評価点:93点/1999年/アメリカ
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
公開当時話題になった感動スリラー。当然ネタバレしています。
マルカム(ブルース・ウィリス)は、フィアデルフィア州から児童カウンセラーとして、表彰された夜、元患者のビンセントに銃で撃たれた。
ビンセントは、マルカムの治療を受けたがその診断に満足できずに襲ってきたのだった。
その後ビンセント自らも命を絶つ。
その翌年の秋、マルカムはコールという少年(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の
カウンセリングを始める。
コールも死んだビンセントと似たような症状を示していた。
彼に拒否反応を示していたコールだったが、漸く重い口を開いた。
「僕は死んだ人間が見えるんだ」
M・ナイト・シャマラン監督のデビュー作であり、日本でも大変な話題となった作品である。
この映画の話題になった理由は、「落ち」が衝撃的だったからである。
しかしその落ちを隠すためにマスコミにまで緘口令をしいたことで、
さらに話題になった。
しかしもっと驚いたのは、そして巧いな、と思ったのは、映画が始まる前に主演のブルース・ウィリスの名をつかって
観客にもその緘口令をしいたことだ。
これはあくまで演出なのだが、バカ正直な観客(僕を含めた)は、真に受けてあまり落ちが広まらなかった。
だからこの映画の隠された謎を知りたがって、さらに観客を呼び寄せた格好になったわけだ。
しかしこの演出は、これから映画をみようとする人間にとって、この上ない演出にもなった。
この一文によって強力なサスペンス効果が得られたのだ。
▼以下はネタバレあり▼
しかしそうした本題前の演出に負けないほどに、完成度の高い映画になっている。
全てにおいて計算されているような語り口は、ラストに向かって収束されていく。
ホラー映画としての才能も確かにあるのだろうが、それよりも「人間」を語る手法を知っている監督である。
自分自身が映画に出るのはどうかと思うが、脚本家としても類稀なる才能を発揮していることは確かだ。
ラストの「マルコムは死んでいた」という事実を隠すため、ずっとコールとの2人きりだけで会話される。
他の人間との交流がない。
また少年の台詞には深い意味がある。
「幽霊同士は見えないんだ」
「しょっちゅう見える」
「死んだって気づいていないんだ」
「僕を助けられるのはあなたしかいない」
「寝ているときに話せば無意識に聞こえているんだ」
これらの台詞によって一応ほのめかされてはいる。
妻との関係も冷え切っていると思い込んでいるマルカムにとって、無視されるくらいでは気づかない。
しかも幽霊は「都合の良いものしか見えない」ために、マルカムには自分が死んでいることを知る手立てはないことになる。
しかし実はおかしい点が幾つもある。
どうやってコールの家に入ったのかとか、
なぜこれほど時間がたつまで気づかなかったのかとか、
どうやって依頼を受けたのか、
または、どうやってコールの存在を知ったのか、などである。
しかしこの映画にとってそうした疑問点はあまり重要ではない。
なぜなら、少なくとも映画の中では「マルカムは死んでいた」ことに対して、整合性が取れているからである。
あくまで映画という世界の中では成立しうることなのだ。
もしかしたら、彼が最後まで気づかなかったのは、少年を救えなかったという強い想いからかもしれない。
つまり、自分の姿をみようとはせずに、相手(少年)のことを考え続けていたのである。
自分の姿を見る余裕もなく、少年を救いたかったのだ。
そう考えれば、がっちりとプロットが噛み合っていることに気づく。
だから「マルカム、アホすぎ」というような粗探しは無駄なのだ。
もしそうした粗が映画の完成度を壊す要因であるならば、そもそも幽霊が見える少年という設定までも疑わなくてはならない。
それよりも巧みなカメラワークとささいな会話表現に込められた、緻密な計算を考えるべきなのである。
ホラーとしての描き方も非常にうまい。
だから余計に落ちが衝撃的に感じるのである。
母親にコールが秘密を打ち明けるシーンも非常によくできている。
それまで一切母親と祖母の関係は出てこないが、一瞬にしてそれまでの人間関係まで悟らせて感動させる。
このシーンはシャマランの手腕がよくわかる場面であろう。
子役のハーレイ・ジョエル・オスメントを発掘してきたことも、この映画の成功の1つだろう。日本にもあんな子役がほしい。
それにしても日本の子役はなぜあんなにレベルが低いのだろう。
「星になった少年」にしても、「こぎつねヘレン」にしても、酷いとしか言いようがない。
(2003/01/18執筆)
とはいえ、この「シックス・センス」を越えるヒット作にめぐまれていないのも確かだ。
