評価点:63点/2022年/アメリカ/175分
監督:マット・リーヴス
救いたい街が見えない。
バットマンことブルース・ウェイン(ロバート・パティンソン)がゴッサムシティを夜な夜な見守る活動を始めて2年が経ったころ、依然として治安は悪く劣悪な環境だった。
市長選挙を控えたある日、現職市長が何者かに殺される。
その顔には「ノー・モア・ライズ(ウソはまっぴらだ)」と書かれていた。
そしてバットマンに宛てた手紙が残されていた。
現場に呼ばれたバットマンは、第一発見者である被害者の息子のおびえる姿に過去の自分を見る……。
いわずもがな、DCコミックスの人気マンガの映画化作品。
ヒーローコミックがダークで、リアルなテイストで映画化されるのがハリウッドで流行っている。
その流れは「バットマン・ビギンズ」や「アイアンマン」からの流れだろう。
ホラー映画監督としても知られるマット・リーヴスがメガホンを取った。
たぶん、メガホンは使っていないだろうが。
主演は「テネット」でも話題になったロバート・パティンソンだ。
どうしてもノーランの「ダークナイト」三部作が頭に浮かんでしまうのは仕方がない。
監督も言っていたように、「なぜいままた撮るのか」という点に着目して見に行った。
上映時間は3時間弱あり、またホラーテイストが強いのでちょっと注意が必要だ。
全体を通して非常に画面が暗いので、映画館での鑑賞を前提としている点も気をつけたい。
▼以下はネタバレあり▼
「ダークナイト」の衝撃が強いため、やはりどうしても期待値は上がる。
そして、その期待値を超えることはないだろうという期待をしながら、映画館にいった。
私としては、やはり手放しで喜べる作品のようには感じなかった。
他の作品と比較しても仕方がない。
また、原作との比較をしても仕方がない。
私にはその両方ができないので、この作品単体としての感想を書こう。
ブルースは両親を何者かに殺されて、そして街の荒廃を憂い、正義の味方としてバットマンになることを誓う。
そして2年が経った頃、市長選挙に出馬していた現職候補が殺された。
バットマンに宛てられた手紙、なぞなぞを残した挑戦的なメッセージ、異常な殺され方……。
この映画のバットマンは、探偵的な立ち回りになっている。
テイストとしてはサスペンスホラーのような映画である。
だからどちらかというとヒーロー映画というよりは猟奇殺人の犯人を追うようなダークな物語だ。
リドラーと名乗るその犯人は、ゴッサムシティの闇を暴く、と挑戦的なメッセージを残す。
ターゲットにされたのは、現役市長、法を司る現役検事、警察署の本部長、裏の社会を動かしているファルコーネたちである。
彼らは街をよりよいものにするという表の顔を持ちながら、結局は利益をむさぼるという裏の顔をもっていた。
それを見抜いたリドラーは大衆の注目を浴びながら、彼らの悪事を暴いていく。
そのターゲットの最後が「バットマン」だった。
物語はだから、バットマンとリドラーが対峙するというところにクライマックスが置かれる。
だが、これだけの背景を描きながら、結局人間性が深掘りされたキャラクターがほとんどいない。
テイストがサスペンスなのに、その謎が解き明かされたときのカタルシスが小さいのはどうしたことか。
私はバットマンという物語と、探偵という要素が不協和音を起こしているからではないかと思う。
第一に、街を守るべきバットマンと、猟奇殺人をしながら街の悪事を暴いていくというリドラーがミスマッチであるということだ。
なぞなぞを残して次の殺人につなげていく展開は、密室的な物語になる。
それがどれだけ街の大物であったとしても、【個】の物語になっていく。
対立はリドラーとバットマンの両者(犯人と刑事)のみになって、それを支えるはずの民衆や大衆は影に隠れてしまう。
リドラーも街を浄化することを望んでいるのにもかかわらず、フォーカスされていくのは街を裏側から操っているという【個】になる。
