佐藤優が読むべき本としてどこかでリストアップしていたのを知って、ほとんどこういう本は手に取らないのだが、買ってみた。
そういう話を妻にすると、妻がすでに買って数年前に読んでいたことを知って、ちょっとげんなりした。
そもそも読む時間があまりないので、かなりの時間を要してしまった。
不倫していた希和子は、妻子もちの男から子どもだけ誘拐して育てる。
逃げるように東京を離れた希和子は、転々としながらその子を「薫」という名前を付け小豆島に至る。
当たり前に過ごすことに感謝しながら、愛する人との子がこの子だったかもしれないという思いを胸に、日々を過ごすが……。
以下、少しだけネタバレありで書いてみる。
▼以下はネタバレあり▼
自分の息子がさらわれたら?
自分の子がもし違う人の子だったら?
様々な思いを持ちながら読んだ。
おそらくこの小説は、どの視点に立って読むかによって、ずいぶん印象を違えるだろう。
人生は理不尽だ。
このような不幸な事件が、そして劇的な事件が身の回りに起こらなかったとしても、きっと理不尽だろう。
なぜなら、すべての因果は人の理解を超えているから。
その理不尽さをどのように受け止めるのか。
1章で歪になったそれぞれの人生を2章でとき解いていく。
希和子と薫とが連動した構成になっているのがとてもおもしろい。
語り手や視点の問題だけではない。
小豆島から出る希和子(1章)と、小豆島へ向かう薫(恵理菜、2章)という構成だ。
小豆島でかけがえのない体験をした希和子は、この生活が永遠に続けば良いと願う。
しかし、それは逮捕というきっかけで壊されてしまう。
逆に、恵理菜は幼少期の誘拐によって人生の孤独を味わっていた。
そのことを克服するために、小豆島へ向かい、そして決意する。
自分の運命を呪うのではなく、生まれてくる子を愛そうと。
この構成が非常に巧みだ。
だから、これほど非常に重たい話なのに、救いがある。
また、解説で池澤夏樹も指摘しているように、この作品には女しか登場しない。
いや、正確に言えば、主体性ある人物は、すべて女である。
これも、視点人物による作用ではない。
意図的に、そして必然的に、女しか入り得ない世界を描いている。
赤ん坊を誘拐するという、非日常的な事件を、女の不安や喜び、戸惑いや怒りを普遍的な感情に高めている。
小豆島を訪れて、薫ははじめて、自分が生きてきたところに、「愛」があったことを知る。
私たちは、どれだけ自分の生まれてきたところに、愛があったと知り得るだろうか。
二人の母、二人の義母、そしてたくさんの援助者。
自己肯定を徹底的に拒否された薫が気づくことの意味は、どこか普遍的だ。
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