secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ディス/コネクト(V)

2020-05-05 22:26:39 | 映画(た)
評価点:80点/2012年/アメリカ/115分

監督:ヘンリー=アレックス・ルビン

人がつながるか、つながらないか、ではない答え。

親が弁護士の16歳の少年ベン・ボイド(ジョナ・ボボ)は音楽を愛する孤独な少年だった。
同級生のジェイソン・ディクソン(コリン・フォード)がからかってやろうと、ほかの高校の女子を名乗ってSNSで近づこうとする。
ベンは何も知らないまま相手を信用していく。
一方ジャーナリストのニーナ(アンドレア・ライズブロー)は会員制のネットで未成年がみだなら行為で生計を立てていることを知り、報道ネタにならないかどうかと考える。
その相手は18歳と名乗るカイル(マックス・シエリオット)だった。
二人は次第に信用し合い、実際に会おうとする。
また、幼い息子を亡くしたシンディ・ハル(ポーラ・パットン)はSNS上で出会った男性とのやりとりを心のよりどころとしていた。
夫との間には愛情めいたものを感じることができず、二人目となる子どもに期待するが、失敗続きだった。
夫は出張先でカードが凍結されていることに気づき、カード詐欺に気づく。

ストーリーを読んでもわからないのは、この映画が群像劇だからだ。
ネット社会がつながる=コネクトできるものであるのに、つながれない、ディスコネクトをタイトルとしている。
もうすでに公開されて何年も経っているが古くささはないだろう。
むしろ、2020年でも全く状況が変わっていないため、十分おもしろい。

私はこの映画を公開当時に気になっていたが見ることができなかった。
アマゾンプライムで見つけたので、再生した。
どのような映画だったのかトレーラーも思い出せないまま再生したので、実質タイトルだけでみたようなものだ。

群像劇なので、それらをつないでいくことができなければ楽しめない。
映画を多少見慣れている人でなければ、そして人物を覚えるのに耐性がなければけっこうつらいだろう。
わかりやすいテーマだが、見る人は選ぶ。
私はもっと評価されていい映画だと思っている。

▼以下はネタバレあり▼

物語は、三つの軸が交錯している。
一つはハイスクールのなりすましSNS事件。
ベンが自殺するに至る軸だ。
もう一つはカイルという成年をジャーナリストが取材する、という軸。
最後は、夫婦がカード詐欺に遭い、その犯人を問い詰めていくという軸だ。

これらは完全に別個の事件ではなく、二人の父親がキーマンとなり、つながっていく。
自殺未遂をするベンの父親のリッチは、大手報道局の顧問弁護士をしている。
その報道局が、ニーナのいる会社である。
ボイドを陥れる少年ディクソンの父親であるマイクは、カード詐欺に遭った夫婦の私立探偵をしている。
情報関連の犯罪を調査する専門の探偵で、元警察官。
この二人が三つの事件をつなぐことで、一つの大きな物語を形成する。

ディスコネクトというタイトルが、けっこうなミスリードであり、レトリックになっている。
つながるのか、つながらないのか。
つながれるのか、つながれないのか。
つながるためにはどうすればいいのか。
そういうことをテーマだと読もうとするとこの映画が迷宮入りししてしまう。
あくまでSNSやネット環境というものは一つのモティーフ(題材)であって、テーマ(主題)ではない。

最後の、映画の答えとなるものがすんなり受け取れるか、理解できないかは人によっておおきく異なるだろう。
それが読後感(鑑賞後の印象)につながり、映画の評価に直結するものと思われる。
だからこの映画は賛否両論ある映画となるのだろう。

群像劇としては秀逸な人物描写がされていく。
まずは主要な人物の、状況と内面を整理しておこう。
弁護士リッチ・ボイドは、有名弁護士をしており、多くの顧客を抱えている。
有名であるかどうかはさておき、優秀であることは、大手の報道局の顧問弁護士をしていることからうかがい知れる。
当然お金持ちで、ある程度自由になる金もある。
そのぶん、家族と過ごす時間が少なく、息子がどのような交友関係をもっていたのか知らなかった。

興味がなかった、と言えばリッチに対して失礼だし、正確ではないだろう。
やはり、仕事が優先事項であり、仕事をすることが家族を愛することにつながる、という意識もあったはずだ。
弁護士をしているだけあって、息子を愛する方法を、抱きしめるとか意識が戻らない息子のそばにいるだけでは「十分ではない」と感じている。
それは、ただ何もしていない、子どもを思うなら、子どもがこのような状況に至った経緯をしっかりと知るべきだと、それが愛だと考えている。
だから、SNSに入り込み、息子を陥れた犯人を捜そうと躍起になる。

その息子ベンは、孤独で人との交流をひどく恐れている。
だから簡単にSNSのやりとりに没頭してしまい、信用してしまう。
自分を理解してくれる人がどこにもいない、その状況を救ってくれたのがジェシカという架空の女性だったわけだ。

ジェシカになりすまし、ジェシカとしてベンとやりとしていたジェイソンは、そんなベンにシンパシーを覚える。
それは父親との関係が悪いということも共通していたからだ。
ジェシカというキャラクターを演じながら、自分の本音をそこに書き込むことで、ベンの孤独に共感する。
父親は自分ことなんて、どうでもいいと思っている。

