評価点:65点/2010年/スペイン
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
スペインのバルセロナ。
貧困の街に住むウスバル(ハビエル・バルデム)は、移民に仕事を斡旋することで生計をたてていた。
血尿が止まらなかったため、病院にいくと病名は「癌」だった。
幼い二人の子どもを育てながらお金を必死に貯めるウスバルは、焦りを感じるが……。
「バベル」や「21グラム」の監督、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの作品だ。
何度覚えてもなかなか言えない監督の名前は、日本人泣かせである。
それはおいておいて、主演はハビエル・バルデム。
「ノーカントリー」での殺人鬼が記憶に新しい。
ふたりとも、一筋縄ではいかない、深みのある作品ばかり撮っている。
今回は重たい作品、ということで「M4」会で見に行くことに決まった。
最初から疑問だったのは、「ビューティフル」ってこんなつづりだった?
ということだ。
英語に極端に弱い僕は、それがのどに刺さった魚の骨のように悩ませた。
さて、それはどういう意味だったのだろうか。
▼以下はネタバレあり▼
期待していたほどの作品ではなかった。
それはきっと映画の完成度というよりは、バルセロナの現状が全く分かっていなかったことと深く関係があるだろう。
サグラダ・ファミリアがそびえたつ様子を遠めに見ながら、どぶさらいのような生活を強いられる現状を、僕はほとんど知らない。
映画にあるちりばめられた記号性はほとんど読み込むことはできなかっただろう。
もっと鋭い意見があれば、教えていただきたい。
この映画は象徴的な描写に満ち溢れている。
その一つが「ビューティフル(beautiful)」のつづりが間違えているということだ。
この「BUITIFUL」のつづりは、娘に聞かれたウスバルが教えたものだ。
「美しい」という誰もが知るこの単語を間違えて教えてしまうところに、このウスバルという人物の設定が様々に見えてくる。
一つは、彼はほとんどまともな教育を受けたことが無いという点だ。
彼は小学校に息子と娘を通わせながらも、実は自分は教育らしい教育は受けてこなかった。
彼は身一つで何とか生計を立て、ようやく手に入れた生活が、親子三人の暮らしだったのだ。
小学校に通わせることは、彼にとって自分がかなわなかった生活への復讐だったのかもしれない。
また、この美しいという単語を間違えるということは、比喩的でもある。
つまり、彼は本物の美しいというものを知らなかったのだ。
彼が美しいと思っていたものは、偽りであったことを暗示する。
すなわち、父親が残したという指輪である。
父親が母親に送ったという指輪は「本物のダイヤモンドだ」といわれて育った。
ウスバルにとって唯一の父親とのつながりであり、血統の証だ。
ほとんど一人で生きてきた彼にとってそれは何よりも大切なものだったのだ。
しかし、それは本当に美しいものではなかったのだ。
そこに彼の悲哀がある。
この映画は息子と娘そしてウスバルの物語ではない。
ウスバルとその父親との物語である。
死後父親と「再会」するとき彼は優しく微笑む。
何も持たない彼にとっての「BUITIFUL」を見つけたからに他ならないだろう。
それ以外にも象徴的な描写に満ちあふれている。
大都会のど真ん中で虫やその他の生物たちのカットを織り交ぜている。
まるでそれはサグラダファミリアの周りで誰も気づかれずに生き続ける貧困層の移民たちのようだ。
彼らもまた美しいものを求めながら、手に入れられずにあえいでいる。
地獄のような世界でも、故郷よりは断然ましだと言いながら、より強い者たちに搾取され続けている。
ウスバルもまた、搾取されているのを知りながら、より弱い人間たちを救いながら奪うことで、搾取しているのだ。
それは大都会で懸命に生きる虫たちと同じなのかも知れない。
ウスバルには特殊な能力があった。
それが死者との対話である。
だが、かれはその能力を積極的に用いようとはしなかった。
呼ばれるとかけつけることはしても、それを積極的な生業とはしなかった。
死に触れることは、彼にとって唯一といってもいい禁忌だったのではないだろうか。
同じ能力をもつベスに度々相談するのも、彼が迷いの中で聖なるものとそうでないものとの線引きをしていたからなのだろう。
移民たちに対して、奪うだけではなく、与えることも同時にしていたのだから。
それにしても彼らの取り巻く環境は悲惨としか言いようがない。
二人の子どもの母親はアルコール中毒で、育児放棄、精神疾患までわずらっている。
もっとも、精神疾患が原因で、アル中になり、育児放棄へとつながったのだろうが。
抜け出したくても抜け出せない彼らの現状を良く表している。
ぎりぎりで生きる彼らに輝く未来や希望に満ちた将来などどこにもない。
現状を維持するだけで精一杯なのだ。
しかし、そうした地べたを這い蹲るような生き方をしている人間が、サグラダファミリアのような芸術作品が生み出される土壌を形成している。
経済がまわっているのは、そうしたどぶをさらうような人間がいるからだ。
いや、もしかしたら労働者として働く僕たちの多くは、そうしたギリギリの生活を強いられているのかもしれない。
突然「あなたは癌だ、もって二ヶ月の命だ」といわれるかもしれない。
残された二人の子ども達は、まともな生活が見つかるだろうか。
それはわからない。
映画には答えも暗示も用意されてはいない。
なぜなら、この物語はウスバルとその父親の物語であるからだ。
ただ、いえることはこうした地を這うような世界はどこでも、どこまでも延々と続いていくということだけだ。
そのことに、便利な解決策も、安易な解答も用意されてはいない。
監督:アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ
スペインのバルセロナ。
貧困の街に住むウスバル(ハビエル・バルデム)は、移民に仕事を斡旋することで生計をたてていた。
血尿が止まらなかったため、病院にいくと病名は「癌」だった。
幼い二人の子どもを育てながらお金を必死に貯めるウスバルは、焦りを感じるが……。
「バベル」や「21グラム」の監督、アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥの作品だ。
何度覚えてもなかなか言えない監督の名前は、日本人泣かせである。
それはおいておいて、主演はハビエル・バルデム。
「ノーカントリー」での殺人鬼が記憶に新しい。
ふたりとも、一筋縄ではいかない、深みのある作品ばかり撮っている。
今回は重たい作品、ということで「M4」会で見に行くことに決まった。
最初から疑問だったのは、「ビューティフル」ってこんなつづりだった?
