評価点:70点/2004年/アメリカ
監督:サム・ライミ
「なんで僕は、スパイダーマンにならなきゃいけないんだろ」
前作でスパイダーマンの能力に目覚めたピーター(トビー・マグアイア)は、貧乏学生と正義の味方という二重の生活に疑問を感じていた。
一方、前作で父をスパイダーマンに殺されたハリー(ジェームズ・フランコ)は、辛うじてスパイディの写真で食いつないでいるピーターに、スパイダーマンの居所を聞き出そうとする。
そんな中、ドクター・オクダヴィウスは、安定した核融合装置の開発に成功したとして、記者に披露する。
しかし、核融合が不安定になり、実験は失敗、博士も、自身に取り付けていた人工知能アームが暴走し、自失してしまう。
スパイダーマンのために精神的に不安定になったピーターは、ついにスパイディの能力である蜘蛛の糸が出なくなる。
そして、ピーターはスパイディを捨て、自分自身の生きたい道へと進む事を決心する。
ついに観てしまった。
前作「スパイダーマン」をビデオで見たときには、「こんな作品、絶対次回作は見ないぞ!!」と心に決めたものの、ついに観てしまった。
感想を一言で表わすなら、「正当進化」であり、「安定感」「安心感」あるいは、「熟練した」という印象だ。
▼以下はネタバレあり▼
前作で書いた事を、ほとんどそのまま流用する事が可能なくらい、「正当進化」している。
もちろん、これはいい意味である。
前作では酷評したが、今作では、それが安定感につながっている。
世界観やテーマ、エンターテイメントを追求する態度、という引き継ぐべきものを引き継ぎ、まさに「2」という感じだ。
ここまで、シリーズもので正当に進化した映画も珍しい。
それくらい、コンセプトを守りきった。
これによって、前作のファンの絶対的な支持は得ることができるだろう。
それに加えて、楽しさを追求しつくした映像美。
これは、本当に楽しい。
勿論、CGで描けば面白くなる、といった安易な出来ではない。
ありえないカメラワーク、認識が追いつかないくらいのスピード感、また、NYという日常を舞台にしたのも大きい。
すべてにおいて、ヒーローとして、カッコよく撮られているのである。
史上最高額の製作費は伊達じゃない。
映画という表現媒体において、エンターテイメントを徹底的に追求した作り手に、拍手である。
「APPLESEED」がリアルなアニメを追求したとすれば、こちらはアニメな現実をめざしたということであろう。
さて、本作のテーマ、これも前作から引き継がれたものになっている。
根本の問題をいうなら、「アイデンティティの喪失」である。
ピーターは、貧乏学生でとにかくお金がない。
しかし、スパイディ(スパイダーマンの愛称らしい)になって、街の人々を救わねばならないため、バイトにも授業にも遅刻ばかり。
挙句の果てに、大好きなMJとの約束も守れない。
彼は自問するのである。
「本当にスパイディになって街の人を救うのが自分にとっていいことなのか」
他人に理解してもらうため打ち明けたいが、ヒーローである自分の周りの人間は狙われてしまう恐れがある。
しかし、打ち明けずに自分の胸中を理解してもらうことは不可能。
したい研究も、デートもできない。
こうした葛藤のために、スパイダーマンはついに、その役を降りてしまう。
それは、本作のライバル、ドック・オクについても言える。
ドック・オクの場合、AIと人間という葛藤である。
核融合の安定化を何としてでも完成させようとする野心的な自分(AI)と、危険な研究である以上自分の負を認めるべきだとする自分(科学者)が対立する。
結果、AIに意志が犯されてしまうことによって、悪の道に走ることになる。
この葛藤は、緑色のダサい親友のオッサン(前作)でも起こっていた。
つまり、敵味方双方とも、善悪どちらの自分を演じるか、という選択の結果なのである。
よってスパイダーマンの正体が明かされるシーンが重要な見せ場となっている。
ドック・オクの策略によって電車が暴走し、それをスパイダーマンが止める場面。
あるいは、親友ハリーに正体を明かされるシーン。
そしてヒロインMJに素顔を見られるシーン。
これらはいずれも、スパイディとピーターのアイデンティティを取り戻す、あるいは、アイデンティティを一致させるという契機になっている。
街の人、親友、そして恋人。
それぞれに自分の正体を明かすことによって、二重生活から脱し、ヒーローと一個の人間という自己の分裂を克服するのである。
ここに単なるアメコミやヒーローものと一線を画す構造がある。
これによって人物に深みを与え、勧善懲悪的な平坦な筋から、複雑で人を惹きつける筋へと変化しているのである。
しかし、僕はイマイチ感情移入できなかった。
その理由はいったいなんだったのだろうか。
その一つは、ヒロインに原因がある。
これは前作から言われている(僕だけ?)ことだが、あまりに不細工である。
ヒロインの事を一途に思うピーターにどうしても感情移入できない。
顔のアップになって「ごめんなさい」と思ってしまうヒロインは珍しい。
ヒロインが必ずしも、かわいくてナイス・バディでなければならないとは思わない。
しかし、アメリカンコミックという、いわばエンターテイメントの王道をいくような映画で、このキャストはない。
美人(かわいい) > 普通 > 不細工というランクのなかで、「不細工」に位置づけられるヒロインは、映画としての成立さえ危ぶまれる。
前作のような尻軽な印象がなくなった分、まだ許せる。
許せるのはそこだけで、花嫁姿で駆けてくる彼女を、「寄るな」と蹴りたくなったのは、正直なところである。
そもそも、結婚式直前に花婿を変えるというのは、やはり尻軽なのではないか…。
もう一つが、あまりに計算されすぎたシナリオである。
これは前作との関連もある。
アイデンティティの喪失というテーマは、前作から引き継がれたものであり、全体の流れが読めてしまう。
非常によくできたシナリオであるがゆえに、展開に意外性がない。
よって、あたかもUSJの「スパイダーマン」のアトラクションに乗っているかのような〈レール〉を感じてしまう。
「作られた」という雰囲気が伝わってくるため、どうしても主人公たちに感情移入できない。
それに拍車をかけているのが、出来すぎたCGのアクションと、感情の起伏の小さい主人公である。
爽快感あふれるスパイダーマンのCGは、とてもカッコいい。
しかし、「マトリックス・レボリューションズ」同様、あまりに激しく、そして速いため「一緒に戦っている」という印象が薄れる。
また、ヒーローであるがゆえに、負けないという結論があるため、どうしても引いて見てしまう。
肉体どうしの戦いという質的な〈重さ〉がないのである。
ドラマ部分も、主人公の苦悩があまりに筋書き通りであるため、身に迫ってこない。
さらに、ピーター自身の性格もあり、激しく怒りを表わしたり涙を流すといった感情の起伏がないため、悩みの深さが伝わりにくい。
だから、やはりどうしても感情移入できないのである。
少し話はずれるが、親友のハリーの心理変化もわかりにくかった。
ピーターとハリーとの関係がどのくらいの仲なのか、わかりにくい。
非常に強い信頼関係で結ばれているとすれば、パーティーで悪態をつく姿に違和感がある。
にもかかわらず、ピーターがスパイディだとわかると、大きな動揺を見せる。
ラストは父親の悪事を発見し、結婚式にも出ていることから、丸く収まったと理解できる。
しかし、このラストの描き方が中途半端なので、カタルシスが小さい。
わだかまりがすっかり解消されたならば、
泣きながらピーターと和解するシーンを入れたほうがよかった。
そうすれば、もっと面白くなったはずだ。
一方、父親の真相を知るシーンは、「3」への伏線としてハリーが悪へと覚醒するシーンと理解する事もできる。
それならばそれで、もっとわかりやすい伏線を張るべきではなかったか。
いずれにしても、彼の心理の変化が半端であるため、本当にハッピー・エンド(一応の)といえるのか、疑問である。
それでも、やはりあのヒロインでは、ハッピーになれないと思うのだが。
(そういえば、大家の娘(?)の存在意義はなんだったのだろう。かわいいわけでもないし、大きなかかわりもない…)
新聞社の編集長や、大家といったキャラクターはユーモアに溢れている。
CGは云わずと知れた事であり、ドラマとしても一級品であろう。
観にいく価値は十分ある映画だが、それでも、僕は「わくわく」「どきどき」できなかったし、見終わったあとも、特に何の印象も残らなかった。
(2004/8/10執筆)
監督:サム・ライミ
「なんで僕は、スパイダーマンにならなきゃいけないんだろ」
前作でスパイダーマンの能力に目覚めたピーター(トビー・マグアイア)は、貧乏学生と正義の味方という二重の生活に疑問を感じていた。
一方、前作で父をスパイダーマンに殺されたハリー(ジェームズ・フランコ)は、辛うじてスパイディの写真で食いつないでいるピーターに、スパイダーマンの居所を聞き出そうとする。
そんな中、ドクター・オクダヴィウスは、安定した核融合装置の開発に成功したとして、記者に披露する。
しかし、核融合が不安定になり、実験は失敗、博士も、自身に取り付けていた人工知能アームが暴走し、自失してしまう。
スパイダーマンのために精神的に不安定になったピーターは、ついにスパイディの能力である蜘蛛の糸が出なくなる。
そして、ピーターはスパイディを捨て、自分自身の生きたい道へと進む事を決心する。
ついに観てしまった。
前作「スパイダーマン」をビデオで見たときには、「こんな作品、絶対次回作は見ないぞ!!」と心に決めたものの、ついに観てしまった。
感想を一言で表わすなら、「正当進化」であり、「安定感」「安心感」あるいは、「熟練した」という印象だ。
▼以下はネタバレあり▼
前作で書いた事を、ほとんどそのまま流用する事が可能なくらい、「正当進化」している。
もちろん、これはいい意味である。
前作では酷評したが、今作では、それが安定感につながっている。
世界観やテーマ、エンターテイメントを追求する態度、という引き継ぐべきものを引き継ぎ、まさに「2」という感じだ。
ここまで、シリーズもので正当に進化した映画も珍しい。
それくらい、コンセプトを守りきった。
これによって、前作のファンの絶対的な支持は得ることができるだろう。
それに加えて、楽しさを追求しつくした映像美。
これは、本当に楽しい。
勿論、CGで描けば面白くなる、といった安易な出来ではない。
ありえないカメラワーク、認識が追いつかないくらいのスピード感、また、NYという日常を舞台にしたのも大きい。
すべてにおいて、ヒーローとして、カッコよく撮られているのである。
史上最高額の製作費は伊達じゃない。
映画という表現媒体において、エンターテイメントを徹底的に追求した作り手に、拍手である。
「APPLESEED」がリアルなアニメを追求したとすれば、こちらはアニメな現実をめざしたということであろう。
さて、本作のテーマ、これも前作から引き継がれたものになっている。
根本の問題をいうなら、「アイデンティティの喪失」である。
ピーターは、貧乏学生でとにかくお金がない。
しかし、スパイディ(スパイダーマンの愛称らしい)になって、街の人々を救わねばならないため、バイトにも授業にも遅刻ばかり。
挙句の果てに、大好きなMJとの約束も守れない。
彼は自問するのである。
「本当にスパイディになって街の人を救うのが自分にとっていいことなのか」
他人に理解してもらうため打ち明けたいが、ヒーローである自分の周りの人間は狙われてしまう恐れがある。
しかし、打ち明けずに自分の胸中を理解してもらうことは不可能。
したい研究も、デートもできない。
こうした葛藤のために、スパイダーマンはついに、その役を降りてしまう。
それは、本作のライバル、ドック・オクについても言える。
ドック・オクの場合、AIと人間という葛藤である。
核融合の安定化を何としてでも完成させようとする野心的な自分(AI)と、危険な研究である以上自分の負を認めるべきだとする自分(科学者)が対立する。
結果、AIに意志が犯されてしまうことによって、悪の道に走ることになる。
この葛藤は、緑色のダサい親友のオッサン(前作)でも起こっていた。
つまり、敵味方双方とも、善悪どちらの自分を演じるか、という選択の結果なのである。
よってスパイダーマンの正体が明かされるシーンが重要な見せ場となっている。
ドック・オクの策略によって電車が暴走し、それをスパイダーマンが止める場面。
あるいは、親友ハリーに正体を明かされるシーン。
そしてヒロインMJに素顔を見られるシーン。
これらはいずれも、スパイディとピーターのアイデンティティを取り戻す、あるいは、アイデンティティを一致させるという契機になっている。
街の人、親友、そして恋人。
