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ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

本とインターネット(5)

2021-01-21 07:58:38 | 毎日コラム
さて、終わりが近づいてきた。ようやく。

5つめの観点は、情報の質についてだ。
以前にも書いたように、本は内部に目的があり、インターネットは外部に目的がある。
インターネットはそれ自体の記事で利益を上げること(目的を完遂すること)をせずに、それを利用させることで別の利益に繋がるような広告の役割を果たす。
これが、情報の質にも影響する。

目的の内外によって、本はフィクション(虚構)を描くが、インターネットは嘘(フェイク)を描き出す。
本に書かれた文章がフィクションが含まれていても大きな問題にならない(いやもちろんフェイクニュースが本で垂れ流されてきた歴史は沢山ある)が、インターネットはフィクションとはならない。
それはフェイクとして扱われる。
ふつう、インターネットに溢れる情報は、フィクションでは済ませられない。
これは、フェイクしかないという意味ではない。
むしろこれは受け手の問題であり、あきらかなフィクションであったとしても、なぜだかインターネットの情報は「だまされた!」となって「フェイク」になってしまう。

表現である以上本もインターネットもフィクションだ。
表象と言い換えてもいい。
だから本来、こういう対比は起こらない。
けれども、刹那的に生まれ消えていく「ホンネを書くもの」とされるインターネットは、偽情報が氾濫した時、それはフィクションとして捉えられずにフェイクとして捉えられてしまう。
本は出版までの長い道のりがあり、また読み終わるまでに長い時間がかかる(ものが多い)からこそ、情報や知識に対するチェックが起こりやすいからだろう。

だが、断じておくが、ともに表現である以上すべてがフィクションなのだ。
エクリチュールはすべてがフィクションであり、その表現上で完結されるメッセージでしかない。
そこには誤解も誤謬も、誤読も含まれる。

だから、あらゆる情報がフェイクである可能性を排除できないインターネットは、砂浜にある原石のダイヤモンドを探すごとき態度で接するしかない。
重ねて言うが、これは、インターネットそのものの特徴と言うよりは、むしろ受け手の態度なのだ。
しかし、それでもしばしば、この対比は起こってしまう。
そして、それが特性となりつつあるわけだ。

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