評価点:86点/1994年/アメリカ
監督:リュック・ベッソン
私が欲しいのは愛か死。
ニューヨークのリトル・イタリーで掃除屋を営むレオン(ジャン・レノ)は確実な仕事ぶりだった。
ある日、彼の住むアパートの同じ階で、麻薬取締局が踏み込む。
裏社会と精通していた捜査官のスタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)は、ヤクをくすねた男を問いただし、抵抗した一家を皆殺しにしたのだ。
たまたま買い物に行っていたマチルダ(ナタリー・ポートマン)は、難を逃れて、レオンの部屋に助けを求めた。
迷った挙げ句レオンは玄関のドアを開ける…。
いまさらではあるが、ずっと見直したかったのが、この「レオン」だ。
一度見たとき、僕は衝撃のあまり言葉を失った。
それまでこうした完璧なバッドエンディングの映画が存在するなんて、知らない年齢だったから。
二度見たとき、この映画を支えているのは悪役に違いないと敬服した。
三度見たとき、この映画の裏にあるプロットがどこまでも深いことに、僕はさらに驚いた。
リュック・ベッソンがどれだけ他に作品を世に放とうとも、きっとこの作品を越えることは難しいだろう。
それくらい、生涯に一本、出会えればいいという良作だ。
完璧な文章は存在しなくても、完璧な映画は存在する、そんな気がしてくる映画だ。
この作品にはDVDで二種類出ている。
この「完全版」というのと、「オリジナル版」である。
僕の手元にあったのが、前者の方でみたが、僕の好みは断然「オリジナル版」だ。
どこがどのように違うのかは、この記事では扱わないが、見るなら「オリジナル版」を見るべきだろう。
点数が微妙に低いのはそのためかもしれない。
長ければ良いってものじゃないのよね。
何事も。
「オリジナル版」も見る機会があれば記事にしよう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画には倫理がある。
この映画には哲学がある。
だからこそ、不条理な世界観でありながら、僕たちはそこに必然性を見いだしてしまう。
だからこそ、この悲しすぎるラストを、ただ悲しいだけではない感情を抱いてしまう。
要するに、すごい映画だということだ。
マチルダは、学校へまともに通えないから、そういう生徒が集まる学校へ転校を余儀なくされていた。
そして、それさえ通うことができないから学校からの問い合わせに「彼女は死んだわ」と答える。
それが12歳の子どもとしてどれだけつらいことか、想像もつかない。
腹違いの姉は、ダイエットに夢中で、弟の面倒もろくにみない。
母親はすでに同居せず、いるのは継母だけ。
父親はすぐに彼女に手をあげ、後ろめたい商売で生計を立てている。
麻薬を抜き取ることはできても、その嘘をとりつくろうほどの頭脳もない。
彼女はレオンに「大人になってもこんなにつらいの?」と聞く。
彼女には生きる価値など見いだせないし、これから成長して夢など抱けるなにもない。
すでに彼女は人生のほとんどの悲哀を体験してしまっている。
生きるすべ以外の全てを12歳で手にしてしまったのだ。
逆にレオンは生きるすべ以外の何も手にしていない。
仕事の依頼を回してくれるトニー(ダニー・アイエロ)は「銀行」と自らを称するが実際にはレオンのお金を良いように扱っている。
読み書きを教えないのは、そのためだ。
19歳からずっと仕事をさせてきたのだから、当然、殺しの技術以外を教えても良かった。
けれども、彼はそれをせずに、自分の好きなように動かせるコマでしかない。
殺しの才能だけが、レオンの生きる糧であり、生きることそのものだった。
人の汚さを何も知らない、無垢な男と言ってもいいだろう。
二人は出会い、ひかれあう。
それは常識的な愛とは違う形のものだった。
けれども、ふたりは「釣り合った」のだ。
あまりに現実を知りすぎた少女と、あまりにも現実を知らなさすぎた男。
