評価点:65点/2004年/日本
監督:大友克洋
何かが決定的に足りない。
19世紀。マンチェスターで働く発明家の息子レイ(声:鈴木杏)は、科学者である祖父(声:中村嘉葎雄)から届いた小包を開ける。
丁度そのとき、オハラ財団と名乗る男たちが、その小包を渡すようにとレイの家を訪れる。
しかし、祖父からの手紙を読んだレイは、その小包を財団に渡してはならないと知り、小包に入っていた金属製の玉と、その図面をもって逃げようとする。
そこへ祖父が現れ、父親(声:津嘉山正種)が死んでしまったと告げる。
祖父と財団の男たちとが争っている間にレイは逃げるが、つかまってしまう。
捕まえられたレイがつれてこられたのは、首都ロンドンであり、そこで死んでいたはずの父が目の前に現れる。。。
「AKIRA」の監督であり原作者の大友克洋の待望の新作。
制作に9年もかかったという作品で、待ちに待ったという人も少なくないだろう。
この2004年の夏、話題作の一つだと言ってもいい。
そのわりには、ネットや周りの評判があまりよろしくないのだが。
▼以下はネタバレあり▼
「AKIRA」の近未来(当時としては)の世界観とは打って変わって、19世紀のイギリスが舞台。
蒸気全盛の時代であり、「科学」が本格的に近代化しはじめた時期である。
工場では大量生産がはじまり、石炭の汽車が走る。
まさに、ヒトの生活が変わろうとしている時代である。
その時代を、あったかもしれないと思わせるほど、緻密に描きこまれた絵で表現している。
黒煙によって暗い街になってしまった都市には、どこか明るい雰囲気があり、活気がある。
その雰囲気が伝わってくる絵は、さすが大友克洋という感じだ。
この壮大な、そして繊細な風景は、映画の中でも大きな魅力となっている。
キャラクターも面白い。
まっすぐで多才な少年、レイをはじめ、ちょっとオマセで、我がまま、
しかし同年代の友達が欲しいと思っているスカーレット(小西真奈美)。
悪役となってしまったサイモンも、憎めないキャラになっている。
また、英国軍のスティーブンスン(児玉清)や、デイビッド(沢村一樹)が、単なる善良な科学者ではなく、
善悪二面性をもったキャラクターとして描かれているのも、興味深い。
ストーリーも、冒険活劇であり、とても面白い。
少なくとも、「AKIRA」のような観客を無視した展開ではないという点が、「AKIRA」よりもすぐれているといえる。
やはり映画として成立しているのは、本作のほうであろう。
全体としては、非常に面白く仕上がっている。
しかし、決定的に何かが足りないのである。
どうしても、手放しに良かったと思って映画館を出る事ができなかった。
首をかしげながら、「うん? うん?」と映画館を後にした。
疑問点は大きく二つある。
そしてその二つが欠落している事によって、一つの大きな欠点を発見するに至るのである。
まず第一に、父親という存在である。
父親・エドワードと祖父・ロイドは、長年の夢であった、超高圧の蒸気を超高密度な状態で保つ研究に成功した。
それがレイの託されたボール、「スチームボール」であった。
しかし、父親のエドワードは、その成功のために、右腕を失ってしまう。
彼は、祖父(エドワードにとっては父)の云うことを聞かずに、科学を兵器として使うことに没頭し始める。
そして、ついに三年後の万国博覧会の時、彼の最大の兵器、スチーム城が完成するのである。
それに反対した祖父は、スチームボールを子供たちの遊園地のために利用しようと提案するが、エドワードと対立、結果、ロイドは一人、オハラ財団に立ち向かうことになる。
そこにレイが加わる事になり、おおきな事件へと発展するのである。
ここで問題なのは、父親を動かしている行動動機と、父親を変えてしまった理由が全く説明されないことである。
父親と祖父は、共に、三年前のスチームボールの完成までは、協力し合い、研究を進めてきたもの同士である。
それなのに、父親は完成した後から、科学を兵器に使うようになったと下のような祖父の台詞からわかる。
「あいつは魂を売り渡したんじゃ。そんな奴は死んだも同然じゃ!」
では、父親はなぜ変わってしまったのか。
その点がすっぽりと抜け落ちている。
だから、どれだけ情熱をもってレイに夢を語ったとしても、説得力がない。
