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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

勝手にふるえてろ

2017-12-28 10:37:36 | 映画(か)
評価点:79点/2017年/日本/117分

監督・脚本:大九明子

するどく描かれた現代人の病。

ヨシカ(松岡茉優)は経理を担当するOL。
ヨシカには、中学校から想いを寄せる一人の男性がいた。
そのイチ(北村匠海)への想いが捨てきれず、脳内でその思い出を再生する日々が続いていた。
そんなある日、営業の同僚から想いを告げられる。
ニ(渡辺大地)と名付けた彼は、ヨシカにとってはじめて告白された相手だった。
舞い上がるヨシカだが、あるとき自宅でぼや騒ぎがあり、彼女は一大決心する。

原作、綿矢りさの同名小説の映画化。
ずいぶん前に読んだが、ここの記事にはしていなかったようだ。
川上弘美や、江國香織など多くの女性作家が世で活躍しているが、私は綿矢りさを評価している。
彼女の作品は、他の女性作家と違って、女性の「ありのまま」を描こうとしているからだ。
この「勝手にふるえてろ」も、醜く、臆病で、かわいくない、そういう女子が主人公だ。
病気や怪我、ありえないシチュエーションのメルヘンな少女漫画的な作品ではない。

だからこそ、本質がそこにはあるような気がする。
映画館に急ぐなら、今だ。

▼以下はネタバレあり▼

シン・ゴジラ」以来の邦画となった。
他に観たいものがなかった、ということもあり、映画館に足を運んだ。
(まあ、それなら家で家事や育児をするべきだろうけれども。はっはっは。)
原作を読んでいたこともあり、かなり期待度は高かった。
だが、原作を上手く生かして、それでいて映画としての良さをしっかり出した佳作だった。

邦画の最も決定的におもしろくない、魅力のない点は、社会的な視座が乏しいことだと思う。
現代の本質をあぶり出そうとするそういう社会的な視座が欠如している。
だから、当たり障りのない、毒でも薬でもない、問題提起も存在しない、だから観た者にお土産として持って帰らせるのは、ただ単なる刺激でしかない。
ここで何度も指摘しているように、同化効果の高さだけが問われて、異化効果がない。
私が評価しない理由はここだ。
その意味で、この映画はおもしろい。

ヨシカは、恋愛に臆病で、中学時代の想いをずっと引きずっている。
だから、会社にどんな男性がいても、心を閉ざして、恋人を探そうとはしない。
それは大学時代も、高校時代も同じことだろう。
正確に言えば、ヨシカは恋愛に過剰な期待と理想を描いている。
本当に自分が納得できる相手で、自分が大好きと思える理想の男性でなければ、付き合うべきではないと考えている。

周りの女子は、どんどんアタックして、合コンも開いて、恋愛を楽しんでいる。
だが、彼女はそういう「野蛮」で「軽い」ことはしたくない。
彼女にとって恋愛とはそんな汚らわしいものではないのだ。
それは中盤で明かされる、自分が処女であることと関連が深い。
大好きな人だからこそ、自分を捧げられる。
そういう聖域をつくることが、彼女にとっての恋愛なのだ。

しかし、彼女に転機が訪れる。
告白とぼやだ。
それによって、「手をこまねいているわけにはいかない」と自分の片思いを一歩進めることを決心する。
だが、そこで突きつけられたのは、「イチは中学当時いじめられていた」ということ、そして「ヨシカのことを全く覚えていなかった」ということだった。
彼女は自分と周りに多大なる大きな壁があることを突きつけられる。
その大きな壁を象徴するのが、「妊娠したの」というウソだ。
(私は原作でこれを読んでいるとき、ちょうど妻のつわりのあとだったので、吹いてしまった。)
自分が傷つかないようにするためには、相手の壁を越える壁を自分側に築くこと。
そうすることで、彼女は自分を守ろうとする。

彼女の本質は、自分が傷つかないように、殻に閉じこもることで、自分をかろうじて守ってきたのだ。
その彼女を変えたきっかけは、ニの行動力だった。
ばかで、相手の様子もつかめず、空気が読めない。
そんな彼の行動力で、彼女は自分の壁をぶちやぶられる。
原作ではイチに対してぶつける、「勝手にふるえてろ」は自分自身にぶつけられる。
だが、この脚本が秀逸で、あのセリフが実はヨシカの過去の自分に対してぶつけられていることがリトールド(再話)される。

ここには現代人が陥る、恋愛への視座がある。
私たちは恋愛を過剰に神聖なものとすることで、飛び込めないでいる。
ゲームがおもしろいから恋愛しないのではない。
一人が大好きだから、恋愛できないのではない。

私たちは、恋愛という具体的な行動によって、自分の存在全てを何かに賭けることのリスクを、とれないから恋愛できないのだ。
恋愛にはパワーが要る。
そして、失恋したときには、自分の根幹を揺るがせてしまう。
なぜなら、恋愛が理由なく始まることと同じで、失恋は自分という存在そのものが否定されてしまうことを、私たちは経験的に知っているからだ。
失恋したときの哀しみが、何よりも大きい(大きく感じる)のは、それが自身の存在そのものとイコールで結ばれるからだ。
(ヨシカがイチとの同窓会を企画できるほどの行動力を発揮するのも、それは別人格のクラスメイトを使っての傷つかない行動だからなのだ)
恋愛がもし成功しても、それがいつまで続くのか、そしてもし続かなかったときどうなるのか、私たちは常に不安に思っている。
そんな私たちに、恋愛などできっこない。

だから、ヨシカは特別な存在ではない。
私たちのどこかにある、もう一人の自分を反映した一人の人格だ。
思い込みが激しいのも、人と会話できないのを想像して楽しむのも、きっと現代人には普遍的な要素だ。
皆自分の壁を大事にしている。
それはSNSでは越えられない。

この映画がおもしろく、そして悲しいのはそういう点にある。

小説での心理描写を、彼女の脳内トークとして描いたり、イチに自分のことを覚えてもらっていなかったことを知った衝撃を、歌で表現したり、映画として消化させている部分がうまかった。
キャスティングも見事で、とくにニの渡辺大地が本当に間が悪くて、そして最後にかっこよくなる当たりが秀逸だった。
こういう映画がもっと評価されて良い、と私は思う。


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