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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

未来を生きる君たちへ

2011-09-12 22:30:23 | 映画(ま)
評価点:83点/2010年/デンマーク/118分

監督:スザンネ・ビア

絶望するほどの悪意と憎悪、その現実に人は何を抱くのか。

デンマークに住む医師アントン(ミカエル・パーシュブラント)は、アフリカの紛争地域で治療活動を行っていた。
時折帰るデンマークでは二人の子どもと妻が待っていた。
しかし、妻とは別居状態で、二人の子どもとは離れ離れに暮らしていた。
長男のエリアス(マークス・リーゴード)はクラスメイトからネズミ顔だといわれていじめられていた。
そこへ転校生のクリスチャン(ヴィリアム・ユンク・ニールセン)がやってくる。
彼は母親を亡くし、父親クラウス(ウルリッヒ・トムセン)の実家があるこの地域へ引っ越してきた。
エリアスと席が隣になったことから二人は交流するようになるが、クリスチャンもまたいじめっ子から目をつけられてしまう。

「悲しみが乾くまで」「ある愛の風景」の監督、スザンネ・ビアの最新作。
オスカー外国語賞を受賞したことでも話題になった。
しかし、日本での公開は依然として単館上映であり、鑑賞するにはスケジュールの調整などが必要だろう。
僕は「ある愛の風景」しか観たことがない。
今回初めて劇場で彼女の作品を鑑賞した。
ずいぶん前から映画館に広告があったので、必ず見に行こうと決めていた作品でもある。

デンマークってどこ? くらいの僕にとっては、あまりなじみのある国ではない。
言語にしても、宗教にしても、民族にしても、ほとんど知識がない。
それでもこれほど胸に突き刺さるのは、彼女が描く物語や世界が普遍であるからだろう。
もう公開からずいぶん時間が経ってしまった。
見に行けた人はラッキーだろう。
ぜひDVDで、予備知識なしに観て欲しい。

▼以下はネタバレあり▼

パンフレットにあったことなので、繰り返しになるかもしれない。
この作品が日本に入ってくるまでに、二つのタイトルがつけられている。
デンマーク語の原題は「復讐」である。
そして英語圏での公開のタイトルは「イン・ア・ベター・ワールド」。
直訳すれば「少しでも良い世界で」くらいになる。
そして邦題が「未来を生きる君たちへ」である。

この映画が貫いているところは、どのタイトルも言いえているだろう。
ビア自身が語るように、「復讐」というタイトルはほとんど「赦し」と言いかえても通じる。
この映画には四つのタイトルがあるのだ。
邦題は少なくとも、鑑賞の妨げになる可能性がある。
なぜなら、あまりにも幻想的なタイトルであり、そこにあるはずの重みといったものを感じさせないものになってしまっているからだ。
この映画に流れているのは、圧倒的な負のエネルギーであり、マイナスの連鎖である。

多かれ少なかれ、どんな映画も教訓めいたものはある。
その教訓めいたものの一つは、次の世代に何を遺していくのかという命題だろうから、このタイトルはほとんど何も言いえていないのかもしれない。

二つの家族と、二つの土地がこの映画の舞台となっている。
一つはクリスチャンを中心とする父子家庭の家族。
もう一つは、いじめられっこのエリアスを中心とする家族である。
そしてデンマークとアフリカという二つの土地の対比を往来しながら、物語は進んでいく。
それぞれにそれぞれの問題や課題、悩みや葛藤がある。
それは全く異質でありながら、全くの等価値のように見える。
彼らが共に関わっているその問題は、どうしようもない悪意に対する復讐である。

医師のアントンはアフリカの難民キャンプで医療に従事していた。
アントンはそこでどうしようもない悪意に晒される。
それは妊婦の体を裂き、死なせるという「ビッグマン」というゲリラ集団である。
人々は彼らに憎悪を抱き、恐怖と不安の中暮らしている。

その息子エリアスも悪意に晒されている。
クラスメイトからネズミ顔だとののしられ、自転車の空気を抜かれ、為すすべなく生きている。
たまに帰ってくる父親と過ごすことだけを楽しみにしている。
行動に移すことはとてもできないが、彼らへの復讐を夢見る。