そうなると守るべき民衆は見えてこない。
象徴的なのはラストの堤防破壊のシークエンスだ。
街全体を破壊するという名目なのに、実際にどれくらいの被害が出ているのかといった民衆の姿はほとんど描かれない。
いや、描かれているが印象に残らない。
それは皆が顔のない被害者ばかりだからだ。
演出として最初に助けた民衆をもう一度出したり、名前や台詞がある大衆の姿を印象的に描くべきだった。
洪水に飲まれる人々は、単なる背景に過ぎない。
だから、街全体がリドラーとバットマンを飾る背景やセットにすぎないのだ。
フィンチャー監督の「セブン」で、衝撃的な事件でもほとんどが【個】の物語だったのと似ている。
あの物語に、大衆性や社会性は全く見られない。
猟奇的な殺人は、その謎が深ければ深いほど大衆は背景に押しやられてしまう。
街が、街が、と連呼されればされるほど、それが空虚な印象を与える。
第二に、ブルースの内面がよくわからないままであるということだ。
なぜバットマンになるという選択をしたのか、なぜそれを続けているのか。
復讐とは何に対する復讐なのか。
バットマンはバットマンだからそれでいい、という見方もあるかもしれない。
しかし、彼は最後に復讐を捨て去る決意をする。
だが、捨て去るにはそもそもその復讐に手をかけた理由が明かされなければならない。
賊に両親を殺されたからなら、なぜ二年前から始めたのか。
誰に対する復讐なのか。
その点がすっぽりと抜け落ちている。
あれだけの金持ちなら、バットマン以外の方法で街を救う術もあっただろう。
その点が不明瞭なままだ。
上映時間の関係もあるし、テーマをどこに絞るのかという面もあるが、「復讐では街を救えない」というメッセージを置くなら、それを説得力あるように描くべきだった。
私に言わせれば、ブルースがバットマンになっても街は救えない。
それこそ閉鎖されてしまった孤児院を再開させる方がよほど救えるのではないか。
ブルースにビジョンがないのだ。
第三にリドラーというキャラクターもまた不明瞭であるという点だ。
こういうサスペンスに仕立て上げるのなら、カタルシスを得るためには「倒した」ことよりも「事件の究明」が重要だ。
特に、逮捕されてからのシークエンスが最大の見せ場になっている(絶望になっている)場合には。
しかし、リドラーが何者なのか正直よく分からない。
もちろん単なるヴィランなので、謎のままでもかまわない。
けれども、この事件は、すべて街の裏側を明らかにするという目的があった。
その裏側を知っている人間でなければ、隠されていたことを明らかにすることはできない。
ではリドラーは何者だったのか。
閉鎖された孤児院出身で、ブルースに憾みを抱いていたとしても、裏社会の繋がりをなぜこうもたやすく知り得たのか。
それだけではない。
バットマンの正体さえ、誰も気づいていなかったのに知ったのだ。
なぜなのか。
ヴィランだから当たり前だ、というのは簡単だ。
だが、この点を明らかにしてくれないと、いつブルースの正体が不特定多数に明かされてもおかしくない。
むしろ一番の暴露は、その点だったはずだ。
それなのにリドラーはそれを巧みに避けた。
もっとも衝撃的で、最も重要な秘密をなぜ人々に暴露しないのか。
映画から、といえばそれまでだが、まさにそれが答えではないか。
「映画としてそうしないと展開が厳しいから」
そこには制作者たちのご都合主義が見え隠れする。
その意味でリドラーが深掘りされていないのだ。
また、市長選の演説会場に集まったテロリストたちがなぜあれほどの重装備なのか、それもちょっと解せない。
バットマンの正体を知った方法が明らかにされなければ、次のヴィランデあろうジョーカーにその秘密が容易に渡ってしまう。
最後までもやもやが残って、結局すっきりしないのは、そういうリドラーがバットマンの秘密に迫れた理由がよくわからないからだ。
そして最後に、圧倒的に、この映画は演出が下手だった。
