評価点:76点/2014年/オーストラリア/97分
監督:マイケル・スピエリッグ ピーター・スピエリッグ
自分の尾を噛むヘビ。
1970年11月、連続爆弾犯に騒ぐNYで、さびれたバーでバーテンダー(イーサン・ホーク)として働く男の元に、見慣れない男(サラ・スヌーク)が不機嫌そうに店を訪れた。
話をしているうちに、未婚の母というペンネームで雑誌に連載していることを知る。
男の話に興味をもったバーテンダーは、男の生い立ちに耳を傾ける。
彼が話し始めたのは「俺が少女だった頃……」というものだった。
どこまでストーリーを書くべきなのかちょっとわからない。
SF作品で、アマゾンプライムから見た。
その前に新書で「物理学者、SF映画にハマる」という本を読んでいて、そこで紹介されていたので見たいと思っていた作品だ。
オーストラリアの作品で、上映時間も短く、コンパクトにまとめられている。
いわゆるタイムトラベルものであり、この手の話が好きな人にはお勧めできる。
ちょっと話はややこしいのかもしれないが、タイムトラベルが好きであれば全く違和感はないだろう。
科学的なしくみなどの説明は一切されないので、時系列さえ追うことができれば物語として楽しめる。
主演はイーサン・ホーク。
なかなかの佳作だと思う。
▼以下はネタバレあり▼
早い段階でオチは読めるものの、物語が収束していく様子がある種の高揚感をもって体験できるだろう。
SF映画としてとても優れた作品だと思う。
実現可能かどうかはさておき、LGBTの要素もありながら、そこにある主人公の悲しみもある。
見た人は分かると思うが、この人は結局だれからも承認・認知されずに純粋な孤独の中で一生を終える。
この悲しみこそがこの映画のテーマであり、そして人間にある普遍性を描いている。
その点で秀逸なSF映画なのだと思う。
ストーリーに書くとわかりにくいと思ったので冒頭の数分はあえて書かなかった。
冒頭は爆弾処理をしようとして失敗し、そのまま未来にタイムスリップし大きなケガを負った男が、最後の任務として再び過去にタイムスリップするというものだ。
そこで「なんだこの顔は、別人じゃないか」「声も変わってしまった」という台詞がある。
このことと、バーで出会った男(女?)との話でかなり先まで早い段階に読むことができただろう。
もったいぶっても意味がないので、この男の一生を整理してみよう。
孤児院に捨てられた少女は身体的に強く精神的に不安定な幼少期を過ごす。
孤独に過ごした彼女ジェーンは、政府の機関の研修を受けるが、選出されずに新しい生活を見つけようとしていた。
そんな折りにある男と偶然出会い、意気投合し、恋仲となる。
しかし、ある日突然男は彼女の元を去り、後にジェーンは妊娠していることを知る。
出産後医師から告げられたのは、「あなたは男女ともの性器を有していたが、男性性器のみしか救えなかった」。
男性として生きることを余儀なくされたジェーンは、その娘までも何者かに誘拐される。
途方に暮れた男はジョンと名乗り、新しい生活を見つけ「未婚の母」という話をゴシップ誌に連載し始める。
そこでバーを訪れたのだ。
そのバーで出会ったのはタイムトラベルをすることができるテンポラルエージェント(時空警察官)だった。
そのバーテンダーは彼を「娘の父親に合わせてやる」と言い、過去にトラベルする。
その時間はジェーンが男と出会ったものであり、その男とは自分であることを知る。
やがて過去の自分ジェーンと恋仲になり、深い仲になったとき再びバーテンダーのエージェントが訪れ、自分の仕事を継ぐように伝える。
かくしてジョンは爆弾犯の犯行を食い止めるための捜査官になる。
あらゆる犯罪を防ぐことを任務にしてきた彼は、1970年3月の爆弾処理を失敗し大けが負う。
そのけがによって彼は別人のような容姿になってしまう。
かつてのジェーンと、かつてのジョンにエージェントになるように仕向け、ジョンとジェーンの間に生まれた子どもを1945年に連れ去り、孤児院の入り口に置いた。
こうして自分と自分との間に生まれた自分を、過去に連れ去ることで誕生という出来事を作る。
さらに、最後のトラベルでついに爆弾犯を見つけ出したジョンは、その犯人と対峙する。
