昨日、恐ろしいニュースが入った。
大学入学共通テストの初日、高校生が受験生を襲った、というものだ。
内容が内容だけに、大きなニュースになり、様々な議論を呼んでいる。
逮捕された高校生の、学校が声明を出したそうだ。
彼の背景に何があったのか、分からない以上これ以上第三者が問うことは難しい。
一般論から、このような特殊な事件を紐解くのは適当ではない。
家庭環境か、生い立ちか、学校の指導か、簡単に思いつく原因などいくらでもある。
けれども、それが事件の解明に繋がることはないし、まして解決に結びつくことはない。
しかし、こういう事件が起こると、たちまち原因を探したがる。
いや、「犯人」と言ってもいい。
とにかく容疑者がどうしてそんな事件を起こしたのか、という点を探し出し、「真相」を求める。
それは端的に言って「だれが悪いのか」という議論だ。
そして第三者の世論は、それを断罪する。
加害者の彼に何があったのか知らない。
けれども、それをあげつらうことで、ますます加害者は社会的に抹殺されてしまうだろう。
事件を起こしたのだから仕方がない。
罰を受ける義務がある。
法治国家である日本で、犯罪はどこまでも許されない。
罰しなければ被害者がかわいそうだ。
もちろんその通りだ。
だが、それで抹殺された彼は、どこに向かうのだろう。
そもそも、失敗したときに抹殺されてしまう社会だからこそ、このような凶悪な事件が起こるのではなかったか。
「だれが悪いのか」という議論は、「(だから)自分(たち)は悪くない、正しい」ということの証明にしかならない。
それは被害者のためでもなければ社会のためでもない。
自分という個人に被害が及ばないようにするためだけの、権威付けを行っているに過ぎない。
どれだけ法律を厳しくしても、どれだけ加害者を罰する法律を整備しても、このような事件は起こり続ける。
加害者にとって「事件」は、法律を破ることに重要な意味があるからだ。
社会から疎外されて引き起こされる事件の、次の加害者や被害者は【私】かもしれない。
そうでなくても、【私】の周りにいる人かもしれない。
それほど【私】を包む社会は危ういバランスの中で成り立っている。
そんな弱い【私】に、「なにができるのか」ということを問わなければ、抹殺される【私】は生まれ続けるだろう。
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」に描かれていたのはそういうことだと思う。
ヴィラン(敵)でも救いたい、というスパイダーマンは、【私】もなれるはずだ。
第三者だからできることは、短絡的な批判や「犯人」探しではなく、そういう冷静な議論であるべきだ。
被害者の回復を祈る、ということもそのうちの一つに違いない。
大学入学共通テストの初日、高校生が受験生を襲った、というものだ。
内容が内容だけに、大きなニュースになり、様々な議論を呼んでいる。
逮捕された高校生の、学校が声明を出したそうだ。
彼の背景に何があったのか、分からない以上これ以上第三者が問うことは難しい。
一般論から、このような特殊な事件を紐解くのは適当ではない。
家庭環境か、生い立ちか、学校の指導か、簡単に思いつく原因などいくらでもある。
けれども、それが事件の解明に繋がることはないし、まして解決に結びつくことはない。
しかし、こういう事件が起こると、たちまち原因を探したがる。
いや、「犯人」と言ってもいい。
とにかく容疑者がどうしてそんな事件を起こしたのか、という点を探し出し、「真相」を求める。
それは端的に言って「だれが悪いのか」という議論だ。
そして第三者の世論は、それを断罪する。
加害者の彼に何があったのか知らない。
けれども、それをあげつらうことで、ますます加害者は社会的に抹殺されてしまうだろう。
事件を起こしたのだから仕方がない。
罰を受ける義務がある。
法治国家である日本で、犯罪はどこまでも許されない。
罰しなければ被害者がかわいそうだ。
もちろんその通りだ。
だが、それで抹殺された彼は、どこに向かうのだろう。
そもそも、失敗したときに抹殺されてしまう社会だからこそ、このような凶悪な事件が起こるのではなかったか。
「だれが悪いのか」という議論は、「(だから)自分(たち)は悪くない、正しい」ということの証明にしかならない。
それは被害者のためでもなければ社会のためでもない。
自分という個人に被害が及ばないようにするためだけの、権威付けを行っているに過ぎない。
どれだけ法律を厳しくしても、どれだけ加害者を罰する法律を整備しても、このような事件は起こり続ける。
加害者にとって「事件」は、法律を破ることに重要な意味があるからだ。
社会から疎外されて引き起こされる事件の、次の加害者や被害者は【私】かもしれない。
そうでなくても、【私】の周りにいる人かもしれない。
それほど【私】を包む社会は危ういバランスの中で成り立っている。
そんな弱い【私】に、「なにができるのか」ということを問わなければ、抹殺される【私】は生まれ続けるだろう。
「スパイダーマン:ノー・ウェイ・ホーム」に描かれていたのはそういうことだと思う。
ヴィラン(敵)でも救いたい、というスパイダーマンは、【私】もなれるはずだ。
第三者だからできることは、短絡的な批判や「犯人」探しではなく、そういう冷静な議論であるべきだ。
被害者の回復を祈る、ということもそのうちの一つに違いない。
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