物語はなぜ必要なのか。
物語の成り立ちから考えれば、私たちは多くの物語を生み出すよりも、享受することのほうが多かったはずだ。
それほど多くはない物語を必要に応じて語り部たちが語る。
それを時と場合によって解釈しながら、今を生きる私たち、現世を生きる私たちが参考にしながら、新しい課題や直面している危機を乗り越えてきた。
物語は、新しい物語を作り出す創造性よりも、何度も同じ物語を語り直す、再生可能性のほうが、その役割として重要だったと想像している。
だが、時代が下って、多くの人が物語を作り出す世になった。
私も小説が書けるし、映画だって作ろうと思えば作れる(誰も見ないし、公開方法は限られてくるにしても)。
そうなると、私たちとっての物語はどのような意味があるのか。
異化と同化ということばについてどこかで整理したいと思っていた。
同化とは、いってみれば、物語の再現可能性に着目した効果だろう。
よくあること、今まで体験したこと、知っていることを物語で再認識することで、「ああやっぱりそうだよね」と納得、安心、確認することができる。
典型的なのは、殺人事件での「殺すより仕方なかった」というようなわかりやすい動機が真相であるものだ。
わかりやすい動機が明かされることで、確かに理解できる、でも犯罪はだめだというような皆が納得する物語を描き出す。
私たちはそういう物語に対して、「やっぱり正しく生きていかなければならない」と再認識するのだ。
一方で異化は、そういう物語に対してふつうに抱く期待や予想を裏切るものだ。
「隣人は静かに笑う」などのバッドエンディング・タイプの映画がそれに相当する。
読者や観客の期待を裏切ることで、今まで知らなかったこと、気づかなかったことに気づかせる。
突き放された読者は、寄り添うことができないために異化されてしまう。
異化体験をすると、人は今まで知っていたことを疑うような視点や考え方を獲得する。
「トレイン・スポッティング」などはその典型だ。
今まで常識だと思っていたことは、実は大人の社会に仕組まれた偽善だということを知り、それを抱えながらも、友人を裏切って生きていく。
それが生きるということだ、というメッセージは、私たちに、当たり前に生きていた人生を振り返るように要求する。
そのことで、違った自分を生きることになる。
それは物語の創作性であり、私たちが今を生きることを、問いかけるものになる。
そして何度もその物語を読んだり体験したりすることで、また同化効果へと働いていく。
物語は、同化効果と異化効果を体験するために、人間にとっては必須のものであるといえる。
だが、現代社会において、次々と新しい物語が紡がれていく必要性はないようにも思われる。
物語は、再現可能性が重要であるとすれば、それほどたくさんの物語は必要ではないように感じられる。
もちろん、その理由の一つは、新しい物語が生まれなければ経済が動かないということがある。
経済と結びついてしまった物語、新しい物語を生み出さなければ物語それ自体が維持できなくなる。
消費される運命にある物語において、新しい物語が次々生み出さなければ、映画や書籍といったメディアじたいを維持できなくなる。
だが、そんな身もふたもない実際論を唱えても私の興味は収まらない。
私は、これだけたくさんの物語が創作されるのは、この時代性にあると考えている。
刻一刻と変化する情報社会の現代において、新たに現実をとらえ直していく機会が不可欠だ。
今日通用していた常識は、明日には変革が起きるかもしれない。
だからこそ、現代社会において、いま、ここをとらえ直して、異化していく動力が不可欠だ。
それを担っているのが、物語だろう。
大きな物語は消滅しつつあるのかもしれない。
けれども、人は物語なしでは生きていけない。
自分の物語、自分を生きるためには、どんな表現方法であったとしても、物語を紡ぎ出す営みは消えることはない、と私は思っている。
物語の成り立ちから考えれば、私たちは多くの物語を生み出すよりも、享受することのほうが多かったはずだ。
それほど多くはない物語を必要に応じて語り部たちが語る。
それを時と場合によって解釈しながら、今を生きる私たち、現世を生きる私たちが参考にしながら、新しい課題や直面している危機を乗り越えてきた。
物語は、新しい物語を作り出す創造性よりも、何度も同じ物語を語り直す、再生可能性のほうが、その役割として重要だったと想像している。
だが、時代が下って、多くの人が物語を作り出す世になった。
私も小説が書けるし、映画だって作ろうと思えば作れる(誰も見ないし、公開方法は限られてくるにしても)。
そうなると、私たちとっての物語はどのような意味があるのか。
異化と同化ということばについてどこかで整理したいと思っていた。
同化とは、いってみれば、物語の再現可能性に着目した効果だろう。
よくあること、今まで体験したこと、知っていることを物語で再認識することで、「ああやっぱりそうだよね」と納得、安心、確認することができる。
典型的なのは、殺人事件での「殺すより仕方なかった」というようなわかりやすい動機が真相であるものだ。
わかりやすい動機が明かされることで、確かに理解できる、でも犯罪はだめだというような皆が納得する物語を描き出す。
私たちはそういう物語に対して、「やっぱり正しく生きていかなければならない」と再認識するのだ。
一方で異化は、そういう物語に対してふつうに抱く期待や予想を裏切るものだ。
「隣人は静かに笑う」などのバッドエンディング・タイプの映画がそれに相当する。
読者や観客の期待を裏切ることで、今まで知らなかったこと、気づかなかったことに気づかせる。
突き放された読者は、寄り添うことができないために異化されてしまう。
異化体験をすると、人は今まで知っていたことを疑うような視点や考え方を獲得する。
「トレイン・スポッティング」などはその典型だ。
今まで常識だと思っていたことは、実は大人の社会に仕組まれた偽善だということを知り、それを抱えながらも、友人を裏切って生きていく。
それが生きるということだ、というメッセージは、私たちに、当たり前に生きていた人生を振り返るように要求する。
そのことで、違った自分を生きることになる。
それは物語の創作性であり、私たちが今を生きることを、問いかけるものになる。
そして何度もその物語を読んだり体験したりすることで、また同化効果へと働いていく。
物語は、同化効果と異化効果を体験するために、人間にとっては必須のものであるといえる。
だが、現代社会において、次々と新しい物語が紡がれていく必要性はないようにも思われる。
物語は、再現可能性が重要であるとすれば、それほどたくさんの物語は必要ではないように感じられる。
もちろん、その理由の一つは、新しい物語が生まれなければ経済が動かないということがある。
経済と結びついてしまった物語、新しい物語を生み出さなければ物語それ自体が維持できなくなる。
消費される運命にある物語において、新しい物語が次々生み出さなければ、映画や書籍といったメディアじたいを維持できなくなる。
だが、そんな身もふたもない実際論を唱えても私の興味は収まらない。
私は、これだけたくさんの物語が創作されるのは、この時代性にあると考えている。
刻一刻と変化する情報社会の現代において、新たに現実をとらえ直していく機会が不可欠だ。
今日通用していた常識は、明日には変革が起きるかもしれない。
だからこそ、現代社会において、いま、ここをとらえ直して、異化していく動力が不可欠だ。
それを担っているのが、物語だろう。
大きな物語は消滅しつつあるのかもしれない。
けれども、人は物語なしでは生きていけない。
自分の物語、自分を生きるためには、どんな表現方法であったとしても、物語を紡ぎ出す営みは消えることはない、と私は思っている。
なかなかに追い込まれています。
家族ともども追い込まれています。
ちょっとがんばります。
>フランスさん
書き込みありがとうございます。
すみません、不勉強のため、「ストコーマの再起」という意味が理解できませんでした。
また、「物語の再起」というのは、これまであった物語を再度語り直したもの、という意味でしょうか。
気が向いたら、もう少しレベルを落として書いていただければありがたいです。
物語の再起に過ぎないと考えます。
映画レビューを見ていても、
このような世界も(物語)もあるんだ。と言ったレビューはほとんど無い事に気が付く。
反対にあるのは、
人間の認知の歪みからくる、見たいもの(物語)を見るレビューが多い。
・主人公のヒステリーが受け付けない。見る気を失った。
そして
私自身が映画とは物語の再起に過ぎないと考えているので当然かもしれないが、映画を見て意味のわからない、現実離れしすぎているなどと思うこともある。
つまり私も
主人公がヒステリー過ぎてついていけないと同じ行為をしているのである。
とするならば
映画はストコーマの再起に過ぎないのではないかと思います。