それは、未来の自分だった。
未来の初老の男は、爆弾犯として殺さなかった人間によってさらに大きな事件を未然に防ぐためだったと説明する。
激高したジョンは、その未来の自分を射殺する……。
実際の爆弾犯としての動きやそれを未然に防いでいくエージェントしての仕事は劇中では明かされない。
それがおそらくこの映画のまとまりや上映時間につながり、傑作となった所以だろう。
ハリウッドならこのあたりを省略することができずに、冗長な映画になったと思われる。
あくまでこの話はジョン/ジェーンという一人の人間の一生を描いた作品である。
彼(彼女)は自分と自分で自分を産み、そして自分に殺されるという、正真正銘の自己完結の存在として生きた。
だからこそタイムトラベルができたのであり、しなければならなかった。
逃れられない運命にあり、タイトル「プリ」「デスティネーション」に繋がる。
造語だろうが、意味は「運命の前借り」であり、「事前に決められた運命」といったものか。
先にも触れたが、彼は孤独に生き、彼の仕事を本当に理解しているのは彼以外いない。
ボマーが彼だったということは、おそらく組織も理解していなかったに違いない。
組織にトラベルについては監視されていると話すが、おそらくこの仕事を生業にしているのはジョンだけだったろう。
もしかしたら他にもいた可能性はあるものの、少なくとも他のエージェントとのやりとりは一切なく、彼は決められた時間に決められた行動(任務)を求められ、決められた時間に帰ってきていた。
そこに自分なりの選択はあるものの、すべてが過去からも未来からも決められていた。
ジョンはすべての行動が自分の意志に基づいたものでありながら、すでに決定されているというレールの上を歩かされている。
ここにはすべてのものがあらかじめ決定されているという運命論が根っこにある。
この映画がおもしろいのは、徹底して彼が閉じられた人生を送るという点である。
そしてまたそれが「私たちもまた他者との交流など一切なく閉じられた自分という存在だけで生きている」ということを意識させる。
愛する人が本当に自分のことを理解してくれているだろうか。
あるいはその人のことを本当に理解しているだろうか。
子ども同士の会話を聞いていると、やりとりができているようで全く会話が成立していないというような場面にしばしば遭遇する。
「子どもだから可愛いな」というような無邪気なことを私は感じない。
むしろそのちぐはぐなやりとりこそが、私たち人間のコミュニケーションなるもので、勘違いと偏見と先入観で社会は成り立っているのではないか。
そうだとすれば、徹底的に私たちは自分という人生の中で、決められた閉じられた世界で生きているかもしれない。
私たちは徹頭徹尾、自作自演の中をさまよっているのだ。
そうではない、と言い切れる人はよほどの自信家だけだろう。
(そしてそれがまた自作自演の中を生きている何よりの証でもある)
私は、ジェーンが特殊な性をもつようになったのはジョンがトラベルさせて過去に運ばれたからではないかと読んでいる。
彼女は女性として生まれたが、過去にトラベルすることで体に負担がかかり彼でもあるし彼女でもあるという特殊な性を授かる。
自身がボマーであることを知ったジョンは、銃口を未来の自分に向ける。
私はそのシークエンスを見ながら「違う、自分に銃口を向けろ」と願っていた。
彼が自己の矛盾の輪から抜け出すには、自殺以外ない。
けれども、彼はそれができなかった。
彼の未来には、ボマーにならざるを得ない必然の運命が待っているだろう。
そして過去の自分に対峙したとき、どれだけ人を救ってきたのかということをとうとうと語るのだ。
思えば、ジェーンの前に現れたジョンも「会わない」や「一線を越えない」自分も選択肢にあったはずだ。
だが、それができなかった。
それが運命だった、映画だから、というのはたやすい。
けれどもそれがその人の人生であり、人間というものなのだろう。
この映画にはたった一人の人生しか描かれていない。
けれどもこんなにも胸に刺さるのは、私たちとそう変わらない普遍性があるからに違いない。
