評価点:68点/2008年/アメリカ
監督:ロドリゴ・ガルシア
アン・ハサウェイに全部もっていかれた感じ。
109名をのせた飛行機が墜落してしまう。
生存者は五名。
その五名のカウンセリングのために呼ばれたのはカウンセラーのクレア・サマーズ(アン・ハサウェイ)。
クレアはそれぞれの生存者から事故の詳細を聞き出すが、なぜか患者たちの証言が一致しない。
不審に思ったクレアは、どういうことか、航空会社に問いただそうとするが、暗に口止めされてしまう。
一方、患者の一人、エリック・クラーク(パトリック・ウィルソン)は彼女に近づこうとするが……。
「プリティ・ブライド」シリーズで一躍シンデレラガールに上り詰めたアン・ハサウェイ主演のサスペンス。
見所はなんと言っても、彼女。
彼女を見ているだけで、この映画を観た価値はあると思えてしまうから不思議だ。
それは容姿だけではなく、持っている雰囲気で、物語の謎を生み出し、そして見えなくさせる。
良くも悪くも、彼女の魅力によって映画が成立しているといっても過言ではない。
「プラダを着た悪魔」も彼女だったはずなので、ちょっと観たくなってきた。
サスペンスとしても秀逸な部類に入る。
オチを暴こうとする見方ではなく、単純に物語を追うだけで楽しめるだろう。
上映館数はあまり多くないはずなので、頑張って観に来ましょう。
▼以下はネタバレあり▼
これを観たいきさつから先に説明しよう。
本当は迷作「ドラゴンボール」を観に行く予定で時間を組んだのだが、諸事情があり時間が余ってしまった。
「ドラゴンボール」の上映時間までだいぶあったのでぶらぶら歩いていたら、偶然「パッセンジャー」の看板を見つけて、映画館に駆け込んだ。
だから、時間通りに観ることができずに、五分くらい冒頭を見逃している。
クレアとエリックが出会った場面から見始めたので、この批評も多少的外れなことを書いているかもしれない。
さすがにもう一度お金を払って、時間を割いて観に行くことはできそうにないので、ご了承願いたい。
この映画はミスディレクション系のサスペンスである。
ミスディレクションというよりも、もっと端的に言って、「シックス・センス」系である。
ミスディレクションとは、つまり、観客を巧みにミスリードすることによって、大どんでん返しを見せる映画だ。
「アザーズ」なんかも、この部類に入る。
オチとしてはまんま「シックス・センス」なので、ぱくりやん、と思った人もいるかもしれない。
ではまずそのミスリードと真相を明らかにしていこう。
この映画の初めから、大きく分けて二つの謎、不自然さがある。
一つは、飛行機墜落の事件の真相。
もう一つは、クレアの周りに起こる不思議である。
飛行機墜落事故の真相についてが、ミスリードの謎である。
これは多くの人がミスリードであることに気づいただろう。
小出しにされる真相については、いっこうに明かされる気配がないからだ。
この映画はそういう種類の映画ではなく、なにか根本的なところに謎が隠されていると読めるのだ。
その原因となっているのが、クレアの身の回りに起こる不思議である。
冒頭の(見始めた)エリックとの出会いの場面で「姉妹がいる? 居るなら連絡を取った方がいいよ」と告げる。
僕はこれを見たときに、彼は霊媒師かなにかか、もしくは記憶喪失系の話なのかと疑った。
だが、姉といっこうに連絡が取れないシーンから、もしかしたらアンが記憶喪失で、姉がすでに死んでいるのか、もしくは双子だと精神疾患による誤認なのかとも考えた。
これ以降は、もう何が何だか予想できなくなってしまった。
真相に一番近づいたのは、エリックが電車に飛び込んだのに生きていたことだ。
だが、僕としては全くどういう方向に向かおうとしているのか、つかめなかったので、予想できたとは言えない。
早くから読めた人はよほど勘がいいか、よほどのひねくれ者だろう(負け惜しみです、はい)。
それはさておき、全ては死者の「死を受け入れるまでの時間」だった、というオチである。
それまで登場してきた人物は、すべて死にゆかりのある人物ばかりで、突然の死を受け入れるためにあれこれと画策していたのだ。
ペリー先生は「真相を知らないほうがいいこともある」と暗に伝えることで、死をほのめかす。
死を受け入れたパイロットのデヴィッド・モースは、自分の至らなさを悔恨してこの世を去っていく。
全ての人物たちは、死を自覚することで、納得して死を迎えていくのである。
そのための伏線はたくさんあった。
