ウエスト・サイド・ストーリー
評価点:80点/2021年/アメリカ/156分
監督:スティーブン・スピルバーグ
対立のモティーフが織りなす普遍の物語。
再開発を巡る論争でもめるニューヨーク、ジェッツを名乗るスラム街のリフ(マイク・ファイスト)たちは、プエルトリコ移民のシャークともめていた。
シャークスのリーダー、ベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)は、元ボクサーだった。
暴行罪で刑務所に入っていたトニー(アンセル・エルゴート)は保護観察になり、ジェッツから抜けて新しい生活を見つけようとしていた。
しかし、相棒のように思っていたリフは、ある日パーティーにトニーを誘い出し、シャークスとの決闘を申し込もうとする。
しぶしぶパーティーに参加したトニーは、そこでプエルトリコ移民のマリアと運命的な出会いをする。
言うまでもなく、「ロミオとジュリエット」のNYを舞台にした映画化作品だ。
一度1961年に映画化されいているが、スピルバーグがたっての希望から、再度映画化された。
リメイクというのはやはり違う。
映画を映画に焼き直したのではなく、あくまで舞台の映画化であり、再映画化と言われるのはそのためだ。
あくまでブロードウェイをはじめとするさまざまな国で公演されている、舞台の映画化である。
予備知識無しでも楽しめる作品ではあるが、やはりシェイクスピアの原作くらいは知っておきたい。
いや、この作品を入門として原作を読んだりするのもありだろう。
不朽の名作、とはこのことで、見るべき映画ではある。
▼以下はネタバレあり▼
私は子どもの頃、母親に見せられて以来、何度も見てきた。
テレビでも、ビデオでも、DVDでも。
そして、ブロードウェイが日本公演をしたときも見に行った。
私にとっては大事な作品で、ミュージカルとの出会いもこの映画が最初だった。
このタイミングで、なぜスピルバーグが、という思いが恐らく多くの人が抱いた疑問だろう。
私は再映画化といわれて、むしろ現代版にアレンジしたものが出てくると思っていた。
わざわざ当時と同じ時代設定で撮り直すモティベーションはどこにあるのだろうか、と。
映像技術や時代背景が変わった今、敢えて撮り直す意味を知りたいと思っていた。
同時に、やはり「もういいかな」という気持ちもあった。
他に見たい映画もあるし、わざわざ映画館で鑑賞するに耐えるだけの(期待に応えるだけの)映画なのかも不透明だったからだ。
しかし、見ることにした。
いくつかの候補の中で、映画館でどうしても見るべき作品はどれか、と問うたときこれが残ったからだ。
とはいえ、今からのレビューは61年度版と21年度版を比較するようなことはしていない。
差異を探すことはできても、無限にある舞台版との差異までを詳細に分析することに私は生産性を感じないからだ。
(そもそも、そんな時間もない)
だから、以下のものは専門家から言わせればちゃんちゃらおかしい可能性もあるが、それはそれで仕方がない。
遠い目で見ながら読み流してほしい。
私もさまざまな経験をして幼少期に見ていたころとは違った鑑賞態度になっていた。
それは舞台芸術を、キャラクターといった個の視点だけではなくもう少し俯瞰した物語全体の動きを捉える、といった見方になっていた。
それくらい、私にとってはおなじみの物語だったということもある。
この映画を見ながら思っていたのは、この映画の楽曲やモティーフに、対立があるということだ。
男と女、ジェッツとシャークス、恋をする者としない者、白人とそれ以外……すべての楽曲が対立、対峙、背反という形で提示される。
そしてそれはテーマでもある義理と人情(表現が古くさいけれど)に集約される。
社会的な立場や状況と、男女の恋が真っ向から対立する。
その個人の内面までを見透かした結構になっている。
そしてそれは「どちらが重要か」「どちらが正しいか」というような選択を迫るものではない。
むしろどちらも正しく、どちらも重要で、そこに答えを見いだせるものはない。
だからこそ、必然であり、その物語に悲哀がある。
たとえばトニーとリフが銃を取り合うシークエンス。
決闘か、話し合いか。
もちろん暴力行為を肯定することはできない。
だが、そんなことは物語の外の人にしか言えない。
トニーもリフもどちらも正しく、そしてどちらにも言い分がある。
だからこそ、両者を巻き込んだ形で破滅に向かっていくのだ。
そこには二人の考えの違いもあれば、【個人】の内面の表出ともいえる。
登場人物たちはそれぞれのロールは与えられているが、それは「個」としての人間性が重要なのではない。
むしろこの物語全体が一つの人間の有様を描いている。
だから、NYでもイングランドでも、現代でも1950年代でも同じことだ。
現代のキャスティングでスピルバーグが撮り直したことで、むしろ古くささよりも普遍性がしっかりと定着された。
社会的なコードや文化的なコードが捨象された(あるいは逆に閉じ込められた)としても、変わらない悲哀がある。
私はこの映画を見ながら「映画が文学になった」ことが証明されたような迫力を感じた。
いや、私が文学をやっていたからそう思うのだろう。
もっと正確に言えば、「映画が文化となった」瞬間に立ち会った気がした。
それは、アメリカ映画とかハリウッド文化とか、西欧中心主義とかそういう特定の立場を超えて、「語り継がれつづけるだろう」という意味においての普遍性を見た。
それだけではない。
これを書き進めている間に、私は持っていた61年版のサントラを聴いていた。
私にとってはいつまでも新しいと感じていた楽曲だったが、やはり時代の流れを感じずにはいられなかった。
私はこのスピルバーグ版と比較するまで気づかなかったが、楽曲じたいも大きくアレンジされている。
けれどもやはり「ウエストサイド」なのだ。
これは非常に難しく、そしてすごいことだ。
つまり同じ作品と感じさせながら、原作のままその良さや特徴だけを残して現代にアレンジされてしまっているのだから。
それは老舗の料亭がいつまでも同じ味に感じさせながら、実は内部で味を変えていっているのと同じようなことだ。
伝統を守りつつ、それでも変わっていく【何か】に合わせて変えていく。
それでいて作品としてのおもしろさをそのまま残す。
まさに正しく再映画化された、という評価に値するだろう。
もちろん好き嫌いはある。
けれども「源氏物語」や「ハムレット」、そしてモーツァルトなどとおなじように、芸術としての普遍性に至ったのではないか。
並々ならぬ障害を乗り越えて、この映画化にこぎついたスピルバーグの信念や執念が画面から溢れていた。
それはパンフレットが「メイキングブック」と称して2970円もするところにも表れている。
私はそれを買うのかどうか迷った。
しかし買ってしまった。
私は後悔している。
そして映画館に行って自動的にパンフレットを買うという習慣(鑑賞スタイル)を辞めようと思わせてくれた。
それくらい記念碑的な作品であることは間違いない。
(ここにも私の【悲哀】がある。)
評価点:80点/2021年/アメリカ/156分
監督:スティーブン・スピルバーグ
対立のモティーフが織りなす普遍の物語。
再開発を巡る論争でもめるニューヨーク、ジェッツを名乗るスラム街のリフ(マイク・ファイスト)たちは、プエルトリコ移民のシャークともめていた。
シャークスのリーダー、ベルナルド(デヴィッド・アルヴァレス)は、元ボクサーだった。
暴行罪で刑務所に入っていたトニー(アンセル・エルゴート)は保護観察になり、ジェッツから抜けて新しい生活を見つけようとしていた。
しかし、相棒のように思っていたリフは、ある日パーティーにトニーを誘い出し、シャークスとの決闘を申し込もうとする。
しぶしぶパーティーに参加したトニーは、そこでプエルトリコ移民のマリアと運命的な出会いをする。
言うまでもなく、「ロミオとジュリエット」のNYを舞台にした映画化作品だ。
一度1961年に映画化されいているが、スピルバーグがたっての希望から、再度映画化された。
リメイクというのはやはり違う。
映画を映画に焼き直したのではなく、あくまで舞台の映画化であり、再映画化と言われるのはそのためだ。
あくまでブロードウェイをはじめとするさまざまな国で公演されている、舞台の映画化である。
予備知識無しでも楽しめる作品ではあるが、やはりシェイクスピアの原作くらいは知っておきたい。
いや、この作品を入門として原作を読んだりするのもありだろう。
不朽の名作、とはこのことで、見るべき映画ではある。
▼以下はネタバレあり▼
私は子どもの頃、母親に見せられて以来、何度も見てきた。
テレビでも、ビデオでも、DVDでも。
そして、ブロードウェイが日本公演をしたときも見に行った。
私にとっては大事な作品で、ミュージカルとの出会いもこの映画が最初だった。
このタイミングで、なぜスピルバーグが、という思いが恐らく多くの人が抱いた疑問だろう。
私は再映画化といわれて、むしろ現代版にアレンジしたものが出てくると思っていた。
わざわざ当時と同じ時代設定で撮り直すモティベーションはどこにあるのだろうか、と。
映像技術や時代背景が変わった今、敢えて撮り直す意味を知りたいと思っていた。
同時に、やはり「もういいかな」という気持ちもあった。
他に見たい映画もあるし、わざわざ映画館で鑑賞するに耐えるだけの(期待に応えるだけの)映画なのかも不透明だったからだ。
しかし、見ることにした。
いくつかの候補の中で、映画館でどうしても見るべき作品はどれか、と問うたときこれが残ったからだ。
とはいえ、今からのレビューは61年度版と21年度版を比較するようなことはしていない。
差異を探すことはできても、無限にある舞台版との差異までを詳細に分析することに私は生産性を感じないからだ。
(そもそも、そんな時間もない)
だから、以下のものは専門家から言わせればちゃんちゃらおかしい可能性もあるが、それはそれで仕方がない。
遠い目で見ながら読み流してほしい。
私もさまざまな経験をして幼少期に見ていたころとは違った鑑賞態度になっていた。
それは舞台芸術を、キャラクターといった個の視点だけではなくもう少し俯瞰した物語全体の動きを捉える、といった見方になっていた。
それくらい、私にとってはおなじみの物語だったということもある。
この映画を見ながら思っていたのは、この映画の楽曲やモティーフに、対立があるということだ。
男と女、ジェッツとシャークス、恋をする者としない者、白人とそれ以外……すべての楽曲が対立、対峙、背反という形で提示される。
そしてそれはテーマでもある義理と人情(表現が古くさいけれど)に集約される。
社会的な立場や状況と、男女の恋が真っ向から対立する。
その個人の内面までを見透かした結構になっている。
そしてそれは「どちらが重要か」「どちらが正しいか」というような選択を迫るものではない。
むしろどちらも正しく、どちらも重要で、そこに答えを見いだせるものはない。
だからこそ、必然であり、その物語に悲哀がある。
たとえばトニーとリフが銃を取り合うシークエンス。
決闘か、話し合いか。
もちろん暴力行為を肯定することはできない。
だが、そんなことは物語の外の人にしか言えない。
トニーもリフもどちらも正しく、そしてどちらにも言い分がある。
だからこそ、両者を巻き込んだ形で破滅に向かっていくのだ。
そこには二人の考えの違いもあれば、【個人】の内面の表出ともいえる。
登場人物たちはそれぞれのロールは与えられているが、それは「個」としての人間性が重要なのではない。
むしろこの物語全体が一つの人間の有様を描いている。
だから、NYでもイングランドでも、現代でも1950年代でも同じことだ。
現代のキャスティングでスピルバーグが撮り直したことで、むしろ古くささよりも普遍性がしっかりと定着された。
社会的なコードや文化的なコードが捨象された(あるいは逆に閉じ込められた)としても、変わらない悲哀がある。
私はこの映画を見ながら「映画が文学になった」ことが証明されたような迫力を感じた。
いや、私が文学をやっていたからそう思うのだろう。
もっと正確に言えば、「映画が文化となった」瞬間に立ち会った気がした。
それは、アメリカ映画とかハリウッド文化とか、西欧中心主義とかそういう特定の立場を超えて、「語り継がれつづけるだろう」という意味においての普遍性を見た。
それだけではない。
これを書き進めている間に、私は持っていた61年版のサントラを聴いていた。
私にとってはいつまでも新しいと感じていた楽曲だったが、やはり時代の流れを感じずにはいられなかった。
私はこのスピルバーグ版と比較するまで気づかなかったが、楽曲じたいも大きくアレンジされている。
けれどもやはり「ウエストサイド」なのだ。
これは非常に難しく、そしてすごいことだ。
つまり同じ作品と感じさせながら、原作のままその良さや特徴だけを残して現代にアレンジされてしまっているのだから。
それは老舗の料亭がいつまでも同じ味に感じさせながら、実は内部で味を変えていっているのと同じようなことだ。
伝統を守りつつ、それでも変わっていく【何か】に合わせて変えていく。
それでいて作品としてのおもしろさをそのまま残す。
まさに正しく再映画化された、という評価に値するだろう。
もちろん好き嫌いはある。
けれども「源氏物語」や「ハムレット」、そしてモーツァルトなどとおなじように、芸術としての普遍性に至ったのではないか。
並々ならぬ障害を乗り越えて、この映画化にこぎついたスピルバーグの信念や執念が画面から溢れていた。
それはパンフレットが「メイキングブック」と称して2970円もするところにも表れている。
私はそれを買うのかどうか迷った。
しかし買ってしまった。
私は後悔している。
そして映画館に行って自動的にパンフレットを買うという習慣(鑑賞スタイル)を辞めようと思わせてくれた。
それくらい記念碑的な作品であることは間違いない。
(ここにも私の【悲哀】がある。)
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