secret boots

ネタバレ必至で読み解く主観的映画批評の日々!

白いリボン

2011-01-21 23:56:57 | 映画(さ)
評価点:83点/2009年/ドイツ・オーストリア・イタリア・フランス

監督:ミヒャエル・ハネケ

体に巻かれた白いリボンは何を〈抑圧〉しているのか。

ドイツの田舎にある村では奇妙なことが起こっていた。
それは第一次世界大戦が始まる前の話だった。
教師をしていた語り手(クリスティアン・フリーデル)は、村のドクター(ライナー・ボック)が何者かの仕掛けた針金で落馬して骨折したという話を聞く。
14歳の娘と5歳の息子がいるドクターは、隣の助産婦(スザンヌ・ロタール)に面倒をみてもらうことになる。
小作人の妻が作業中に死んでしまうという事故が起こる。
小作人の息子は、男爵がわざとやったのだと疑い始める…。

パルムドールを受賞した話題作。
やはり「M4」会で観ろと言われたので、公開終了直前に映画館に駆け込んだ。
単館でしかも日の上映回数が一度だけという厳しい状況だったが、時間があったのが幸いした。
ハネケといえば僕は「ファニーゲームU.S.A.」が記憶に新しい。

具体的な話を描かず想像させるという手法は、きっと観る者を混乱に陥れるだろう。
映画評をいくつか確認したが、突っ込んだ内容を書いているものは殆どなかった。
それほど解釈が難しい作品なので、公開後レンタルするにしても注意が必要だろう。
また、楽しい映画ではない。
群像劇のように話がちりばめられているため、それをつないでいく作業にはパワーがいる。
観る人を確実に選ぶ作品だが、「ゼア・ウィル・ビー・ブラッド」などの作品が好きな人はおもしろいと感じるだろう。

▼以下はネタバレあり▼

非常に抽象的であり、かつ具体的な映画だ。
たくさんのエピソードが描かれながら、そしてそれは具体的でありながら、全体的にぼやけている。
見終わった後に感じることは「○○はどういうことだったのか」という疑問と霧がかかった全体像を解き明かしたいという衝動だろう。
面白い。
けれども、単純な映画でもわかりやすい映画でも、その魅力を言葉で説明できる映画でもない。
僕は見終わって五日経って、ようやくパソコンの前に座る決心をした。
それまでネットサーフィンしてみたり、勧めてくれた方に意見を聞いてみたりした。
よってこれからの内容は、多少他の人の考えに影響されているところはあるだろうと明言しておこう。

抽象的で、なおかつ具体的であるということは、それはとりもなおさず「文学的」であり「芸術的である」ということだ。
なぜこの映画がパルムドールをとったのだろう。
そのあたりを含めて考えていくことにしよう。

この映画のタイトルは「白いリボン」である。
なぜこのタイトルであるのかは見た人にはわかるはずだ。
村の牧師が娘と弟に白いリボンを巻きつけるというシークエンスからつけられたものだ。
その白いリボンとは何か。

牧師は説明する。
「このリボンはお前たちが無垢であるようにと戒めるためのものだ。
お前たちが子どもの頃、もうとっていいだろうとはずしたのが私の間違いだった。
お前たちが本当に無垢でいられるようになるまでこのリボンを外してはならない。」

大人なら、あるいは人間であるなら誰しもわかることだが、これが単なる欺瞞であることは明白だ。
この映画をまとめるなら、「白いリボンを巻かれた少年少女がそのリボンを解(ほど)かれるまでの物語」である。
物語終盤でリボンを解かれるが、それは決して無垢であり続けるからではない。
娘が、買っていた鳥を十字に刺し殺したことを知っていながら、リボンを解く。
これは極めて象徴的なシークエンスだ。
父親である牧師は、小鳥が誰に殺されたか知っていた。
それが娘か息子かまで分からなかったかもしれない。
けれどもどちらかであることは確信していたはずだ。