また、暴走し始めてからも、なぜそこまで兵器としての科学にこだわるのか、
説明がないため、父親のどの部分を改めさせたいのか、という点がわからない。
よって、レイは何と戦っているのか、わからないのである。
そして父親をどうすれば止められるのか、救えるのか、全く不透明なまま戦闘が始まってしまう。
解決する際に、それが明らかになれば、まだ救いはあった。
それもないのである。
終盤、暴走したスチーム城を祖父と共に止めるのだが、なぜ止める気になったのか、わからない。
人々のために作った自分の兵器が、ロンドンのど真ん中で爆発しそうだから、止めたと積極的に理解しようと思えばできる。
それにしても、彼の心(=行動動機)を砕かなければ、そういう反省の視点を持つ事は不可能なはずである。
(あそこまで大きな事件を起こそうとしたのだから)
事件は、収まった。
いちおう、爆発は避けることができた。
しかし、父親の心を砕かなければ、全く問題解決にならない。
「また戻ってくるさ」とさわかやにレイが語ったとしても、またスチーム城で戻ってこられたら、どうするのだろうか。
対峙すべき問題(父親の行動動機、心の闇)が示されることなく、解答(その改心)も曖昧で終幕する。
これでは、カタルシスを得ることは不可能であり、本当の問題である父親と、祖父、レイとの対立が解決していないことになる。
科学への警鐘も非常に曖昧なものになってしまい、問題の本質が見過ごされてしまっている。
レイはどこへ向かおうとするのか、という方向性も、全く見えてこない。
これでは、折角のストーリーや世界観も台無しになってしまう。
そして、第二は、オハラ財団という設定の甘さである。
オハラ財団の戦略性がまったくわからないのである。
金儲けをしたい。
もともと南北戦争で闇の商人をしていたから、今度は、より強力な武器を売りたい。
そして、それは蒸気による科学の力である。
それはわかる。
しかし、だから各国の軍事顧問を呼んで、英国との戦争を見せよう。
それはわからない。
闇の商人とは、もともと、「闇」でなければならない。
その存在が、大手を振って、英国軍と戦争してしまうと、英国における、何もかもを失ってしまう。
金儲けをするためには、あまりにリスクの高いデモンストレーションである。
兵器の威力のデモンストレーションするなら、小さいところで事件を起こして、実はそれがオハラでした~、とするなら、まだ納得できる。
このように、一国とまともに、名前を出して戦争行為に至るのは、殆んど無謀としか言いようがない。
さらにオハラ財団の異常さは、そのデモンストレーションを、各国に平等にプレゼンテーションしている点である。
兵器などの軍事的な部分というのは、その国の根幹にかかわる。
よって、隣にライバル国がいるのに、同じ兵器を買い付けるような真似をするはずがない。
テロリストならまだしも、公の国である。
平等に席を設けて、いくらいくら買います、などという商談は成り立たないだろう。
闇の商人とは、あっちにもこっそり武器を売り、こっちにもこっそり武器を売る。
そして両方から儲ける。
これが常識なのではないか。
双方に公にしてしまっては商売として成り立たないはずである。
その異常さに気づかないオハラ財団の戦略性が、まったくみえないのである。
しかも、オハラ財団の肝心の代表がいない。
だから、余計に方向性がわからない。
科学者エドワードの言いなりになって動いている、としか思えない。
要するに、作り手の都合のいい設定しか、与えられていないのである。
そこに説得力もなければ、したたかさもない、そして怖さもないのである。
この二つの疑問点――父親の行動動機のなさと、オハラ財団の戦略性のなさ――は、映画成立の大きな問題となる。
「敵」がいないのである。
精神的な敵、父親の闇の部分、そして、物理的な敵、オハラ財団の戦略。
その両者共に不在であるため、物語として基底の部分で破綻してしまっている。
世界観、映像美、勧善懲悪をこえた人間性、どれもがすばらしいが、物語の基底である〈敵〉が曖昧で、不透明。
これでは、いい映画になるはずがない。
次回作が決定し、「スチームガール」になるらしい。
作るなら次回作は、もっと脚本を練って欲しい。
作らない方がいいとは思うけどね。
(2004/8/13執筆)
監督:大友克洋
何かが決定的に足りない。