それは文学でいえば文体にあたる。
映画のテンポや雰囲気、観客との関係性を決定づけるものが、演出だ。
さまざまなギミックや設定があり、観客を引っぱる要素がたくさんあった。
けれども、圧倒的に見せ方が下手だった。
明暗の対比もなければ、民衆を大きなカットやメディアの向こう側としてしか見せなかったり、バットマンのギミックの説明がほとんど省略されたり。
リドラーやブルースの過去についてフラッシュバックで見せるだけでもキャラクターの深みは得られた。
一つの描写が、描写として機能せずに、説明に終始してしまっている。
だからその映像以上に意味を観客に掴ませることができない。
点が点のままで、線や面にならない。
それぞれのキャラクターが立体的に見えないのは、シナリオ以上に演出のためだと思う。
それを実感したのは、やはり最後の洪水の場面だ。
R指定になるのを恐れたのもあると思うが、どれだけの影響が街にもたらされたのかわからないのだ。
それほど深刻なものでないのなら、リドラーの狙いは全く的外れだし、街を水浸しにしたところで街が浄化されたり新しい何かが生まれたりするはずがない。
深刻であるなら、そういうふうに見せるべきだった。
ワイヤーを切って人々の元に降りていくバットマンを印象的に描いているが、感動を呼び起こす演出にはなっていない。
だって、何がしたいのかよくわらないんだもの。
そんなことで街全体が救えるわけでもないし、太陽が昇ってからバットマンのままで人々を救ってはいけいないのだ。
だって、バットマンなんだもん。
こういう演出がやはり全体としてカタルシスや興奮をそいでいる。
ちぐはぐな印象をずっと抱いていたが、演出という映像の文体がお粗末だったからだと私は感じている。
私にはなぜ今バットマンなのか、という点が見えずにエンドロールを迎えた。
いっちゃあ悪いがやはり、ノーランは異常だったのだと思う。
監督:マット・リーヴス
救いたい街が見えない。
バットマンことブルース・ウェイン(ロバート・パティンソン)がゴッサムシティを夜な夜な見守る活動を始めて2年が経ったころ、依然として治安は悪く劣悪な環境だった。
市長選挙を控えたある日、現職市長が何者かに殺される。
その顔には「ノー・モア・ライズ(ウソはまっぴらだ)」と書かれていた。
そしてバットマンに宛てた手紙が残されていた。
現場に呼ばれたバットマンは、第一発見者である被害者の息子のおびえる姿に過去の自分を見る……。
いわずもがな、DCコミックスの人気マンガの映画化作品。
ヒーローコミックがダークで、リアルなテイストで映画化されるのがハリウッドで流行っている。
その流れは「バットマン・ビギンズ」や「アイアンマン」からの流れだろう。
ホラー映画監督としても知られるマット・リーヴスがメガホンを取った。
たぶん、メガホンは使っていないだろうが。
主演は「テネット」でも話題になったロバート・パティンソンだ。
どうしてもノーランの「ダークナイト」三部作が頭に浮かんでしまうのは仕方がない。
監督も言っていたように、「なぜいままた撮るのか」という点に着目して見に行った。
上映時間は3時間弱あり、またホラーテイストが強いのでちょっと注意が必要だ。
全体を通して非常に画面が暗いので、映画館での鑑賞を前提としている点も気をつけたい。
▼以下はネタバレあり▼
「ダークナイト」の衝撃が強いため、やはりどうしても期待値は上がる。
そして、その期待値を超えることはないだろうという期待をしながら、映画館にいった。
私としては、やはり手放しで喜べる作品のようには感じなかった。
他の作品と比較しても仕方がない。
また、原作との比較をしても仕方がない。
私にはその両方ができないので、この作品単体としての感想を書こう。
ブルースは両親を何者かに殺されて、そして街の荒廃を憂い、正義の味方としてバットマンになることを誓う。