二人がそれぞれを照射しあう人間像は、あまりにも悲しい。
マチルダの敵(かたき)となるスタンフィールドは、歴史に残る悪役だ。
「ダークナイト」のヒース・レジャーも確かにすごいが、同じ映画のゴードン役のゲイリー・オールドマンもまたすごい。
良い映画には、良い悪役がいるものだ。
彼はこの映画の「許されざる者」を体現する。
権力につきながら、なおかつ弱者を蹂躙する。
情け容赦なく、自分の利益都合のみを優先する男。
だが、クレバーで損をしないタイプ。
アメリカの民衆が最も嫌う人物像を具現化している。
それが麻薬を楽しみながら麻薬取締官を務めているということに象徴される。
まさに、弱者であるレオンやマチルダと対極にいる人間である。
同じように、仕事を斡旋してくれている育ての親でもあるトニーは、したたかに生きている。
ラストでマチルダと会う彼は顔中にけがをしている。
スタンフィールドにこっぴどく拷問されたあとを伺わせる。
要するに彼は自分が生きるために、レオンを裏切ったのだ。
彼が「俺だって悲しい」と言うのはきっと真実だろう。
自分の弱さを知りながら、レオンの死を悼んでいる。
それでも、そこに明確な作り手の「倫理」がある。
だからこそ、この映画でトニーが好きになれるようには描かれていないのだ。
名家に生まれたナタリー・ポートマンは、この映画出演を決めたとき、両親が猛反対したという。
タンクトップを着るとか、煙草をくわえるとか、様々な制約を監督に課したという。
彼女を掘り出したということも、この映画の偉大なる功績の一つであることは疑いない。
聞くと忘れられない音楽も、閉じられた狭い世界観の中に、アメリカの縮図を見せたり、「ライフルよりもナイフ」が掃除屋の常識だったり。
あまりにも悲しく、あまりにも美しい。
恋や愛という形にしてしまうには、あまりにも危うく、あまりにも曖昧な世界。
これ以上の映画は、きっと撮れないだろうと何度見ても思う理由は、いくらでもある。
監督:リュック・ベッソン
私が欲しいのは愛か死。
ニューヨークのリトル・イタリーで掃除屋を営むレオン(ジャン・レノ)は確実な仕事ぶりだった。
ある日、彼の住むアパートの同じ階で、麻薬取締局が踏み込む。
裏社会と精通していた捜査官のスタンフィールド(ゲイリー・オールドマン)は、ヤクをくすねた男を問いただし、抵抗した一家を皆殺しにしたのだ。
たまたま買い物に行っていたマチルダ(ナタリー・ポートマン)は、難を逃れて、レオンの部屋に助けを求めた。
迷った挙げ句レオンは玄関のドアを開ける…。
いまさらではあるが、ずっと見直したかったのが、この「レオン」だ。
一度見たとき、僕は衝撃のあまり言葉を失った。
それまでこうした完璧なバッドエンディングの映画が存在するなんて、知らない年齢だったから。
二度見たとき、この映画を支えているのは悪役に違いないと敬服した。
三度見たとき、この映画の裏にあるプロットがどこまでも深いことに、僕はさらに驚いた。
リュック・ベッソンがどれだけ他に作品を世に放とうとも、きっとこの作品を越えることは難しいだろう。
それくらい、生涯に一本、出会えればいいという良作だ。
完璧な文章は存在しなくても、完璧な映画は存在する、そんな気がしてくる映画だ。
この作品にはDVDで二種類出ている。
この「完全版」というのと、「オリジナル版」である。
僕の手元にあったのが、前者の方でみたが、僕の好みは断然「オリジナル版」だ。
どこがどのように違うのかは、この記事では扱わないが、見るなら「オリジナル版」を見るべきだろう。
点数が微妙に低いのはそのためかもしれない。
長ければ良いってものじゃないのよね。
何事も。
「オリジナル版」も見る機会があれば記事にしよう。
▼以下はネタバレあり▼
この映画には倫理がある。
この映画には哲学がある。
だからこそ、不条理な世界観でありながら、僕たちはそこに必然性を見いだしてしまう。
