これを書きあげようと思ったのは数年前だった。
だが、考えられる観点が少なく、そして説得力ある文章にできる自信もなかったので書いてこなかった。
もちろん、書こうとしている今でも説得力あるどころか、かなり横暴な議論になっていることは承知しているが。
そのとき、最初に考えついた観点は、今回取り上げる〈他者〉である。
本とインターネットとを分かつ最も象徴的な対比は〈他者〉の有無ではないか、ということだ。
本には〈他者〉がいる(ことが多い)。
しかし、インターネットには〈他者〉がいない。
だから一方的に語ること、発信することで満足できてしまうし、自分と対立する意見を表明されても無視することができる。
自分と等価値の相手、というのものが想定しにくい。
あるいは完全に忘れ去られてしまう媒体であるのが、インターネットではないか、ということだ。
もちろん〈他者〉の存在を忘れた作家もいるだろうし、テレビは長らく視聴者を無視した(軽視した)態度をとり続けているように見える。
だが、インターネットはその特性上、〈他者〉に開かれているようで、〈他者〉を全く無視する選択をとることができる強力な媒体だ。
誹謗中傷が起こりやすく、それによって傷ついてしまうことが多いのも、〈他者〉がいることを想像しにくいことが所以だろう。
相手が自分と同じように尊いと思わない人が、けなす。
自分と同じように考えてくれているはずだという大切な存在からけなされた人は、相手がどんな人物で意図で話したかどうかわからないことをダイレクトに受け取ってしまう。
それは強い弱いという対比ではない。
面と向かってこういうことは起こらない。(あるいは起こりにくい。)
不特定多数の人間から批判に晒されるのは、インターネットが登場するまでは一部の人間に限られていた。
そういう一部の人間はそれなりの覚悟をもって登壇していた。
だが、今のインターネットはそうではない。
〈他者〉という想像力を持て、というふうに学生時代はよく言われた。
特に久しく読んでいた言語に関する書籍を書いた、多くの先人たちはそのことを指摘していた。
だが、ここにきてそれをもう一度声高に言わなければならないのだろう。
インターネットに〈他者〉を想定する必要はない、そこに自分と同じ等価値の人間は【いない】と。
これはインターネットの価値を貶めるものではない。
表現として卑下するつもりもない。(現にこの記事はインターネットで書かれたものだ)
むしろだからこそ救いのある表現である、という言い方ができるだろう。
もちろん、だからといってどんな言説も許される場所がインターネットである、というような居直りを主張するつもりもないが。
だが、考えられる観点が少なく、そして説得力ある文章にできる自信もなかったので書いてこなかった。
もちろん、書こうとしている今でも説得力あるどころか、かなり横暴な議論になっていることは承知しているが。
そのとき、最初に考えついた観点は、今回取り上げる〈他者〉である。
本とインターネットとを分かつ最も象徴的な対比は〈他者〉の有無ではないか、ということだ。
本には〈他者〉がいる(ことが多い)。
しかし、インターネットには〈他者〉がいない。
だから一方的に語ること、発信することで満足できてしまうし、自分と対立する意見を表明されても無視することができる。
自分と等価値の相手、というのものが想定しにくい。
あるいは完全に忘れ去られてしまう媒体であるのが、インターネットではないか、ということだ。
もちろん〈他者〉の存在を忘れた作家もいるだろうし、テレビは長らく視聴者を無視した(軽視した)態度をとり続けているように見える。
だが、インターネットはその特性上、〈他者〉に開かれているようで、〈他者〉を全く無視する選択をとることができる強力な媒体だ。
誹謗中傷が起こりやすく、それによって傷ついてしまうことが多いのも、〈他者〉がいることを想像しにくいことが所以だろう。
相手が自分と同じように尊いと思わない人が、けなす。
自分と同じように考えてくれているはずだという大切な存在からけなされた人は、相手がどんな人物で意図で話したかどうかわからないことをダイレクトに受け取ってしまう。
それは強い弱いという対比ではない。
面と向かってこういうことは起こらない。(あるいは起こりにくい。)
不特定多数の人間から批判に晒されるのは、インターネットが登場するまでは一部の人間に限られていた。
そういう一部の人間はそれなりの覚悟をもって登壇していた。
だが、今のインターネットはそうではない。
〈他者〉という想像力を持て、というふうに学生時代はよく言われた。
特に久しく読んでいた言語に関する書籍を書いた、多くの先人たちはそのことを指摘していた。
だが、ここにきてそれをもう一度声高に言わなければならないのだろう。
インターネットに〈他者〉を想定する必要はない、そこに自分と同じ等価値の人間は【いない】と。
これはインターネットの価値を貶めるものではない。
表現として卑下するつもりもない。(現にこの記事はインターネットで書かれたものだ)
むしろだからこそ救いのある表現である、という言い方ができるだろう。
もちろん、だからといってどんな言説も許される場所がインターネットである、というような居直りを主張するつもりもないが。
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