ベンが意識不明になって倒れたとき、必死になってリッチが犯人を捜そうとする姿に、理想の父親を見いだす。
自分の父親なら、そんなことをしてくれなかっただろう。
そういう思いが、彼をリッチの元へ行かせるのだ。

その父親マイクは、息子のために身を粉にして働いている。
誇りを持っていた警察官をやめ、お金のために私立探偵をしている。
誇りを持っていたとわかるのは、息子と友人が、同級生を死に追いやったと知ったときの言動に表れている。
彼は根っからの刑事で、悪を許さないという態度が染みついている。

彼もまた、働くことが息子のためになることで、愛情だと思っている。
厳しい態度で接すれば息子はきっと理解するし、正しい人間になると考えている。
ある意味で典型的な警察官であり、父親である。

だから、息子が重大な過ちを犯したことをしると、その証拠となるiPadのデータを消してしまう。
彼の正しさは、息子に罪を償わせる、というものではない。
息子を社会的制裁から守ってやることが、正しさ、愛情だと考えている。
画面のこちら側にいる私達にとっては、違和感があることかもしれない。
けれども、実際にその立場になったとき、そしてその証拠を消去できる技術と機会があったとき、果たして私は息子を刑務所に送ることができただろうか。
それは、簡単な決断ではない。

彼は刑務所がどういう場所で、そのあとどういう生き方が待っているのかも知っている。
軽い気持ちで行ったことで、果たしてすべてを失ってしまうほどの出来事だと自分(父親)に決めることができるのか。
何が正しいのか、誰にもわからない。

そのマイクが請け負う夫婦もまた悲しみをもっている。
イーサンという息子が若くして死に、夫婦は希望を失っている。
いい父親、尊敬される海兵隊という社会的地位を奪われた夫は、ネットギャンブルに走り、没頭すべき何かを見付けることができない。
妻は不妊に悩み、息子が失われたという絶望を、どのように振り払うことができるのかわからずにいる。
SNSで誰かを求めたのは、そのためだ。

愛したいし、愛されたい。
けれども、どうすればいいのかわからない。

そのSNSの相手、シューマッカーもまた、孤独な人間だ。
失った妻の悲しみを、SNSで晴らすことしかできない。

リッチが担当する報道局のレポーター、ニーナはよい仕事に恵まれていない三流レポーターだ。
だからやってはいけない方法で取材を進めてしまう。
彼女はもう若くないことを知りながら、どうやって大きな仕事をやってのけるか、わからないでいた。
そのときに注目したのが、カイルという存在だった。

はじめは利用しようとして近づいた。
しかし、次第にカイルの状況を知ることで、同情と愛情を持ち始める。
それは恋だったのかもしれない。
あるいは、自分の力でだれかの人生を変えたい、救いたいというヒロイズムだったのかもしれない。
いずれにせよ、どういう答えもないまま、逃亡するカイルに逢おうとしたのは、取材をした相手という意味だけではなかったはずだ。

俺はあんたと暮らせるのか。

その言葉がニーナには重すぎる。
逃亡した先に、よい生活があるとは言えない。
仕事をなくしたとき、若くも、美しくもない自分が、カイルに捨てられることは目に見えている。
自分には何もない。

人々はつながろうとして、ネット環境に身を置く。
だが、決してつながることはできない。
それは、ネット環境だから、ではない。
それは、常に周りに対しての不満と不服、疑念をぬぐうことができないからだ。

すべての問題の答えは、自分のなかにしかない。
ネットでその人を知った気になる。
すぐにつながることができる機器がある。
だがそれはコネクトとは全く関係がない。
コネクトするには、自分の心のコンセントを相手に向けられるかどうかだ。
コンセントを向けようとしていないのなら、相手の心にコネクトはできない。
相手もまた、コンセントを向けようとはしないから。

息子を亡くしたシンディ・ハルは、私が悪かったのだ、という心の叫びを、銃を向ける夫にぶつける。
夫は初めて、カードを失ったから、しょうもない仕事をしているから、息子が死んだから、この状況になったのではなく、目の前の人を愛することを見失ったから、現状があることに気づく。
最後のスローモーションになる三つのシークエンスは、すべて、なぜ愛する人を失ってしまったのかということを自分自身に突きつけるものになっている。

ただ目の前にいる人を、自分のコンセントを向けて、抱きしめるかどうか。
掛け値なしに抱きしめられなかったニーナは、相手の拒絶に遭い、抱きしめられたリッチとマイクは息子への愛を取り戻す。
デレックもシンディを抱きしめることで、コネクトする意味と方法を得る。

だからテーマは、つながるかつながれないかという二項対立ではなく、目の前にいる愛する人を愛せないのはなぜか、それが自分自身にベクトルを向けないからだ、という答えを得ること、なのだ。
だから、ベンを自殺に追いやった息子はどうなるのか、とか、そういうことはどうでもいい。
答えはそこにない。
スリービルボード」で全く答えが出ないことが、答えだったのと同じようなものだ。

人は誰ともつながれない。
どんな機器があろうと、なかろうと。
問題は常に自分自身にある。
どんなことを言い訳にする必要もなく、抱きしめられるかどうか。
その決定的な要素は、機器でもなければ相手でもない。
自分なのだ、ということだ。

あらゆる世代につきささるように、群像劇になっている。
この映画から、現代人はだれも逃れられないように作られている。
「私は関係ない」と言える人がいるとすれば、それはよほどの聖人だけだろう。

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