19世紀。マンチェスターで働く発明家の息子レイ(声:鈴木杏)は、科学者である祖父(声:中村嘉葎雄)から届いた小包を開ける。
丁度そのとき、オハラ財団と名乗る男たちが、その小包を渡すようにとレイの家を訪れる。
しかし、祖父からの手紙を読んだレイは、その小包を財団に渡してはならないと知り、小包に入っていた金属製の玉と、その図面をもって逃げようとする。
そこへ祖父が現れ、父親(声:津嘉山正種)が死んでしまったと告げる。
祖父と財団の男たちとが争っている間にレイは逃げるが、つかまってしまう。
捕まえられたレイがつれてこられたのは、首都ロンドンであり、そこで死んでいたはずの父が目の前に現れる。。。
「AKIRA」の監督であり原作者の大友克洋の待望の新作。
制作に9年もかかったという作品で、待ちに待ったという人も少なくないだろう。
この2004年の夏、話題作の一つだと言ってもいい。
そのわりには、ネットや周りの評判があまりよろしくないのだが。
▼以下はネタバレあり▼
「AKIRA」の近未来(当時としては)の世界観とは打って変わって、19世紀のイギリスが舞台。
蒸気全盛の時代であり、「科学」が本格的に近代化しはじめた時期である。
工場では大量生産がはじまり、石炭の汽車が走る。
まさに、ヒトの生活が変わろうとしている時代である。
その時代を、あったかもしれないと思わせるほど、緻密に描きこまれた絵で表現している。
黒煙によって暗い街になってしまった都市には、どこか明るい雰囲気があり、活気がある。
その雰囲気が伝わってくる絵は、さすが大友克洋という感じだ。
この壮大な、そして繊細な風景は、映画の中でも大きな魅力となっている。
キャラクターも面白い。
まっすぐで多才な少年、レイをはじめ、ちょっとオマセで、我がまま、
しかし同年代の友達が欲しいと思っているスカーレット(小西真奈美)。
悪役となってしまったサイモンも、憎めないキャラになっている。
また、英国軍のスティーブンスン(児玉清)や、デイビッド(沢村一樹)が、単なる善良な科学者ではなく、
善悪二面性をもったキャラクターとして描かれているのも、興味深い。
ストーリーも、冒険活劇であり、とても面白い。
少なくとも、「AKIRA」のような観客を無視した展開ではないという点が、「AKIRA」よりもすぐれているといえる。
やはり映画として成立しているのは、本作のほうであろう。
全体としては、非常に面白く仕上がっている。
しかし、決定的に何かが足りないのである。
どうしても、手放しに良かったと思って映画館を出る事ができなかった。
首をかしげながら、「うん? うん?」と映画館を後にした。
疑問点は大きく二つある。
そしてその二つが欠落している事によって、一つの大きな欠点を発見するに至るのである。
まず第一に、父親という存在である。
父親・エドワードと祖父・ロイドは、長年の夢であった、超高圧の蒸気を超高密度な状態で保つ研究に成功した。
それがレイの託されたボール、「スチームボール」であった。
しかし、父親のエドワードは、その成功のために、右腕を失ってしまう。
彼は、祖父(エドワードにとっては父)の云うことを聞かずに、科学を兵器として使うことに没頭し始める。
そして、ついに三年後の万国博覧会の時、彼の最大の兵器、スチーム城が完成するのである。
それに反対した祖父は、スチームボールを子供たちの遊園地のために利用しようと提案するが、エドワードと対立、結果、ロイドは一人、オハラ財団に立ち向かうことになる。
そこにレイが加わる事になり、おおきな事件へと発展するのである。
ここで問題なのは、父親を動かしている行動動機と、父親を変えてしまった理由が全く説明されないことである。
父親と祖父は、共に、三年前のスチームボールの完成までは、協力し合い、研究を進めてきたもの同士である。
それなのに、父親は完成した後から、科学を兵器に使うようになったと下のような祖父の台詞からわかる。
「あいつは魂を売り渡したんじゃ。そんな奴は死んだも同然じゃ!」
では、父親はなぜ変わってしまったのか。
その点がすっぽりと抜け落ちている。
だから、どれだけ情熱をもってレイに夢を語ったとしても、説得力がない。
また、暴走し始めてからも、なぜそこまで兵器としての科学にこだわるのか、