もうすぐ公開するという「ハプニング」が楽しみだ。
監督・脚本:M・ナイト・シャマラン
公開当時話題になった感動スリラー。当然ネタバレしています。
マルカム(ブルース・ウィリス)は、フィアデルフィア州から児童カウンセラーとして、表彰された夜、元患者のビンセントに銃で撃たれた。
ビンセントは、マルカムの治療を受けたがその診断に満足できずに襲ってきたのだった。
その後ビンセント自らも命を絶つ。
その翌年の秋、マルカムはコールという少年(ハーレイ・ジョエル・オスメント)の
カウンセリングを始める。
コールも死んだビンセントと似たような症状を示していた。
彼に拒否反応を示していたコールだったが、漸く重い口を開いた。
「僕は死んだ人間が見えるんだ」
M・ナイト・シャマラン監督のデビュー作であり、日本でも大変な話題となった作品である。
この映画の話題になった理由は、「落ち」が衝撃的だったからである。
しかしその落ちを隠すためにマスコミにまで緘口令をしいたことで、
さらに話題になった。
しかしもっと驚いたのは、そして巧いな、と思ったのは、映画が始まる前に主演のブルース・ウィリスの名をつかって
観客にもその緘口令をしいたことだ。
これはあくまで演出なのだが、バカ正直な観客(僕を含めた)は、真に受けてあまり落ちが広まらなかった。
だからこの映画の隠された謎を知りたがって、さらに観客を呼び寄せた格好になったわけだ。
しかしこの演出は、これから映画をみようとする人間にとって、この上ない演出にもなった。
この一文によって強力なサスペンス効果が得られたのだ。
▼以下はネタバレあり▼
しかしそうした本題前の演出に負けないほどに、完成度の高い映画になっている。
全てにおいて計算されているような語り口は、ラストに向かって収束されていく。
ホラー映画としての才能も確かにあるのだろうが、それよりも「人間」を語る手法を知っている監督である。
自分自身が映画に出るのはどうかと思うが、脚本家としても類稀なる才能を発揮していることは確かだ。
ラストの「マルコムは死んでいた」という事実を隠すため、ずっとコールとの2人きりだけで会話される。
他の人間との交流がない。
また少年の台詞には深い意味がある。
「幽霊同士は見えないんだ」
「しょっちゅう見える」
「死んだって気づいていないんだ」
「僕を助けられるのはあなたしかいない」
「寝ているときに話せば無意識に聞こえているんだ」
これらの台詞によって一応ほのめかされてはいる。
妻との関係も冷え切っていると思い込んでいるマルカムにとって、無視されるくらいでは気づかない。
しかも幽霊は「都合の良いものしか見えない」ために、マルカムには自分が死んでいることを知る手立てはないことになる。
しかし実はおかしい点が幾つもある。
どうやってコールの家に入ったのかとか、
なぜこれほど時間がたつまで気づかなかったのかとか、
どうやって依頼を受けたのか、
または、どうやってコールの存在を知ったのか、などである。
しかしこの映画にとってそうした疑問点はあまり重要ではない。
なぜなら、少なくとも映画の中では「マルカムは死んでいた」ことに対して、整合性が取れているからである。
あくまで映画という世界の中では成立しうることなのだ。
もしかしたら、彼が最後まで気づかなかったのは、少年を救えなかったという強い想いからかもしれない。
つまり、自分の姿をみようとはせずに、相手(少年)のことを考え続けていたのである。
自分の姿を見る余裕もなく、少年を救いたかったのだ。
そう考えれば、がっちりとプロットが噛み合っていることに気づく。
だから「マルカム、アホすぎ」というような粗探しは無駄なのだ。
もしそうした粗が映画の完成度を壊す要因であるならば、そもそも幽霊が見える少年という設定までも疑わなくてはならない。
それよりも巧みなカメラワークとささいな会話表現に込められた、緻密な計算を考えるべきなのである。
ホラーとしての描き方も非常にうまい。
だから余計に落ちが衝撃的に感じるのである。
母親にコールが秘密を打ち明けるシーンも非常によくできている。
それまで一切母親と祖母の関係は出てこないが、一瞬にしてそれまでの人間関係まで悟らせて感動させる。
このシーンはシャマランの手腕がよくわかる場面であろう。
子役のハーレイ・ジョエル・オスメントを発掘してきたことも、この映画の成功の1つだろう。日本にもあんな子役がほしい。
それにしても日本の子役はなぜあんなにレベルが低いのだろう。
「星になった少年」にしても、「こぎつねヘレン」にしても、酷いとしか言いようがない。
(2003/01/18執筆)
とはいえ、この「シックス・センス」を越えるヒット作にめぐまれていないのも確かだ。
もうすぐ公開するという「ハプニング」が楽しみだ。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます