もちろん、「三四郎」に続く流れで読んだ。
三部作の最後の作品だ。
主人公の宗助は役所勤めであり、ひっそりと妻御米と暮らしている。
生活はそれほど余裕のない中で暮らしているが、叔父のもとに置いていた弟が、叔父が急逝したことから世話をどうするかという問題が持ち上がる。
だが、弟は宗助も御米も軽蔑している節がある。
それが分かっていることもあり、だが、10も年下のまだ学生の弟を無視することもできない。
宗助はしぶしぶ弟を引き取るが……。
新潮文庫で三作とも読んだわけだが、その裏のあらすじがいけない。
物語の終盤までまったく安井なる人物は登場しないのだから、紹介する必要はなかったように思う。
あらすじをおおかた知っている者が多いとはいえ、あえて積極的にそこを明かす必要もなかろうに。
それはともかく、「それから」で代助が選択した略奪愛がどのような人生を歩ませていくことになるのかを問うた作品と言える。
また、「こころ」を読んだ人は、どうしても「門」に描かれる叔父の存在が関連付けられて読むことになるだろう。
「余裕派」と揶揄された漱石の人物には、名家の息子が主人公として設置されることが多い。
そして、またその人物たちは、ことごとくその財産の使い道を知らない。
そういう発端を垣間見ることもできる作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
新潮文庫の柄谷行人の解説が秀逸だ。
「門」というタイトルと、終盤に訪れる禅寺の場面がどのような意味を持ち、どのような読みの可能性があるかを指摘している。
詳しくは私は書かない。
ミステリアスな宗助がなぜそれほど弟から嫌われて、世を疎んじて生活しているのか。
中盤まで全く明かされなかったのに、終盤怒濤のように彼の過去にある罪がひもとかれる。
学生時代の友人を裏切り、略奪されたのが御米だったということ。
それを書生にも、誰にも明かさずに生きてきた。
その罪によって、子どもが生まれないという「物語」を宗助は見いだしている。
しかし、それはある意味では一つの救いなのかもしれない。
彼ら夫婦は、子どもが生まれないという明確な罪を抱きながら生きていくことができる。
子どもが生まれてしまえば、彼らはその子どもを愛の結晶と見つめることができただろうか。
むしろ、略奪された愛によって生まれた、罪の象徴として捉えてしまったのではないか。
子どもが生まれない、という設定は漱石が与えた罪であり、救いであるとも読めるのか。
(他の論考を当たる余裕もないので、テキトーに書いていますが)
三人称視点で描かれる彼の「現在」は生きるだけでも苦悩するような、そういう罪(=物語)にとらわれている。
こういう点においても、「こころ」の先生とどうしても関連付けて読みたくなるのは、仕方がないような気がする。
もちろん、この「門」と「こころ」には何の関連性もないとしても。
不倫や浮気で騒がれる昨今、制度と人情との相克について、漱石はもっと時代の先を行っていた。
いや、「源氏物語」などを考えれば平安時代から私たちの興味は変わっていないとも言えるのか。
三部作の最後の作品だ。
主人公の宗助は役所勤めであり、ひっそりと妻御米と暮らしている。
生活はそれほど余裕のない中で暮らしているが、叔父のもとに置いていた弟が、叔父が急逝したことから世話をどうするかという問題が持ち上がる。
だが、弟は宗助も御米も軽蔑している節がある。
それが分かっていることもあり、だが、10も年下のまだ学生の弟を無視することもできない。
宗助はしぶしぶ弟を引き取るが……。
新潮文庫で三作とも読んだわけだが、その裏のあらすじがいけない。
物語の終盤までまったく安井なる人物は登場しないのだから、紹介する必要はなかったように思う。
あらすじをおおかた知っている者が多いとはいえ、あえて積極的にそこを明かす必要もなかろうに。
それはともかく、「それから」で代助が選択した略奪愛がどのような人生を歩ませていくことになるのかを問うた作品と言える。
また、「こころ」を読んだ人は、どうしても「門」に描かれる叔父の存在が関連付けられて読むことになるだろう。
「余裕派」と揶揄された漱石の人物には、名家の息子が主人公として設置されることが多い。
そして、またその人物たちは、ことごとくその財産の使い道を知らない。
そういう発端を垣間見ることもできる作品だ。
▼以下はネタバレあり▼
新潮文庫の柄谷行人の解説が秀逸だ。
「門」というタイトルと、終盤に訪れる禅寺の場面がどのような意味を持ち、どのような読みの可能性があるかを指摘している。
詳しくは私は書かない。
ミステリアスな宗助がなぜそれほど弟から嫌われて、世を疎んじて生活しているのか。
中盤まで全く明かされなかったのに、終盤怒濤のように彼の過去にある罪がひもとかれる。
学生時代の友人を裏切り、略奪されたのが御米だったということ。
それを書生にも、誰にも明かさずに生きてきた。
その罪によって、子どもが生まれないという「物語」を宗助は見いだしている。
しかし、それはある意味では一つの救いなのかもしれない。
彼ら夫婦は、子どもが生まれないという明確な罪を抱きながら生きていくことができる。
子どもが生まれてしまえば、彼らはその子どもを愛の結晶と見つめることができただろうか。
むしろ、略奪された愛によって生まれた、罪の象徴として捉えてしまったのではないか。
子どもが生まれない、という設定は漱石が与えた罪であり、救いであるとも読めるのか。
(他の論考を当たる余裕もないので、テキトーに書いていますが)
三人称視点で描かれる彼の「現在」は生きるだけでも苦悩するような、そういう罪(=物語)にとらわれている。
こういう点においても、「こころ」の先生とどうしても関連付けて読みたくなるのは、仕方がないような気がする。
もちろん、この「門」と「こころ」には何の関連性もないとしても。
不倫や浮気で騒がれる昨今、制度と人情との相克について、漱石はもっと時代の先を行っていた。
いや、「源氏物語」などを考えれば平安時代から私たちの興味は変わっていないとも言えるのか。
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