監督:マイケル・スピエリッグ ピーター・スピエリッグ
自分の尾を噛むヘビ。
1970年11月、連続爆弾犯に騒ぐNYで、さびれたバーでバーテンダー(イーサン・ホーク)として働く男の元に、見慣れない男(サラ・スヌーク)が不機嫌そうに店を訪れた。
話をしているうちに、未婚の母というペンネームで雑誌に連載していることを知る。
男の話に興味をもったバーテンダーは、男の生い立ちに耳を傾ける。
彼が話し始めたのは「俺が少女だった頃……」というものだった。
どこまでストーリーを書くべきなのかちょっとわからない。
SF作品で、アマゾンプライムから見た。
その前に新書で「物理学者、SF映画にハマる」という本を読んでいて、そこで紹介されていたので見たいと思っていた作品だ。
オーストラリアの作品で、上映時間も短く、コンパクトにまとめられている。
いわゆるタイムトラベルものであり、この手の話が好きな人にはお勧めできる。
ちょっと話はややこしいのかもしれないが、タイムトラベルが好きであれば全く違和感はないだろう。
科学的なしくみなどの説明は一切されないので、時系列さえ追うことができれば物語として楽しめる。
主演はイーサン・ホーク。
なかなかの佳作だと思う。
▼以下はネタバレあり▼
早い段階でオチは読めるものの、物語が収束していく様子がある種の高揚感をもって体験できるだろう。
SF映画としてとても優れた作品だと思う。
実現可能かどうかはさておき、LGBTの要素もありながら、そこにある主人公の悲しみもある。
見た人は分かると思うが、この人は結局だれからも承認・認知されずに純粋な孤独の中で一生を終える。
この悲しみこそがこの映画のテーマであり、そして人間にある普遍性を描いている。
その点で秀逸なSF映画なのだと思う。
ストーリーに書くとわかりにくいと思ったので冒頭の数分はあえて書かなかった。
冒頭は爆弾処理をしようとして失敗し、そのまま未来にタイムスリップし大きなケガを負った男が、最後の任務として再び過去にタイムスリップするというものだ。
そこで「なんだこの顔は、別人じゃないか」「声も変わってしまった」という台詞がある。
このことと、バーで出会った男(女?)との話でかなり先まで早い段階に読むことができただろう。
もったいぶっても意味がないので、この男の一生を整理してみよう。
孤児院に捨てられた少女は身体的に強く精神的に不安定な幼少期を過ごす。
孤独に過ごした彼女ジェーンは、政府の機関の研修を受けるが、選出されずに新しい生活を見つけようとしていた。
そんな折りにある男と偶然出会い、意気投合し、恋仲となる。
しかし、ある日突然男は彼女の元を去り、後にジェーンは妊娠していることを知る。
出産後医師から告げられたのは、「あなたは男女ともの性器を有していたが、男性性器のみしか救えなかった」。
男性として生きることを余儀なくされたジェーンは、その娘までも何者かに誘拐される。
途方に暮れた男はジョンと名乗り、新しい生活を見つけ「未婚の母」という話をゴシップ誌に連載し始める。
そこでバーを訪れたのだ。
そのバーで出会ったのはタイムトラベルをすることができるテンポラルエージェント(時空警察官)だった。
そのバーテンダーは彼を「娘の父親に合わせてやる」と言い、過去にトラベルする。
その時間はジェーンが男と出会ったものであり、その男とは自分であることを知る。
やがて過去の自分ジェーンと恋仲になり、深い仲になったとき再びバーテンダーのエージェントが訪れ、自分の仕事を継ぐように伝える。
かくしてジョンは爆弾犯の犯行を食い止めるための捜査官になる。
あらゆる犯罪を防ぐことを任務にしてきた彼は、1970年3月の爆弾処理を失敗し大けが負う。
そのけがによって彼は別人のような容姿になってしまう。
かつてのジェーンと、かつてのジョンにエージェントになるように仕向け、ジョンとジェーンの間に生まれた子どもを1945年に連れ去り、孤児院の入り口に置いた。
こうして自分と自分との間に生まれた自分を、過去に連れ去ることで誕生という出来事を作る。
さらに、最後のトラベルでついに爆弾犯を見つけ出したジョンは、その犯人と対峙する。
それは、未来の自分だった。