そして2年が経った頃、市長選挙に出馬していた現職候補が殺された。
バットマンに宛てられた手紙、なぞなぞを残した挑戦的なメッセージ、異常な殺され方……。
この映画のバットマンは、探偵的な立ち回りになっている。
テイストとしてはサスペンスホラーのような映画である。
だからどちらかというとヒーロー映画というよりは猟奇殺人の犯人を追うようなダークな物語だ。
リドラーと名乗るその犯人は、ゴッサムシティの闇を暴く、と挑戦的なメッセージを残す。
ターゲットにされたのは、現役市長、法を司る現役検事、警察署の本部長、裏の社会を動かしているファルコーネたちである。
彼らは街をよりよいものにするという表の顔を持ちながら、結局は利益をむさぼるという裏の顔をもっていた。
それを見抜いたリドラーは大衆の注目を浴びながら、彼らの悪事を暴いていく。
そのターゲットの最後が「バットマン」だった。
物語はだから、バットマンとリドラーが対峙するというところにクライマックスが置かれる。
だが、これだけの背景を描きながら、結局人間性が深掘りされたキャラクターがほとんどいない。
テイストがサスペンスなのに、その謎が解き明かされたときのカタルシスが小さいのはどうしたことか。
私はバットマンという物語と、探偵という要素が不協和音を起こしているからではないかと思う。
第一に、街を守るべきバットマンと、猟奇殺人をしながら街の悪事を暴いていくというリドラーがミスマッチであるということだ。
なぞなぞを残して次の殺人につなげていく展開は、密室的な物語になる。
それがどれだけ街の大物であったとしても、【個】の物語になっていく。
対立はリドラーとバットマンの両者(犯人と刑事)のみになって、それを支えるはずの民衆や大衆は影に隠れてしまう。
リドラーも街を浄化することを望んでいるのにもかかわらず、フォーカスされていくのは街を裏側から操っているという【個】になる。
そうなると守るべき民衆は見えてこない。
象徴的なのはラストの堤防破壊のシークエンスだ。
街全体を破壊するという名目なのに、実際にどれくらいの被害が出ているのかといった民衆の姿はほとんど描かれない。
いや、描かれているが印象に残らない。
それは皆が顔のない被害者ばかりだからだ。
演出として最初に助けた民衆をもう一度出したり、名前や台詞がある大衆の姿を印象的に描くべきだった。
洪水に飲まれる人々は、単なる背景に過ぎない。
だから、街全体がリドラーとバットマンを飾る背景やセットにすぎないのだ。
フィンチャー監督の「セブン」で、衝撃的な事件でもほとんどが【個】の物語だったのと似ている。
あの物語に、大衆性や社会性は全く見られない。
猟奇的な殺人は、その謎が深ければ深いほど大衆は背景に押しやられてしまう。
街が、街が、と連呼されればされるほど、それが空虚な印象を与える。
第二に、ブルースの内面がよくわからないままであるということだ。
なぜバットマンになるという選択をしたのか、なぜそれを続けているのか。
復讐とは何に対する復讐なのか。
バットマンはバットマンだからそれでいい、という見方もあるかもしれない。
しかし、彼は最後に復讐を捨て去る決意をする。
だが、捨て去るにはそもそもその復讐に手をかけた理由が明かされなければならない。
賊に両親を殺されたからなら、なぜ二年前から始めたのか。
誰に対する復讐なのか。
その点がすっぽりと抜け落ちている。
あれだけの金持ちなら、バットマン以外の方法で街を救う術もあっただろう。
その点が不明瞭なままだ。
上映時間の関係もあるし、テーマをどこに絞るのかという面もあるが、「復讐では街を救えない」というメッセージを置くなら、それを説得力あるように描くべきだった。
私に言わせれば、ブルースがバットマンになっても街は救えない。
それこそ閉鎖されてしまった孤児院を再開させる方がよほど救えるのではないか。
ブルースにビジョンがないのだ。
第三にリドラーというキャラクターもまた不明瞭であるという点だ。
こういうサスペンスに仕立て上げるのなら、カタルシスを得るためには「倒した」ことよりも「事件の究明」が重要だ。
特に、逮捕されてからのシークエンスが最大の見せ場になっている(絶望になっている)場合には。
しかし、リドラーが何者なのか正直よく分からない。
もちろん単なるヴィランなので、謎のままでもかまわない。
けれども、この事件は、すべて街の裏側を明らかにするという目的があった。
その裏側を知っている人間でなければ、隠されていたことを明らかにすることはできない。
ではリドラーは何者だったのか。
閉鎖された孤児院出身で、ブルースに憾みを抱いていたとしても、裏社会の繋がりをなぜこうもたやすく知り得たのか。
それだけではない。
バットマンの正体さえ、誰も気づいていなかったのに知ったのだ。
なぜなのか。
ヴィランだから当たり前だ、というのは簡単だ。
だが、この点を明らかにしてくれないと、いつブルースの正体が不特定多数に明かされてもおかしくない。
むしろ一番の暴露は、その点だったはずだ。
それなのにリドラーはそれを巧みに避けた。
もっとも衝撃的で、最も重要な秘密をなぜ人々に暴露しないのか。
映画から、といえばそれまでだが、まさにそれが答えではないか。
「映画としてそうしないと展開が厳しいから」
そこには制作者たちのご都合主義が見え隠れする。
その意味でリドラーが深掘りされていないのだ。
また、市長選の演説会場に集まったテロリストたちがなぜあれほどの重装備なのか、それもちょっと解せない。
バットマンの正体を知った方法が明らかにされなければ、次のヴィランデあろうジョーカーにその秘密が容易に渡ってしまう。
最後までもやもやが残って、結局すっきりしないのは、そういうリドラーがバットマンの秘密に迫れた理由がよくわからないからだ。
そして最後に、圧倒的に、この映画は演出が下手だった。
それは文学でいえば文体にあたる。
映画のテンポや雰囲気、観客との関係性を決定づけるものが、演出だ。
さまざまなギミックや設定があり、観客を引っぱる要素がたくさんあった。
けれども、圧倒的に見せ方が下手だった。
明暗の対比もなければ、民衆を大きなカットやメディアの向こう側としてしか見せなかったり、バットマンのギミックの説明がほとんど省略されたり。
リドラーやブルースの過去についてフラッシュバックで見せるだけでもキャラクターの深みは得られた。
一つの描写が、描写として機能せずに、説明に終始してしまっている。
だからその映像以上に意味を観客に掴ませることができない。
点が点のままで、線や面にならない。
それぞれのキャラクターが立体的に見えないのは、シナリオ以上に演出のためだと思う。
それを実感したのは、やはり最後の洪水の場面だ。
R指定になるのを恐れたのもあると思うが、どれだけの影響が街にもたらされたのかわからないのだ。
それほど深刻なものでないのなら、リドラーの狙いは全く的外れだし、街を水浸しにしたところで街が浄化されたり新しい何かが生まれたりするはずがない。
深刻であるなら、そういうふうに見せるべきだった。
ワイヤーを切って人々の元に降りていくバットマンを印象的に描いているが、感動を呼び起こす演出にはなっていない。
だって、何がしたいのかよくわらないんだもの。
そんなことで街全体が救えるわけでもないし、太陽が昇ってからバットマンのままで人々を救ってはいけいないのだ。
だって、バットマンなんだもん。
こういう演出がやはり全体としてカタルシスや興奮をそいでいる。
ちぐはぐな印象をずっと抱いていたが、演出という映像の文体がお粗末だったからだと私は感じている。
私にはなぜ今バットマンなのか、という点が見えずにエンドロールを迎えた。
いっちゃあ悪いがやはり、ノーランは異常だったのだと思う。
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