最近更新が滞っている。
時間的な余裕のなさは、心の余裕のなさを生むらしい。
少しのことでいらいらする自分がいる。
それを隠そうと必死に笑おうとしている自分もいる。
けれども、それが嘘であることを自分が一番よく知っているので、またいらいらする。
なんとも、悲しいスパイラルである。
先日、高校時代の同窓会があった。
今ほど社交的でなかった僕にとって、これは一つの冒険であり、挑戦だった。
過去の自分との対峙である。
クラスメイトのほとんどの顔を覚えていなかったし、ほかのクラスの人とも同様に交流はなかった。
いや、そもそも、覚えたこともなかったといった方が正解だろう。
人間に対して、ほとんど興味がなかったのかもしれない。
映画や政治、小説や思想には興味があったのに。
今改めてアルバムを見てみると、自分が本当にそこにいたのだろうかと疑わしくなるほどだ。
時間は残酷である。
当時思い浮かべていた自分の姿は、鏡をのぞいてもそこにはない。
自分との対話をずいぶんしてきたつもりだった。
他人に誇れる自分なるものを形成するために必死だった。
高校生のころ、自分にはなにもなかったから。
少しは社交的な自分を作り上げてきたつもりだった。
けれども、気づけば僕は話し相手すら探さなければみつからないほど、過去に思い出話一つ、浮かばなかった。
思えば、安定した自己などいつもなかったのかもしれない。
このブログだって、ずっと手探りでやってきた。
今では何も更新していないのに、200人も人が来るようになった。
けれども、未だ僕にはその人数の期待値を、形にして返せているとは思えない。
僕が書いたクラスの自由ページには、拙い字でこんなことが書いてあった。
「今瞬間を思い出せ 何を考えていたかを」
僕はそのことばを未だに覚えているし、それを意識して生きていたつもりだ。
そこには、すべてに対する抵抗と疑念と、自己肯定感があった。
僕の感覚は間違えていないという信念にも似た感覚だった。
それを忘れたら、きっとすべてが覆る、そんな強迫観念だったのかもしれない。
年をくって、今更様々なことに揺さぶられることが多い。
それは年老いたのか、あるいはまだまだ若いのか。
とにかく、次の再会までに、誰よりも魅力ある人間になっていることでしか、僕は自分の過去に復讐することができない。
そんな邂逅の週末だった。
時間的な余裕のなさは、心の余裕のなさを生むらしい。
少しのことでいらいらする自分がいる。
それを隠そうと必死に笑おうとしている自分もいる。
けれども、それが嘘であることを自分が一番よく知っているので、またいらいらする。
なんとも、悲しいスパイラルである。
先日、高校時代の同窓会があった。
今ほど社交的でなかった僕にとって、これは一つの冒険であり、挑戦だった。
過去の自分との対峙である。
クラスメイトのほとんどの顔を覚えていなかったし、ほかのクラスの人とも同様に交流はなかった。
いや、そもそも、覚えたこともなかったといった方が正解だろう。
人間に対して、ほとんど興味がなかったのかもしれない。
映画や政治、小説や思想には興味があったのに。
今改めてアルバムを見てみると、自分が本当にそこにいたのだろうかと疑わしくなるほどだ。
時間は残酷である。
当時思い浮かべていた自分の姿は、鏡をのぞいてもそこにはない。
自分との対話をずいぶんしてきたつもりだった。
他人に誇れる自分なるものを形成するために必死だった。
高校生のころ、自分にはなにもなかったから。
少しは社交的な自分を作り上げてきたつもりだった。
けれども、気づけば僕は話し相手すら探さなければみつからないほど、過去に思い出話一つ、浮かばなかった。
思えば、安定した自己などいつもなかったのかもしれない。
このブログだって、ずっと手探りでやってきた。
今では何も更新していないのに、200人も人が来るようになった。
けれども、未だ僕にはその人数の期待値を、形にして返せているとは思えない。
僕が書いたクラスの自由ページには、拙い字でこんなことが書いてあった。
「今瞬間を思い出せ 何を考えていたかを」
僕はそのことばを未だに覚えているし、それを意識して生きていたつもりだ。
そこには、すべてに対する抵抗と疑念と、自己肯定感があった。
僕の感覚は間違えていないという信念にも似た感覚だった。
それを忘れたら、きっとすべてが覆る、そんな強迫観念だったのかもしれない。
年をくって、今更様々なことに揺さぶられることが多い。
それは年老いたのか、あるいはまだまだ若いのか。
とにかく、次の再会までに、誰よりも魅力ある人間になっていることでしか、僕は自分の過去に復讐することができない。
そんな邂逅の週末だった。
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