特に日本人は、言えば分かる、人と人とはわかり合えるものだ、という前提で対人関係を考えているところがある。
それは日本語というきわめて言語外状況に依存する言語の特徴を考えてみてもわかることだ。
SNSにおけるトラブルには、その「相手はわかってくれる」ことを前提にしていることによる齟齬が多く含まれているように思う。
短文でのやりとりが多くなればなるほど、その発信者と受信者の食い違いは顕著になるだろう。
だが、本来、コミュニケーションは、絶対に交わることのない平行線を、いかに交わったと錯覚できるかというところにエッセンスがある。
まったく別の個体が、同じ思いや考えを共有したり、対等な関係で契約を結んだりできるはずがない。
もしそういうことがあり得るとすれば、それは思いを共有できたという錯覚か思い込みであるだろう。
少なくとも、一方がわかり合えたと思っても、もう一方も同じような思いを抱いているとは限らない。
子どもが泣いたとき、その思いを理解することは難しい。
ただ、親は抱きしめてなだめるしかできない。
理由が分かっていてもどうしようもないこともある。
コミュニケーションとは、短文でやりとりすることで形成されるのではなく、苦しい、悲しい、寂しい、つらい、その時間を共有することでしか成立し得ない。
いや、それだって本当の意味では共有できない。
共有という錯覚は、相手と時間をともにすること、それしかないのではないか。
時間の過ごし方が、個であり、孤でありがちな現代において、コミュニケーションはますます不可能になっていくのだろう。
それは日本語というきわめて言語外状況に依存する言語の特徴を考えてみてもわかることだ。
SNSにおけるトラブルには、その「相手はわかってくれる」ことを前提にしていることによる齟齬が多く含まれているように思う。
短文でのやりとりが多くなればなるほど、その発信者と受信者の食い違いは顕著になるだろう。
だが、本来、コミュニケーションは、絶対に交わることのない平行線を、いかに交わったと錯覚できるかというところにエッセンスがある。
まったく別の個体が、同じ思いや考えを共有したり、対等な関係で契約を結んだりできるはずがない。
もしそういうことがあり得るとすれば、それは思いを共有できたという錯覚か思い込みであるだろう。
少なくとも、一方がわかり合えたと思っても、もう一方も同じような思いを抱いているとは限らない。
子どもが泣いたとき、その思いを理解することは難しい。
ただ、親は抱きしめてなだめるしかできない。
理由が分かっていてもどうしようもないこともある。
コミュニケーションとは、短文でやりとりすることで形成されるのではなく、苦しい、悲しい、寂しい、つらい、その時間を共有することでしか成立し得ない。
いや、それだって本当の意味では共有できない。
共有という錯覚は、相手と時間をともにすること、それしかないのではないか。
時間の過ごし方が、個であり、孤でありがちな現代において、コミュニケーションはますます不可能になっていくのだろう。
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