ペリー先生もそうだが、たとえばカウンセラーの部屋だ。
集団カウンセリングの手法をとっているが、画面上ではどちらが患者でどちらが精神科医かわかないような円形になっている。
僕はこれをみたとき、ああ、医者と患者は同列にあるのだな、と感じた。
それは映像による潜在的な伏線だったわけだ。
円形に座った椅子には一人、また一人と姿を消していく。
やがて一人になり、ようやく気づくように仕組まれている。
自分もその患者と同じように、死者の一人なのだ、と。
この映画は、伏線がたくさんありながらも、絶対に読めないようにできている。
特に、エリックの犬や、近所のおばさんなどは、エピソードとしても出てこないため、明かされても「そんなん知るかよ」という伏線になっている。
だから、卑怯なミスディレクションと言える。
落ちを知っても、「そりゃないよ」と肩すかしを食らった印象を受けるのは当然なのだ。
観客の中には、怒りを覚えた人もいたはずだ。
おそらく、そう感じたのは、作り手が提示する情報に決定的な欠落があるからだ。
伏線として機能しない伏線をいくら重ねられても、観客は作り手と勝負することができない。
だから、やられた、というカタルシスはそれほど大きくない。
ミスリードというレベルの話ではなくなっているのだ。
その意味で、この映画はミスディレクションとして失格している。
サスペンスとして破綻していると言っても過言ではない。
だが、この映画は不思議と怒りよりも切なさやさわやかさを、映画館を出るときに感じさせるように仕組まれていることも確かなのだ。
それはこの映画のテーマだ。
死んだときの悲しみや不条理感をなくすために、死後も別れを告げる、あるいは死後それを納得するための時間を与えられるというテーマは魅力あるものになっている。
変な言い方だが、「夢がある」のである。
死んでも希望があるのだ。
それを実感させるのは姉と和解に至るラストのシーンだ。
死後のクレアの部屋に訪れた姉は、クレアの書いた手紙を見つける。
ここで、クレアと姉は和解に至るのだ。
それは死後という確かに不本意な形ではあるが、それでも映画的に、物語的に、和解に至るというのは重要だ。
そして、それがミスディレクションとは別のカタルシスをもたらすことになる。
人間ドラマとしての浄化作用である。
だから、「そりゃ読むのは無理だよ」と思いつつも、なぜか心が温まる印象を受けるのは、そのためだ。
この映画を支えているのは、こうしたシナリオの展開にあるのではない、と思う。
この映画を支えているのは、アン・ハサウェイだ。
彼女のミステリアスな雰囲気と、息をのむ美しさに、謎の解明を忘れてしまう。
物語に引き込まれてしまい、本来なら冷静に謎を解こうとする考えを見失ってしまうようになっている。
彼女を主人公に据えた時点で、この映画は「負けることのない」映画になっている。
やられた感があるのは、その一点のみだろう。
監督:ロドリゴ・ガルシア
アン・ハサウェイに全部もっていかれた感じ。
109名をのせた飛行機が墜落してしまう。
生存者は五名。
その五名のカウンセリングのために呼ばれたのはカウンセラーのクレア・サマーズ(アン・ハサウェイ)。
クレアはそれぞれの生存者から事故の詳細を聞き出すが、なぜか患者たちの証言が一致しない。
不審に思ったクレアは、どういうことか、航空会社に問いただそうとするが、暗に口止めされてしまう。
一方、患者の一人、エリック・クラーク(パトリック・ウィルソン)は彼女に近づこうとするが……。
「プリティ・ブライド」シリーズで一躍シンデレラガールに上り詰めたアン・ハサウェイ主演のサスペンス。
見所はなんと言っても、彼女。
彼女を見ているだけで、この映画を観た価値はあると思えてしまうから不思議だ。
それは容姿だけではなく、持っている雰囲気で、物語の謎を生み出し、そして見えなくさせる。
良くも悪くも、彼女の魅力によって映画が成立しているといっても過言ではない。
「プラダを着た悪魔」も彼女だったはずなので、ちょっと観たくなってきた。
サスペンスとしても秀逸な部類に入る。
オチを暴こうとする見方ではなく、単純に物語を追うだけで楽しめるだろう。
上映館数はあまり多くないはずなので、頑張って観に来ましょう。
▼以下はネタバレあり▼
これを観たいきさつから先に説明しよう。
本当は迷作「ドラゴンボール」を観に行く予定で時間を組んだのだが、諸事情があり時間が余ってしまった。
