secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

ボーダーライン(V)

2020-04-18 21:36:32 | 映画(は)
評価点:76点/2015年/アメリカ/121分

監督:ドゥニ・ヴィルヌーヴ

フィクションという救い。

ケイト(エミリー・ブラント)はFBIの奇襲捜査を専門とする捜査官だった。
ある日アリゾナの民家を訪れるとそこには異様な形で隠された二十を超える死体があった。
事件後、上層部に呼び出され、サンダルで会議に参加していたマット(ジョシュ・ブローリン)に、この事件の黒幕を捕まえる作戦に協力しないかと提案される。
あまりに悲惨なこの事件の解決に関われることを知った彼女は、自ら志願する。
エル・パソと告げれていた目的地とは違う、メキシコの国境の町にいきなり連れてこられたケイトは不安と不信を募らせる……。

メッセージ」や「ブレードランナー2049」でも話題になったドゥニ・ヴィルヌーヴの作品。
こちらもアマゾンプライムでの鑑賞だ。
やはりほとんど予備知識なしでクリックした。

主人公となるエミリー・ブラントは「オール・ユー・ニード・イズ・キル」に出ていた人だ。
ジョシュブローリンやベニチオ・デル・トロについてはもはや紹介の必要もないだろう。
ケイトの相棒で端役だがダニエル・カルーヤも出ている。
なかなかの「エンターテイメント性」の高いキャスティングだ。

だがその一方で、画面からあふれる印象は、シリアスそのもので、リアリティがある。
テロップにこれは「真実に基づいている」とあれば、信じてしまうかもしれない。
それほどの残虐的で、シリアスな演出であふれている。

あくまでもこの映画はフィクションである。
その点を押さえておけば、物語の描こうとしている本質が見えてくるはずだ。

▼以下はネタバレあり▼

物語は隠されていればいるほど、おもしろく感じるものだ。
あるいは、私たちが目の当たりにする現実があまりにも隠されたものが多いので、隠された物語が描かれていれば私たちはそこにリアリティを感じるのかもしれない。
この、物語は、リアリティを追求しながらも、それが演出であり、あることを隠そうとしているからにすぎない。
それがわかれば、一気にこの物語の読み方の深みが増す。
もちろん、私の読みの正しければ(整合性があれば)、という話だが。

アメリカ国内で優秀な捜査官とされていたケイトが、メキシコとアメリカの国境付近で捜査する(何かの作戦に同行させられる)ことで現実を知っていく。
観客はケイトの目線で物語を体験するため、メキシコで起こることが異常で、危険で、非日常であることを突きつけられる。
アメリカ国内で起こった無残な殺人に始まり、いきなり連れてこられた国境の町での、死が日常になった世界。
白昼堂々、護送車が襲われ、それを逮捕状もなしにいきなり射殺してしまう。

圧巻だったのは、その町並みの対比だ。
アメリカの2×4の整った町並みから、メキシコに入るとそこは別世界の混沌とした町へ。
ほんの数メートルのフェンスを隔てて、全く違う世界が広がっている。
その視覚的な対比は、この出来事がリアルなものであることをケイトと観客につきつける。
それは「灼熱の魂」でえぐられた魂と肌感覚を思い出させる。

その序盤から、ケイトは精神的に追い詰められていく。
自分は何もできない、自分が生きてきた世界とは全く違う、暴力や超法規的な何かでなければ解決できない闇と悪意。
手続きを踏んだところで、私には何もできない。
正しさという足かせによって、本質は何かを見失っていたことに気づかされていく。
事件を解決することか、法的な裁きを受けさせることが正義なのか。

これらのリアリティある演出とシークエンスはすべて、ケイトと観客を一つの方向へと導くために仕組まれたものだ。
それは、「だから私怨によって黒幕を殺すことは許される」という武力での解決の肯定だ。

この映画のすべては、コロンビアで麻薬を売りさばいていたアレハンドロ(デル・トロ)をヒーローに仕立て上げるための話だった。
言い方を換えれば、ケイトは単なる視点人物に過ぎず、真の主人公はアレハンドロだったのだ。
だから、彼が最後に英雄的に麻薬組織のカルテルのボスを、始末してしまうという、なんともフィクション性に満ちた終わり方をする。
これがもしトム・クルーズだったなら、全く違和感はない。
なぜなら、トム様なら、どれだけ困難な状況でもやり遂げるからだ。

それはフィクション性に支えられているからに他ならない。

だが、この映画はリアルに、デル・トロをヒーローに描き出したかった。
一人の男が、超法規的に、カルテルのボスを殺しに行くためにはどのような設定や展開であれば成り立つのか。
それは、観客を「法的な手段に則って進めたのでは解決できない現実があるのだ」と信じ込ませることだ。
そのために用意されたのが、ケイトという人物だ。

結末を見てしまえば何のことはない。
ただ、デル・トロという復讐に駆られた男が、アメリカ政府を利用して、麻薬組織を解体させる物語だ。

だから、メキシコって怖いとか、アメリカは麻薬に汚染されているとか、そういう社会的な視座で物語を見る必要はない。
「ああ、アレハンドロかっこいいね」という感覚で物語を味わえばいい。
この映画は現実には有り得ない、ヒーローものだからだ。

しかし、エミリー・ブラントをはじめとした役者たちは迫真の演技で、この物語に説得力を与えている。
だから異常な緊張感が続くし、その様相は「ハート・ロッカー」のようなものだ。
だからといって、この映画はそういう社会的な状況を伝える映画とは全く異なったものだ。

フィクションである、ということが救いになる映画なのだ。

私はこのことに、アレハンドロが単身アジトに乗り込む直前まで気づけなかった。
だが、アメリカ政府側の人間が誰もアレハンドロに付いていこうと(監視も協力も)しなかったことから、物語が理解できた。
この有り得ない状況を、いかに説得力あるように見せるかが、この映画の肝だったのだ、と。

この映画の原題は、「殺し屋」を意味する「シカリオ」である。
視点人物の「ボーダーライン」とすることで、物語は余計に見えにくくなった。
(境界線、正義と悪の境界線、アメリカとメキシコの境界線、というようなドキュメンタリーを意識させる邦題だ。
おそらく邦題をつけた人はケイトが狂言回しだったことに気づいていないからだろう。)

また、最後の警官だったシルヴィオの息子がサッカーをするシークエンスなども、この映画が社会的な視座をもつ映画のように演出する。
(頭をとっても、町の現状は変わらないというメッセージ)
だが、それにしても超法規的な状況が多すぎて、アレハンドロがスーパーマン過ぎるのだ。

アクション映画、ヒーロー映画の一つの演出として、おもしろい映画ではある。
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