ということだ。
英語に極端に弱い僕は、それがのどに刺さった魚の骨のように悩ませた。
さて、それはどういう意味だったのだろうか。
▼以下はネタバレあり▼
期待していたほどの作品ではなかった。
それはきっと映画の完成度というよりは、バルセロナの現状が全く分かっていなかったことと深く関係があるだろう。
サグラダ・ファミリアがそびえたつ様子を遠めに見ながら、どぶさらいのような生活を強いられる現状を、僕はほとんど知らない。
映画にあるちりばめられた記号性はほとんど読み込むことはできなかっただろう。
もっと鋭い意見があれば、教えていただきたい。
この映画は象徴的な描写に満ち溢れている。
その一つが「ビューティフル(beautiful)」のつづりが間違えているということだ。
この「BUITIFUL」のつづりは、娘に聞かれたウスバルが教えたものだ。
「美しい」という誰もが知るこの単語を間違えて教えてしまうところに、このウスバルという人物の設定が様々に見えてくる。
一つは、彼はほとんどまともな教育を受けたことが無いという点だ。
彼は小学校に息子と娘を通わせながらも、実は自分は教育らしい教育は受けてこなかった。
彼は身一つで何とか生計を立て、ようやく手に入れた生活が、親子三人の暮らしだったのだ。
小学校に通わせることは、彼にとって自分がかなわなかった生活への復讐だったのかもしれない。
また、この美しいという単語を間違えるということは、比喩的でもある。
つまり、彼は本物の美しいというものを知らなかったのだ。
彼が美しいと思っていたものは、偽りであったことを暗示する。
すなわち、父親が残したという指輪である。
父親が母親に送ったという指輪は「本物のダイヤモンドだ」といわれて育った。
ウスバルにとって唯一の父親とのつながりであり、血統の証だ。
ほとんど一人で生きてきた彼にとってそれは何よりも大切なものだったのだ。
しかし、それは本当に美しいものではなかったのだ。
そこに彼の悲哀がある。
この映画は息子と娘そしてウスバルの物語ではない。
ウスバルとその父親との物語である。
死後父親と「再会」するとき彼は優しく微笑む。
何も持たない彼にとっての「BUITIFUL」を見つけたからに他ならないだろう。
それ以外にも象徴的な描写に満ちあふれている。
大都会のど真ん中で虫やその他の生物たちのカットを織り交ぜている。
まるでそれはサグラダファミリアの周りで誰も気づかれずに生き続ける貧困層の移民たちのようだ。
彼らもまた美しいものを求めながら、手に入れられずにあえいでいる。
地獄のような世界でも、故郷よりは断然ましだと言いながら、より強い者たちに搾取され続けている。
ウスバルもまた、搾取されているのを知りながら、より弱い人間たちを救いながら奪うことで、搾取しているのだ。
それは大都会で懸命に生きる虫たちと同じなのかも知れない。
ウスバルには特殊な能力があった。
それが死者との対話である。
だが、かれはその能力を積極的に用いようとはしなかった。
呼ばれるとかけつけることはしても、それを積極的な生業とはしなかった。
死に触れることは、彼にとって唯一といってもいい禁忌だったのではないだろうか。
同じ能力をもつベスに度々相談するのも、彼が迷いの中で聖なるものとそうでないものとの線引きをしていたからなのだろう。
移民たちに対して、奪うだけではなく、与えることも同時にしていたのだから。
それにしても彼らの取り巻く環境は悲惨としか言いようがない。
二人の子どもの母親はアルコール中毒で、育児放棄、精神疾患までわずらっている。
もっとも、精神疾患が原因で、アル中になり、育児放棄へとつながったのだろうが。
抜け出したくても抜け出せない彼らの現状を良く表している。
ぎりぎりで生きる彼らに輝く未来や希望に満ちた将来などどこにもない。
現状を維持するだけで精一杯なのだ。
しかし、そうした地べたを這い蹲るような生き方をしている人間が、サグラダファミリアのような芸術作品が生み出される土壌を形成している。
経済がまわっているのは、そうしたどぶをさらうような人間がいるからだ。
いや、もしかしたら労働者として働く僕たちの多くは、そうしたギリギリの生活を強いられているのかもしれない。
突然「あなたは癌だ、もって二ヶ月の命だ」といわれるかもしれない。
残された二人の子ども達は、まともな生活が見つかるだろうか。
それはわからない。
映画には答えも暗示も用意されてはいない。
なぜなら、この物語はウスバルとその父親の物語であるからだ。
ただ、いえることはこうした地を這うような世界はどこでも、どこまでも延々と続いていくということだけだ。
そのことに、便利な解決策も、安易な解答も用意されてはいない。
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