それぞれに自分の正体を明かすことによって、二重生活から脱し、ヒーローと一個の人間という自己の分裂を克服するのである。
ここに単なるアメコミやヒーローものと一線を画す構造がある。
これによって人物に深みを与え、勧善懲悪的な平坦な筋から、複雑で人を惹きつける筋へと変化しているのである。
しかし、僕はイマイチ感情移入できなかった。
その理由はいったいなんだったのだろうか。
その一つは、ヒロインに原因がある。
これは前作から言われている(僕だけ?)ことだが、あまりに不細工である。
ヒロインの事を一途に思うピーターにどうしても感情移入できない。
顔のアップになって「ごめんなさい」と思ってしまうヒロインは珍しい。
ヒロインが必ずしも、かわいくてナイス・バディでなければならないとは思わない。
しかし、アメリカンコミックという、いわばエンターテイメントの王道をいくような映画で、このキャストはない。
美人(かわいい) > 普通 > 不細工というランクのなかで、「不細工」に位置づけられるヒロインは、映画としての成立さえ危ぶまれる。
前作のような尻軽な印象がなくなった分、まだ許せる。
許せるのはそこだけで、花嫁姿で駆けてくる彼女を、「寄るな」と蹴りたくなったのは、正直なところである。
そもそも、結婚式直前に花婿を変えるというのは、やはり尻軽なのではないか…。
もう一つが、あまりに計算されすぎたシナリオである。
これは前作との関連もある。
アイデンティティの喪失というテーマは、前作から引き継がれたものであり、全体の流れが読めてしまう。
非常によくできたシナリオであるがゆえに、展開に意外性がない。
よって、あたかもUSJの「スパイダーマン」のアトラクションに乗っているかのような〈レール〉を感じてしまう。
「作られた」という雰囲気が伝わってくるため、どうしても主人公たちに感情移入できない。
それに拍車をかけているのが、出来すぎたCGのアクションと、感情の起伏の小さい主人公である。
爽快感あふれるスパイダーマンのCGは、とてもカッコいい。
しかし、「マトリックス・レボリューションズ」同様、あまりに激しく、そして速いため「一緒に戦っている」という印象が薄れる。
また、ヒーローであるがゆえに、負けないという結論があるため、どうしても引いて見てしまう。
肉体どうしの戦いという質的な〈重さ〉がないのである。
ドラマ部分も、主人公の苦悩があまりに筋書き通りであるため、身に迫ってこない。
さらに、ピーター自身の性格もあり、激しく怒りを表わしたり涙を流すといった感情の起伏がないため、悩みの深さが伝わりにくい。
だから、やはりどうしても感情移入できないのである。
少し話はずれるが、親友のハリーの心理変化もわかりにくかった。
ピーターとハリーとの関係がどのくらいの仲なのか、わかりにくい。
非常に強い信頼関係で結ばれているとすれば、パーティーで悪態をつく姿に違和感がある。
にもかかわらず、ピーターがスパイディだとわかると、大きな動揺を見せる。
ラストは父親の悪事を発見し、結婚式にも出ていることから、丸く収まったと理解できる。
しかし、このラストの描き方が中途半端なので、カタルシスが小さい。
わだかまりがすっかり解消されたならば、
泣きながらピーターと和解するシーンを入れたほうがよかった。
そうすれば、もっと面白くなったはずだ。
一方、父親の真相を知るシーンは、「3」への伏線としてハリーが悪へと覚醒するシーンと理解する事もできる。
それならばそれで、もっとわかりやすい伏線を張るべきではなかったか。
いずれにしても、彼の心理の変化が半端であるため、本当にハッピー・エンド(一応の)といえるのか、疑問である。
それでも、やはりあのヒロインでは、ハッピーになれないと思うのだが。
(そういえば、大家の娘(?)の存在意義はなんだったのだろう。かわいいわけでもないし、大きなかかわりもない…)
新聞社の編集長や、大家といったキャラクターはユーモアに溢れている。
CGは云わずと知れた事であり、ドラマとしても一級品であろう。
観にいく価値は十分ある映画だが、それでも、僕は「わくわく」「どきどき」できなかったし、見終わったあとも、特に何の印象も残らなかった。
(2004/8/10執筆)
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