ。
おそらく映画公開時も、「涙に暮れる」ために映画館に足を運んだ日本人も少なくなかっただろう。
ストーリーを知ればわかるだろうが、そんなに軽い、無邪気な映画ではない。
泣くことを期待するのなら、ちょっと戸惑うかもしれない。
それでもやはり「泣ける」映画にはしあがっているのだけれど。

▼以下はネタバレあり▼

この映画の設定と、タイトルだけで勘ぐるなら、この映画は間違いなく「安定して泣ける」映画だろう。
もっとありていに、うがった言い方をするなら、「かわいそうな」映画なのだろう。
僕たちがかわいそうだという時、それは安住した絶対的な他人であるから成り立つ。
自分のことを「かわいそうだ」と決して言わないのと同じだ。
他人から同情を買おうとする人間は、とんでもなく低俗な人間でしかないからだ。
その意味で、同じような病気で子どもが死んでいく様を泣きにいくような映画と同列に扱われかねない。
いや、逆に言うなら、この映画はそういう人間に対してがつんと一発食らわせるような映画なのだ。

この映画のキィワードは「転倒」である。
主客の転倒。
相手への愛が自分へ向けられていた事への驚き。
この映画が身に迫ってくるのは、もしかしたら私も癌で死ぬかも知れない、と想像させるからではない。
同情を向けていた相手に自分が救われてしまうという転倒がそこにあるからだ。

私の中のあなた、というタイトルは実は奥深い。
すなわち、この映画では誰が「私」なのか、「あなた」なのかわからないからだ。
設定と冒頭だけでいうなら、「ケイト」の中の「アナ」である。
ケイトはアナによって生かされている。
ケイトはアナの臓器がなければ生きられないのだ。
けれども、ラストまで見終わると、それが実は「アナ」の中の「ケイト」であることを知るのだ。
あるいは母親の中のケイト、と言ってもいい。
この物語は母親がケイト(娘)を救う物語ではない。
ケイトが母親を救う物語なのだ。
だから、僕たちの身に迫ってくる強さがある。

話を少し具体的に整理しよう。
ケイトは白血病である。
ケイトを救うために、アナは臓器移植を前提とした受精卵を生み出す。
つまり、ケイトを救うことを前提に、アナを出産するのだ。
臍帯血から、骨髄まで、アナは姉を救うためにあらゆる臓器やそのほかを提供し続ける。
時には白血球の促進剤まで投与されて。
物語はそれに耐えかねたアナが両親を訴えるところから始まる。
自分の人生を生きるために。

アナは敏腕弁護士を雇い、元弁護士の母親を訴える。
母親は自分の姉を救うことを拒否した娘が信じられない。
そこで両者は激しくやりあうことになる。
ここにはオチがあり、真相はケイトが死ぬために仕組んだ訴訟であった。
つまり、死を受け入れるためにはアナが臓器提供をしないことで、母親や周りにケイト自身の死を受け入れさせようとしたのだ。
ケイトにすべてを捧げてきた家族に対して、ケイトは心苦しく思っていた。
そして何より、長く生きられないことを悟っていた。
だからこそ、自分のために苦しむ家族を観ていられなかったのだ。
そう、彼女は周りを救うことを決心したのだ。

この真相が衝撃的なのは、巧い伏線があるからだ。
その典型がテイラーとの恋模様だ。
僕たちはこのテイラーとの恋を体験しながら、こう観てしまう。
「テイラーはきっと死ぬのだろう、最後に良い思い出ができて良かったじゃない」
そこにはケイトとテイラーへの感情移入という名の同情がある。
すなわち、「僕たちは生きられて幸せだけれど、二人は死んでしまうなんてかわいそうだね」という甘美で美しい同情である。
だから、二人がパーティーへいくというくだりは、最も美しく悲しいシークエンスになっている。
だが、そのショットは明確に僕たちに訴えかけるように計算されている。
父親の表情を捉えるショットだ。
幸せで良かった、というこの感情は、実はケイトに向けられたものではなかった。
ケイトを見守る父親の視点と全く同じ視点だったのだ。
もちろんそれまでのショットや語りによってそれが成立するわけだが、もう死んでしまうが、少しでも幸せにしてやれてよかったという父親の目線なのだ。
だから、この映画で最も泣けるシークエンスはここなのだ。

もう一つ。
ケイトが手にしていたアルバムの意味だ。
ケイトが病室で手にしていたアルバムは、ケイトの思い出が詰まった傑作だった。
そこから過去へ時間が移り、あたかもプルーストを観ているかのようだ。
それは彼女のすべてが詰まっているために、彼女のために誰かが作ったものであるように読める。
だが、その実母親のためだったのだ。
彼女は自分のすべてを母親に託す準備をゆっくりと、確実に進めていたのだ。

だが、この映画は身に迫ってくるその重さが足りない。
なぜだろうか。
単純だ。
結局救われたはずの母親の内面がよくわからないままだからだ。
なぜアナのすべてをケイトに注ぎ込むようにケイトを愛したのだろう。
なぜアナを顧みるということが母親にはできなかったのだろう。
母親は娘を愛するから?
そんな一般論では片付けられない何かがあったはずだ。
そうでなければ、デザイナーズベイビーを生むとは思えない。
娘を思う気持ちがあっても、特殊な愛だ。
その点についての内面をもっとえぐらなければカタルシスは低い。

弁護士も、ケイトも、テイラーも、アナもすべてをさらけ出したのに、なぜか彼女はどこか靄がかかっている。
残念だ。

それにしても、キャメロン・ディアスは歳を取ったな。

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