母を亡くし、父親を嫌うクリスチャンは典型的なエディプスコンプレックスである。
住居を点々とする彼は、どうすればいじめられないかということを心得ている。
だから、エリアスをいじめていたソフスを思い切り殴りつける。
彼は悪意という衣を身につけることだけが、生きるすべなのだということを体得してしまっている。
その意味で彼は孤独と悪意の申し子だと言ってもいい。
血をぬぐう為には、血で洗うしかないと、体が知っているのだ。

エリアスがクリスチャンの行動力に魅力を感じるのは無理がない。
負のエネルギーを貯め続けていたエリアスにとって、その決断力や行動力は憧れそのものだ。
穏健な両親に育てられたエリアスは、その愛や理性、知性ではどうにもならない問題があることをすでに痛いほど知っている。
自分の状況を打破する為には、強くなければならない。
その強さとは、相手に復讐して有無を言わせず叩きのめすことに他ならないのだ。

クリスチャンが渡したナイフは、エリアスにとって象徴である。
強さの象徴であり、問題解決の切り札の象徴であり、憧れの象徴である。
それは彼にとって「答え」そのものなのだ。
現実にそれまで解決しなかったいじめが、暴力に頼ることで解決してしまったのだ。
それはとても甘美な「復讐」という感情だったのだ。

復讐という行動に出たエリアスとクリスチャンに対して、大人たちは「暴力は暴力では解決し得ない」という説教を与える。
それは医師のアントンにとっては一つの哲学であり、経験による知恵だった。
しかし、そのアドバイスは間違えていた。
もう一つ、アントンはエリアスに対してミスを犯してしまう。
それはラースという男とのいざこざだ。

デンマーク人のラースは自分の子どもに触れられたことを嫌い、アントンを子どもの前で殴る。
それに対して反抗しなかった父親を見て、エリアスらは不信を抱く。
父親としての威厳と、暴力では何も解決し得ないことを伝えるために、子どもたちが調べた住所をもとにラースの元へ訪れる。
彼は再びラースに殴らせることで「あいつは暴力でしか解決することを知らない馬鹿だ」と説き伏せる。

けれども、それは間違っていたのだ。
クリスチャンとエリアスに必要だったのは、非暴力ではなかったのだ。
それは「赦し」だったのだ。

増幅する憎悪は、やがて爆弾という形に姿を現す。
二人の少年は、ラースの車を爆破することで、復讐を果たそうと考える。
そこには、単なる復讐よりも、好奇心があったのかもしれない。
あるいは、力には力で対抗しなければ生きていけないという切実な「答え」を肯定する必要があったのかもしれない。
とにかく、子どもたちは復讐することで自己肯定を試みる。

しかし、そのことが彼らの存在そのものを脅かすことになる。
アントンが被害者になることは、非常に比喩的であり、象徴的である。
加害者はいずれ被害者となるという、真理を最も苦しい形で経験する。
暴力は暴力でしか解決し得ないが、解決した暴力はやがて自分たちに暴力として跳ね返ってくる。
それを止めるには一つしかない。

それは「赦し」である。

大怪我を負ったアントンは意識を取り戻して謝罪するクリスチャンに向かって「謝らないで」と告げられる。
彼はずっとその言葉を求めていたのだ。
赦されることの重さを彼はずっと知らなかった。
ナイフを持っていることも、母親を殺したとののしったときも、彼にかけるべき父親の言葉は赦しだったのだ。
父親もまた深い悲しみの中にいた。
自分を赦してほしいと思いながら、悲しみを理解してくれないクリスチャンに苛立ちを感じていた。

登場人物のすべては、赦されることを求め続けている。
アントンは、ビッグマンのボスが足を負傷したとき、医者の使命だからと治してやる。
けれども、死んだ患者に対する無礼に激怒し、見殺しにする。
自分の行動にひどく混乱するが、その混乱の根っこにあるのは赦せなかった自分に対する後悔なのだ。
だから、エリアスを瀕死に追いやったクリスチャンに対しては、赦しを与えることができた。
エリアスの母親マリアン(トリーネ・ディアホルム)もまた、不倫した夫アントンを赦す。
それぞれがどうしようもない罪を、赦しあうことで、自分の居場所を見出していく。

それは宗教のような哲学もしれない。
けれども、それは宗教ではない。
同時並行的に起こる、復讐に対して、監督は赦しという答えを登場人物と観客に与える。
僕は見終わって、劇場を出て、歩いていると不意に涙がこぼれた。
帰りの電車の中で僕は一人泣いていた。
そういう映画だ。

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