評価点:52点/2011年/日本/91分
監督:宮崎吾朗
1963年、松崎海(声:長澤まさみ)は下宿の朝ご飯を用意し、旗を掲げるのが日課だった。
通っている学校ではカルチュラタンと呼ばれるクラブ校舎の建て替え反対についての決起集会が毎日のように開かれていた。
ある時、その機関誌カルチュラタンの編集者、風間俊(声:岡田准一)に妹の花(声:竹下景子)がサインをもらおうと、姉とともに訪れる。
魔窟となっていたカルチュラタンに訪れると、風間は海にガリ版の作成を手伝うように頼まれる。
二人はこれをきっかけに惹かれあうが……。
「ココリコ坂?」
「カクリコーン・カクーラ坂?」
「ジェリド・メ坂?」
まあ、なんでもいいや。
悪夢は繰り返される。
「ゲド戦記」でその手腕が全くないことを皮肉にもこの世の全てにさらしてしまった宮崎駿の息子、宮崎吾朗。
彼が再びメガホンをとり、ジブリの存続を占う作品を完成させた。
試写会からの評判は最悪。
僕の周りに聞いた前評判も似たようなもので、観に行く価値はないと断言された。
迷走を続けるジブリは、どこか偏西風を待っている台風のようなものだ。
周りを巻きこむが、被害以外になにももたらさない。
学校が休みになるかも、と期待するのは不真面目な学生を中心としたごく僅かで、結局甚大な「被害」だけを残して通り過ぎる。
「ゲド戦記」よりはずいぶん見られた作品になった。
けれども、ただそれだけのこと。
二時間も使って、お金を払って観に行くべき点は特にない。
▼以下はネタバレあり▼
映画を見ると、パンフレットを毎回購入するのが日課だ。
だから、本棚がきゅうきゅうで、置き所に困っている。
今回も例外なく、パンフレットを購入した。
批評を書くに当たって、ほとんど見ることはない。
事実確認をしたり、気になる監督のみ、コメントを確認したりする。
「未来を生きる君たちへ」などはその典型だった。
とはいえ、「コクリコ坂」も買ったのでぱらぱらめくっていると、あることに気付く。
異常なくらい、映画のカットで埋め尽くされている。
そして、コラムが「内輪」の人間しか書いていない、ということだ。
唯一、今回の作品に関わっていなかったのは、石田ゆり子。
そう、「もののけ姫」で声優として酷評されながら見事?サン役をやってのけた、彼女である。
もはや外部からのことばさえ入れないこのパンフレットは、ジブリの体制を暗示している。
彼らには、自分たちがどんな作品を描き、そしてどんなふうに受け取られるか、まったく見えてない。
そんな作品が、おもしろいとはいえるはずがない。
(もちろん、パンフレットに外部からのことばがなければいけないわけではないだろう。
そもそも、パンフレットでその映画を酷評しているものなどみたことがないし。
問題はそれでも、しれっと自分の身内にコメントを書かせる、その考え方そのものなのだ。)
僕の感想は、「ああ、少しは映画らしくなったんだね」。
あの、史上まれに見る駄作、「ゲド戦記」から考えると、ずいぶん映画らしくなった。
けれども、これは映画ではない。
今読んでいる本は橋源一郎の「一億三千万人のための小説教室」である。
みんな古いものが好きだ。
推理小説にしてもそれはすべて古い物語から少しだけ変えただけの新しくみえるだけの作品にすぎない。
だから、実は古いのだ。
そういう内容のことが、冒頭に書いてあった。
まさに、この映画は「古い」映画だ。
もっと端的にいえば、「何も新しくない」映画だ。
だから、全くおもしろくない。
東京オリンピックの前年の1963年にどれくらいの思い入れがあったのかはわからない。
少なくとも全く思い入れのない僕にとって、「20世紀少年」の万博よりも共感できない。
問題はそんなノスタルジックな思いにひたれるかではなく、なぜいまそれを題材にしたのか、である。
この映画は今の日本を意識しているように感じる。
父親という血をめぐる問題は、3月11日にあった東日本大震災を強く意識したことをうかがわせる。
二人の主人公はともに(実の)父親が不在という家庭に育った。
そこには自分の血縁と出生の秘密に関するドラマがある。
惹かれ合う二人は兄弟かもしれない。
その不安は、海の父親の優しさと、強い友情の秘密があった。
二人はその事実を知って、自分たちの父親の思いを自分たちが受け継いでいるのだという確信を得る。
それが二人をひきあわせたのだという確信である。
3・11では多くの親子が犠牲になり、途方に暮れた。
自分たちがあったはずの未来が、一瞬に奪われた。
そのレクイエムなのかもしれない。
確かに受け継がれる思いや血筋は彼らへ捧げられたものだろう。
戦争の影と、震災の恐怖を重ね合わせたのだろう。
やはり問題はそんなところにはない。
俊や海には内面がない。
二人の血縁を巡る物語やお互いが惹かれていく様を描いているが、彼らには〈個〉といえるほどの設定も内面も描かれない。
だから惹かれていくのはわかるが、どの部分に、なぜ、という物語としての蓋然性は全く受け取れない。
恋は理由なしに落ちていくものだが、それと映画の中の恋に理由がないこととは別物だ。
なぜなら恋をするということは相手に自分のないものを見出すことであり、それがお互いの内面を照射するからだ。
自分の夢を持てなかった雫が、天沢くんに惹かれていくのは、蓋然性がある。
結局血縁関係ではなかった二人は、大手を振って恋に落ちていくわけだが、彼らの内面は薄っぺらで、父親を巡ること以上に掘り下げられる内面がない。
医者になりたいとかとってつけたように語るけれども、それは内面を描いたとはいえない。
そもそも、この映画は旧態依然とした記号性に満ちている。
カルチェラタンを「男の巣窟」として、また下宿を切り盛りする女性として海が設定されている。
これは旧態依然とした「男はロマンを求め、女は家を守る」といった構図に他ならない。
男の巣窟に女が介入することで、一つの価値観の崩壊を示唆する。
けれども、「今の時代にこそ描くべきテーマ」はそこに見えてこない。
僕はその対比があまりに露骨なことで、この映画の期待値がどんと下がった。
僕たちはこれを見てどんなところに興味や関心を持てばいいのだろう。
この映画を見て、揺さぶられるだろうか。
ただの青春ドラマにつきあわせる程度のアニメなら、きっと世界を代表する作品として勝負できない。
わざわざアニメにする必要があったのだろうか。
なんだか、安直な二時間ドラマでいい内容をわざわざ映画にしてお金儲けをしようとしているテレビ局と、なんら志は変わらない気がしてならない。
こんな何の魅力もない企画に、誰もブレーキをかけられないところに、ジブリの限界性をみる。
もう一度すべてのプライドをなげうって、一からよい作品とはどういうものかを模索するところから始めてもらいたい。
監督:宮崎吾朗
1963年、松崎海(声:長澤まさみ)は下宿の朝ご飯を用意し、旗を掲げるのが日課だった。
通っている学校ではカルチュラタンと呼ばれるクラブ校舎の建て替え反対についての決起集会が毎日のように開かれていた。
ある時、その機関誌カルチュラタンの編集者、風間俊(声:岡田准一)に妹の花(声:竹下景子)がサインをもらおうと、姉とともに訪れる。
魔窟となっていたカルチュラタンに訪れると、風間は海にガリ版の作成を手伝うように頼まれる。
二人はこれをきっかけに惹かれあうが……。
「ココリコ坂?」
「カクリコーン・カクーラ坂?」
「ジェリド・メ坂?」
まあ、なんでもいいや。
悪夢は繰り返される。
「ゲド戦記」でその手腕が全くないことを皮肉にもこの世の全てにさらしてしまった宮崎駿の息子、宮崎吾朗。
彼が再びメガホンをとり、ジブリの存続を占う作品を完成させた。
試写会からの評判は最悪。
僕の周りに聞いた前評判も似たようなもので、観に行く価値はないと断言された。
迷走を続けるジブリは、どこか偏西風を待っている台風のようなものだ。
周りを巻きこむが、被害以外になにももたらさない。
学校が休みになるかも、と期待するのは不真面目な学生を中心としたごく僅かで、結局甚大な「被害」だけを残して通り過ぎる。
「ゲド戦記」よりはずいぶん見られた作品になった。
けれども、ただそれだけのこと。
二時間も使って、お金を払って観に行くべき点は特にない。
▼以下はネタバレあり▼
映画を見ると、パンフレットを毎回購入するのが日課だ。
だから、本棚がきゅうきゅうで、置き所に困っている。
今回も例外なく、パンフレットを購入した。
批評を書くに当たって、ほとんど見ることはない。
事実確認をしたり、気になる監督のみ、コメントを確認したりする。
「未来を生きる君たちへ」などはその典型だった。
とはいえ、「コクリコ坂」も買ったのでぱらぱらめくっていると、あることに気付く。
異常なくらい、映画のカットで埋め尽くされている。
そして、コラムが「内輪」の人間しか書いていない、ということだ。
唯一、今回の作品に関わっていなかったのは、石田ゆり子。
そう、「もののけ姫」で声優として酷評されながら見事?サン役をやってのけた、彼女である。
もはや外部からのことばさえ入れないこのパンフレットは、ジブリの体制を暗示している。
彼らには、自分たちがどんな作品を描き、そしてどんなふうに受け取られるか、まったく見えてない。
そんな作品が、おもしろいとはいえるはずがない。
(もちろん、パンフレットに外部からのことばがなければいけないわけではないだろう。
そもそも、パンフレットでその映画を酷評しているものなどみたことがないし。
問題はそれでも、しれっと自分の身内にコメントを書かせる、その考え方そのものなのだ。)
僕の感想は、「ああ、少しは映画らしくなったんだね」。
あの、史上まれに見る駄作、「ゲド戦記」から考えると、ずいぶん映画らしくなった。
けれども、これは映画ではない。
今読んでいる本は橋源一郎の「一億三千万人のための小説教室」である。
みんな古いものが好きだ。
推理小説にしてもそれはすべて古い物語から少しだけ変えただけの新しくみえるだけの作品にすぎない。
だから、実は古いのだ。
そういう内容のことが、冒頭に書いてあった。
まさに、この映画は「古い」映画だ。
もっと端的にいえば、「何も新しくない」映画だ。
だから、全くおもしろくない。
東京オリンピックの前年の1963年にどれくらいの思い入れがあったのかはわからない。
少なくとも全く思い入れのない僕にとって、「20世紀少年」の万博よりも共感できない。
問題はそんなノスタルジックな思いにひたれるかではなく、なぜいまそれを題材にしたのか、である。
この映画は今の日本を意識しているように感じる。
父親という血をめぐる問題は、3月11日にあった東日本大震災を強く意識したことをうかがわせる。
二人の主人公はともに(実の)父親が不在という家庭に育った。
そこには自分の血縁と出生の秘密に関するドラマがある。
惹かれ合う二人は兄弟かもしれない。
その不安は、海の父親の優しさと、強い友情の秘密があった。
二人はその事実を知って、自分たちの父親の思いを自分たちが受け継いでいるのだという確信を得る。
それが二人をひきあわせたのだという確信である。
3・11では多くの親子が犠牲になり、途方に暮れた。
自分たちがあったはずの未来が、一瞬に奪われた。
そのレクイエムなのかもしれない。
確かに受け継がれる思いや血筋は彼らへ捧げられたものだろう。
戦争の影と、震災の恐怖を重ね合わせたのだろう。
やはり問題はそんなところにはない。
俊や海には内面がない。
二人の血縁を巡る物語やお互いが惹かれていく様を描いているが、彼らには〈個〉といえるほどの設定も内面も描かれない。
だから惹かれていくのはわかるが、どの部分に、なぜ、という物語としての蓋然性は全く受け取れない。
恋は理由なしに落ちていくものだが、それと映画の中の恋に理由がないこととは別物だ。
なぜなら恋をするということは相手に自分のないものを見出すことであり、それがお互いの内面を照射するからだ。
自分の夢を持てなかった雫が、天沢くんに惹かれていくのは、蓋然性がある。
結局血縁関係ではなかった二人は、大手を振って恋に落ちていくわけだが、彼らの内面は薄っぺらで、父親を巡ること以上に掘り下げられる内面がない。
医者になりたいとかとってつけたように語るけれども、それは内面を描いたとはいえない。
そもそも、この映画は旧態依然とした記号性に満ちている。
カルチェラタンを「男の巣窟」として、また下宿を切り盛りする女性として海が設定されている。
これは旧態依然とした「男はロマンを求め、女は家を守る」といった構図に他ならない。
男の巣窟に女が介入することで、一つの価値観の崩壊を示唆する。
けれども、「今の時代にこそ描くべきテーマ」はそこに見えてこない。
僕はその対比があまりに露骨なことで、この映画の期待値がどんと下がった。
僕たちはこれを見てどんなところに興味や関心を持てばいいのだろう。
この映画を見て、揺さぶられるだろうか。
ただの青春ドラマにつきあわせる程度のアニメなら、きっと世界を代表する作品として勝負できない。
わざわざアニメにする必要があったのだろうか。
なんだか、安直な二時間ドラマでいい内容をわざわざ映画にしてお金儲けをしようとしているテレビ局と、なんら志は変わらない気がしてならない。
こんな何の魅力もない企画に、誰もブレーキをかけられないところに、ジブリの限界性をみる。
もう一度すべてのプライドをなげうって、一からよい作品とはどういうものかを模索するところから始めてもらいたい。
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