それでも牧師は白いリボンを解いてしまう。
つまり、牧師は姉弟が無垢であることを確信して解いたのではない。
無垢でない二人を、無理やりに無垢であることを認めるために解いたのだ。

この映画の大きなテーマの一つが、この無垢を求める教育の在り方と、それに対する純真な反発である。

子どもたちはある意味で非常に原理主義的に、あるいは禁欲的に、あるいは純血主義的に行動を起こす。
子どもたちは不倫していたドクターに針金を仕掛けて、権力を恣(ほしいまま)にする男爵の息子をつるし上げ、ひたむきを装う助産婦の息子の目を奪う。
これらの事件は犯人が明確でないが、おそらく彼らの仕業だろう。
この三件に共通するのは事件後彼らが様子を伺うカットが挿入される。
彼らは自分の行いがどのような結果を生んだのか、確認したかったのだ。
火事現場にもどる放火犯と同じだ。

動機は全て自分たちの〈無垢〉を完遂するためだ。
街にある様々な不条理を正すべく、彼らは行動を起こしたのだ。
それはやがて彼らが大人となる時、ナチスを形成する歴史的記号性と符合する。

また同時に禁欲を望みながら禁欲を達成しない大人たちへの反逆とも言える。
牧師は息子に病気になって死んでしまうぞと脅す。
彼は納屋の火事に気づいた時、両手を縛られて寝ていた。
彼は自慰行為を父親の牧師にとがめられていたのだ。
性に目覚めはじめた息子を、プロテスタントの教えを強要したのだ。
だが、彼は気付いている。
それは単なる欺瞞に過ぎないことを。

それは単純な二項対立ではないだろう。
日本人的な本音と建前といったものではない。
眼前に広がる矛盾であり、不条理なのだ。
大人たちはそれを黙認しながら生きてきた。
「そういうもの」だったからだ。
けれども、時代は封建的な世界や旧態依然としたシステムに嫌気がさしていた時期だった。
そう、それぞれが「自由」を掲げる過渡期にあったのだ。

もう一つの大きなテーマがそれだ。
システムの崩壊、一つの時代の終焉と発端である。
男爵と呼ばれる村の有力者は人々に仕事を保障しながらも、村人たちからは慕われていなかった。
それを象徴するのが、小作人の妻が事故死したあとの家族の反応だ。
小作人の妻は事故だったのかそうでなかったのかそれはわからない。
問題はそこにはない。
その出来事の後、その子どもは「男爵のせいだ」と考えたことを重視するべきだ。
息子は直接的であれ間接的であれ貧窮に苦しむ自分たちの母親は男爵に殺されたと解釈した。
そしてキャベツ畑を切り刻むというテロを起こす。
素直に家族に告白した息子のために、一家は仕事を失ってしまう。
ただでさえ苦しい生活だったのが、救いようのないどん底に陥ったのだ。

その後父親が自殺したのは納屋を燃やしたのが彼だからだろう。
生きていけないと判断した父親は自殺することで男爵への許しを乞うという形をとったのかもしれない。
もう一つは納屋を燃やすことで一矢報いたのかもしれない。

いずれにしても、これは「テロ」である。
上のものが下のものの面倒をみて、下のものは上のものを敬うというそれまでの体制は完全に崩れたことを示唆する。

五日間考えてきた僕の読解は以上のようなものだ。
それでも僕にはわからないことがいくつかあった。
一つはなぜ恋人エヴァ(レオニー・ベネシュ)が池へのピクニックを嫌がったかということ。
もう一つは結末のドクターの失踪と助産婦の蒸発だ。
解釈の可能性はいくつかあるが、どこかぼやけている。
一度の鑑賞では「あらゆる部分は論理的に説明可能だ」とする監督の意図を汲み取ることはできなかった。

一つの時代の終わりと始まりを切り取った作品だ。
文化の違う日本人が彼らの様子をこのように描かれてもわからない部分が当然ある。
140分を超える長い映画で、しかもモノクロで語られるにもかかわらず、十分に伝わる力強さがある。
ハリウッド映画や邦画ばかり見ている人の琴線には触れないだろうが。

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