だからこそ、この悲しすぎるラストを、ただ悲しいだけではない感情を抱いてしまう。
要するに、すごい映画だということだ。
マチルダは、学校へまともに通えないから、そういう生徒が集まる学校へ転校を余儀なくされていた。
そして、それさえ通うことができないから学校からの問い合わせに「彼女は死んだわ」と答える。
それが12歳の子どもとしてどれだけつらいことか、想像もつかない。
腹違いの姉は、ダイエットに夢中で、弟の面倒もろくにみない。
母親はすでに同居せず、いるのは継母だけ。
父親はすぐに彼女に手をあげ、後ろめたい商売で生計を立てている。
麻薬を抜き取ることはできても、その嘘をとりつくろうほどの頭脳もない。
彼女はレオンに「大人になってもこんなにつらいの?」と聞く。
彼女には生きる価値など見いだせないし、これから成長して夢など抱けるなにもない。
すでに彼女は人生のほとんどの悲哀を体験してしまっている。
生きるすべ以外の全てを12歳で手にしてしまったのだ。
逆にレオンは生きるすべ以外の何も手にしていない。
仕事の依頼を回してくれるトニー(ダニー・アイエロ)は「銀行」と自らを称するが実際にはレオンのお金を良いように扱っている。
読み書きを教えないのは、そのためだ。
19歳からずっと仕事をさせてきたのだから、当然、殺しの技術以外を教えても良かった。
けれども、彼はそれをせずに、自分の好きなように動かせるコマでしかない。
殺しの才能だけが、レオンの生きる糧であり、生きることそのものだった。
人の汚さを何も知らない、無垢な男と言ってもいいだろう。
二人は出会い、ひかれあう。
それは常識的な愛とは違う形のものだった。
けれども、ふたりは「釣り合った」のだ。
あまりに現実を知りすぎた少女と、あまりにも現実を知らなさすぎた男。
二人がそれぞれを照射しあう人間像は、あまりにも悲しい。
マチルダの敵(かたき)となるスタンフィールドは、歴史に残る悪役だ。
「ダークナイト」のヒース・レジャーも確かにすごいが、同じ映画のゴードン役のゲイリー・オールドマンもまたすごい。
良い映画には、良い悪役がいるものだ。
彼はこの映画の「許されざる者」を体現する。
権力につきながら、なおかつ弱者を蹂躙する。
情け容赦なく、自分の利益都合のみを優先する男。
だが、クレバーで損をしないタイプ。
アメリカの民衆が最も嫌う人物像を具現化している。
それが麻薬を楽しみながら麻薬取締官を務めているということに象徴される。
まさに、弱者であるレオンやマチルダと対極にいる人間である。
同じように、仕事を斡旋してくれている育ての親でもあるトニーは、したたかに生きている。
ラストでマチルダと会う彼は顔中にけがをしている。
スタンフィールドにこっぴどく拷問されたあとを伺わせる。
要するに彼は自分が生きるために、レオンを裏切ったのだ。
彼が「俺だって悲しい」と言うのはきっと真実だろう。
自分の弱さを知りながら、レオンの死を悼んでいる。
それでも、そこに明確な作り手の「倫理」がある。
だからこそ、この映画でトニーが好きになれるようには描かれていないのだ。
名家に生まれたナタリー・ポートマンは、この映画出演を決めたとき、両親が猛反対したという。
タンクトップを着るとか、煙草をくわえるとか、様々な制約を監督に課したという。
彼女を掘り出したということも、この映画の偉大なる功績の一つであることは疑いない。
聞くと忘れられない音楽も、閉じられた狭い世界観の中に、アメリカの縮図を見せたり、「ライフルよりもナイフ」が掃除屋の常識だったり。
あまりにも悲しく、あまりにも美しい。
恋や愛という形にしてしまうには、あまりにも危うく、あまりにも曖昧な世界。
これ以上の映画は、きっと撮れないだろうと何度見ても思う理由は、いくらでもある。
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