説明がないため、父親のどの部分を改めさせたいのか、という点がわからない。
よって、レイは何と戦っているのか、わからないのである。
そして父親をどうすれば止められるのか、救えるのか、全く不透明なまま戦闘が始まってしまう。
解決する際に、それが明らかになれば、まだ救いはあった。
それもないのである。
終盤、暴走したスチーム城を祖父と共に止めるのだが、なぜ止める気になったのか、わからない。
人々のために作った自分の兵器が、ロンドンのど真ん中で爆発しそうだから、止めたと積極的に理解しようと思えばできる。
それにしても、彼の心(=行動動機)を砕かなければ、そういう反省の視点を持つ事は不可能なはずである。
(あそこまで大きな事件を起こそうとしたのだから)
事件は、収まった。
いちおう、爆発は避けることができた。
しかし、父親の心を砕かなければ、全く問題解決にならない。
「また戻ってくるさ」とさわかやにレイが語ったとしても、またスチーム城で戻ってこられたら、どうするのだろうか。
対峙すべき問題(父親の行動動機、心の闇)が示されることなく、解答(その改心)も曖昧で終幕する。
これでは、カタルシスを得ることは不可能であり、本当の問題である父親と、祖父、レイとの対立が解決していないことになる。
科学への警鐘も非常に曖昧なものになってしまい、問題の本質が見過ごされてしまっている。
レイはどこへ向かおうとするのか、という方向性も、全く見えてこない。
これでは、折角のストーリーや世界観も台無しになってしまう。
そして、第二は、オハラ財団という設定の甘さである。
オハラ財団の戦略性がまったくわからないのである。
金儲けをしたい。
もともと南北戦争で闇の商人をしていたから、今度は、より強力な武器を売りたい。
そして、それは蒸気による科学の力である。
それはわかる。
しかし、だから各国の軍事顧問を呼んで、英国との戦争を見せよう。
それはわからない。
闇の商人とは、もともと、「闇」でなければならない。
その存在が、大手を振って、英国軍と戦争してしまうと、英国における、何もかもを失ってしまう。
金儲けをするためには、あまりにリスクの高いデモンストレーションである。
兵器の威力のデモンストレーションするなら、小さいところで事件を起こして、実はそれがオハラでした~、とするなら、まだ納得できる。
このように、一国とまともに、名前を出して戦争行為に至るのは、殆んど無謀としか言いようがない。
さらにオハラ財団の異常さは、そのデモンストレーションを、各国に平等にプレゼンテーションしている点である。
兵器などの軍事的な部分というのは、その国の根幹にかかわる。
よって、隣にライバル国がいるのに、同じ兵器を買い付けるような真似をするはずがない。
テロリストならまだしも、公の国である。
平等に席を設けて、いくらいくら買います、などという商談は成り立たないだろう。
闇の商人とは、あっちにもこっそり武器を売り、こっちにもこっそり武器を売る。
そして両方から儲ける。
これが常識なのではないか。
双方に公にしてしまっては商売として成り立たないはずである。
その異常さに気づかないオハラ財団の戦略性が、まったくみえないのである。
しかも、オハラ財団の肝心の代表がいない。
だから、余計に方向性がわからない。
科学者エドワードの言いなりになって動いている、としか思えない。
要するに、作り手の都合のいい設定しか、与えられていないのである。
そこに説得力もなければ、したたかさもない、そして怖さもないのである。
この二つの疑問点――父親の行動動機のなさと、オハラ財団の戦略性のなさ――は、映画成立の大きな問題となる。
「敵」がいないのである。
精神的な敵、父親の闇の部分、そして、物理的な敵、オハラ財団の戦略。
その両者共に不在であるため、物語として基底の部分で破綻してしまっている。
世界観、映像美、勧善懲悪をこえた人間性、どれもがすばらしいが、物語の基底である〈敵〉が曖昧で、不透明。
これでは、いい映画になるはずがない。
次回作が決定し、「スチームガール」になるらしい。
作るなら次回作は、もっと脚本を練って欲しい。
作らない方がいいとは思うけどね。
(2004/8/13執筆)
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