未来の初老の男は、爆弾犯として殺さなかった人間によってさらに大きな事件を未然に防ぐためだったと説明する。
激高したジョンは、その未来の自分を射殺する……。
実際の爆弾犯としての動きやそれを未然に防いでいくエージェントしての仕事は劇中では明かされない。
それがおそらくこの映画のまとまりや上映時間につながり、傑作となった所以だろう。
ハリウッドならこのあたりを省略することができずに、冗長な映画になったと思われる。
あくまでこの話はジョン/ジェーンという一人の人間の一生を描いた作品である。
彼(彼女)は自分と自分で自分を産み、そして自分に殺されるという、正真正銘の自己完結の存在として生きた。
だからこそタイムトラベルができたのであり、しなければならなかった。
逃れられない運命にあり、タイトル「プリ」「デスティネーション」に繋がる。
造語だろうが、意味は「運命の前借り」であり、「事前に決められた運命」といったものか。
先にも触れたが、彼は孤独に生き、彼の仕事を本当に理解しているのは彼以外いない。
ボマーが彼だったということは、おそらく組織も理解していなかったに違いない。
組織にトラベルについては監視されていると話すが、おそらくこの仕事を生業にしているのはジョンだけだったろう。
もしかしたら他にもいた可能性はあるものの、少なくとも他のエージェントとのやりとりは一切なく、彼は決められた時間に決められた行動(任務)を求められ、決められた時間に帰ってきていた。
そこに自分なりの選択はあるものの、すべてが過去からも未来からも決められていた。
ジョンはすべての行動が自分の意志に基づいたものでありながら、すでに決定されているというレールの上を歩かされている。
ここにはすべてのものがあらかじめ決定されているという運命論が根っこにある。
この映画がおもしろいのは、徹底して彼が閉じられた人生を送るという点である。
そしてまたそれが「私たちもまた他者との交流など一切なく閉じられた自分という存在だけで生きている」ということを意識させる。
愛する人が本当に自分のことを理解してくれているだろうか。
あるいはその人のことを本当に理解しているだろうか。
子ども同士の会話を聞いていると、やりとりができているようで全く会話が成立していないというような場面にしばしば遭遇する。
「子どもだから可愛いな」というような無邪気なことを私は感じない。
むしろそのちぐはぐなやりとりこそが、私たち人間のコミュニケーションなるもので、勘違いと偏見と先入観で社会は成り立っているのではないか。
そうだとすれば、徹底的に私たちは自分という人生の中で、決められた閉じられた世界で生きているかもしれない。
私たちは徹頭徹尾、自作自演の中をさまよっているのだ。
そうではない、と言い切れる人はよほどの自信家だけだろう。
(そしてそれがまた自作自演の中を生きている何よりの証でもある)
私は、ジェーンが特殊な性をもつようになったのはジョンがトラベルさせて過去に運ばれたからではないかと読んでいる。
彼女は女性として生まれたが、過去にトラベルすることで体に負担がかかり彼でもあるし彼女でもあるという特殊な性を授かる。
自身がボマーであることを知ったジョンは、銃口を未来の自分に向ける。
私はそのシークエンスを見ながら「違う、自分に銃口を向けろ」と願っていた。
彼が自己の矛盾の輪から抜け出すには、自殺以外ない。
けれども、彼はそれができなかった。
彼の未来には、ボマーにならざるを得ない必然の運命が待っているだろう。
そして過去の自分に対峙したとき、どれだけ人を救ってきたのかということをとうとうと語るのだ。
思えば、ジェーンの前に現れたジョンも「会わない」や「一線を越えない」自分も選択肢にあったはずだ。
だが、それができなかった。
それが運命だった、映画だから、というのはたやすい。
けれどもそれがその人の人生であり、人間というものなのだろう。
この映画にはたった一人の人生しか描かれていない。
けれどもこんなにも胸に刺さるのは、私たちとそう変わらない普遍性があるからに違いない。
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