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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

パーフェクト・センス(V)

2020-05-12 17:43:07 | 映画(は)
評価点:76点/2011年/イギリス/92分

監督:デヴィッド・マッケンジー

この「感染症」の名は。

感染症分析官のスーザン(エヴァ・グリーン)は、恋人を失い消沈していた。
そんな中、上司から気になる症例の患者がいる、と病院に行くように言われる。
その男性は、突然悲しみに暮れて、そして嗅覚を失ったという。
その症例が世界各地で確認されており、さらに患者に共通点もなかった。
何もわからないまま世界は混乱に陥っていく。
シェフのマイケル(ユアン・マクレガー)は、職場のレストランの裏通りにある家のスーザンに話しかけ、口説こうとする。

知人に紹介されて、アマゾンプライムで鑑賞した。
「感染列島」のぱくり、「コンテイジョン」が話題だが、こちらのほうが今見るべき映画だ、と言われた。
例によって予備知識なしで見た。

ユアン・マクレガーが出ているということ以外に、特筆すべき事はないだろう。
現在の世界情勢から考えると、どうしてもディザスター映画や、パニックホラーのような雰囲気や方向性で見たくなる。
だが、そういう方向性で見ても、期待しているような「答え」は与えてくれない。

題材は感染症(かどうかは映画の中では明らかにされないが)であっても、もっと個人的な物語だ。
こういう映画はおそらく世間には評価されないだろうが。

▼以下はネタバレあり▼

悲しみか訪れて、その後嗅覚が奪われる。
突然不安が襲い、その後猛烈な食欲に駆られ、味覚が奪われる。
さらに、怒りが訪れて、聴覚を失う。
最後に、幸福感に包まれた後、何も見えなくなる。

この「感染症」によって引き起こされる症状である。
感染症の分析官であるスーザンが主人公であるということもあって、しかもこの新型コロナウィスルが蔓延している2020年にあって、どのような原因や感染ルート、発生源、解決方法があるのかと思いながら見てしまうことだろう。
だがそんなことを真剣に追っても、劇中ではなにも明かされない。
いや、明かされているが、それが「答えである」とは誰も気づかないだろう。
また、その答えを言ってしまうと、一気にこの映画の面白さが失せてしまうかもしれない。
何しろ、最も言いたいことを隠すからこそ、そこに物語性があるのであって、言ってしまうと「はぁ。そうですか」という感想になるだろう。
このブログではそれを言ってしまうのだが。

有り体に言えば、その感染症の名前は、「恋」である。
だから、劇中ドイツで健常な子どもが生まれた、という台詞があるが、当たり前なのだ。
生まれてすぐの子どもは、どのセンスも失われていない、恋を知らないで生まれてくるのだから。
幼児になれば、すでに「恋」の端緒を感じることができる。
だから、幼児が悲しむ様子が挿入されることになる。

この感染症に原因不明で、共通点はない。
ただ人間であれば必ず陥る恋の病。
それがこの感染症の中身であり、だからこそ、治すことは不可能なのだ。

私たちが恋に落ちる、その一端を感染症と感情、そして感覚の喪失によって表されている。
そういう映画だ。

スーザンは恋人と別れて、その失恋によって会社を休んでしまうほど悲しみに暮れていた。
理由は、結局、自分は最終的に子どもが産めないから、この恋は成就するはずがない、という劣等感だろう。
マイケルも、恋人を病気で亡くし、最後まで看取ることができない、という贖罪の念をぬぐえない。
だから、恋人ができても、一緒に眠ることができず、恋に落ちることができない。

その二人が出会うことで、世界は感覚を失っていく。
この世界は、二人の内面を表した世界であり、世界もまた恋に落ちていることを比喩する。
所詮人間は自己の内面で世界を受け止めることができず、世界を救うとは自分を救うことである。
世界を変えるとは、自分を変えることに他ならない。

激しい悲しみに襲われて、二人は出会う。
このままやっていけるのか、不安に思う。
そして熱い恋心も、怒りとともに離れるタイミングがある。
だが、二人は決して離れることはできない。
二人にしかお互いを幸福にすることはできないから。
残るのは嗅覚、味覚、聴覚も、視覚までも、失われた相手を思う心だけである。
それは、まさに「パーフェクトセンス」であり、それは恋する感情そのものだ。

全人類を巻き込んだ、この騒動は言ってみればものすごくありきたりでどこにでも転がっている感染症をモティーフにしている。
だから、言ってしまうと無味乾燥になる。
この単純化されてしまうこと、無味乾燥になることを、わざわざ大げさに描くことが、この映画のおもしろさだ。
グロテスクに、露骨に、滑稽に。
人は恋に落ちたとき、とる方法は二つだ。

もう世界は終わったのだとして、仕事も義務もすべてを投げ出す者。
それでも世界は良くなるかもしれないと思い、仕事を続ける者。

このあたりの語りも、恋と置き換えても何ら不思議はない。

「そんなこと大げさだ、恋で世界は一変しない」というニヒリストもいるだろう。
だが、恋とはそういうものだ。
運命的な恋とは、それまでの歴史性を覆す、大事件だ。
それはあらゆる映画、物語でも描かれていることだろう。

いま、このタイミングではどうしても新型コロナウィルスと同じ文脈で見たくなる。
もし、いま、この映画を見て思索を深めるとすれば、この状況はまさに「自分という小さな窓から世界をどのように捉えているか」が透けるということかもしれない。

世界は危機に瀕しているのか。
世界は新しい時代を迎えようとしているのか。
これまでの生き方や生活を見直す契機として捉えるのか。
幸か不幸か、この状況は、私たちに私たち自身のこれまでの在り方を振り返るように突きつける。
人との接触を断つ、ということは簡単にみえて、実は非常に難しい。
そういうことを日々感じさせる状況だろう。

世界は所詮、「自分の世界」でしかない。
そのことに気づいたとき、私たちは世界に対してどんな自分の窓が持てるだろうか。

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