「ドラゴンボール」の上映時間までだいぶあったのでぶらぶら歩いていたら、偶然「パッセンジャー」の看板を見つけて、映画館に駆け込んだ。
だから、時間通りに観ることができずに、五分くらい冒頭を見逃している。
クレアとエリックが出会った場面から見始めたので、この批評も多少的外れなことを書いているかもしれない。
さすがにもう一度お金を払って、時間を割いて観に行くことはできそうにないので、ご了承願いたい。
この映画はミスディレクション系のサスペンスである。
ミスディレクションというよりも、もっと端的に言って、「シックス・センス」系である。
ミスディレクションとは、つまり、観客を巧みにミスリードすることによって、大どんでん返しを見せる映画だ。
「アザーズ」なんかも、この部類に入る。
オチとしてはまんま「シックス・センス」なので、ぱくりやん、と思った人もいるかもしれない。
ではまずそのミスリードと真相を明らかにしていこう。
この映画の初めから、大きく分けて二つの謎、不自然さがある。
一つは、飛行機墜落の事件の真相。
もう一つは、クレアの周りに起こる不思議である。
飛行機墜落事故の真相についてが、ミスリードの謎である。
これは多くの人がミスリードであることに気づいただろう。
小出しにされる真相については、いっこうに明かされる気配がないからだ。
この映画はそういう種類の映画ではなく、なにか根本的なところに謎が隠されていると読めるのだ。
その原因となっているのが、クレアの身の回りに起こる不思議である。
冒頭の(見始めた)エリックとの出会いの場面で「姉妹がいる? 居るなら連絡を取った方がいいよ」と告げる。
僕はこれを見たときに、彼は霊媒師かなにかか、もしくは記憶喪失系の話なのかと疑った。
だが、姉といっこうに連絡が取れないシーンから、もしかしたらアンが記憶喪失で、姉がすでに死んでいるのか、もしくは双子だと精神疾患による誤認なのかとも考えた。
これ以降は、もう何が何だか予想できなくなってしまった。
真相に一番近づいたのは、エリックが電車に飛び込んだのに生きていたことだ。
だが、僕としては全くどういう方向に向かおうとしているのか、つかめなかったので、予想できたとは言えない。
早くから読めた人はよほど勘がいいか、よほどのひねくれ者だろう(負け惜しみです、はい)。
それはさておき、全ては死者の「死を受け入れるまでの時間」だった、というオチである。
それまで登場してきた人物は、すべて死にゆかりのある人物ばかりで、突然の死を受け入れるためにあれこれと画策していたのだ。
ペリー先生は「真相を知らないほうがいいこともある」と暗に伝えることで、死をほのめかす。
死を受け入れたパイロットのデヴィッド・モースは、自分の至らなさを悔恨してこの世を去っていく。
全ての人物たちは、死を自覚することで、納得して死を迎えていくのである。
そのための伏線はたくさんあった。
ペリー先生もそうだが、たとえばカウンセラーの部屋だ。
集団カウンセリングの手法をとっているが、画面上ではどちらが患者でどちらが精神科医かわかないような円形になっている。
僕はこれをみたとき、ああ、医者と患者は同列にあるのだな、と感じた。
それは映像による潜在的な伏線だったわけだ。
円形に座った椅子には一人、また一人と姿を消していく。
やがて一人になり、ようやく気づくように仕組まれている。
自分もその患者と同じように、死者の一人なのだ、と。
この映画は、伏線がたくさんありながらも、絶対に読めないようにできている。
特に、エリックの犬や、近所のおばさんなどは、エピソードとしても出てこないため、明かされても「そんなん知るかよ」という伏線になっている。
だから、卑怯なミスディレクションと言える。
落ちを知っても、「そりゃないよ」と肩すかしを食らった印象を受けるのは当然なのだ。
観客の中には、怒りを覚えた人もいたはずだ。
おそらく、そう感じたのは、作り手が提示する情報に決定的な欠落があるからだ。
伏線として機能しない伏線をいくら重ねられても、観客は作り手と勝負することができない。
だから、やられた、というカタルシスはそれほど大きくない。
ミスリードというレベルの話ではなくなっているのだ。
その意味で、この映画はミスディレクションとして失格している。
サスペンスとして破綻していると言っても過言ではない。
だが、この映画は不思議と怒りよりも切なさやさわやかさを、映画館を出るときに感じさせるように仕組まれていることも確かなのだ。
それはこの映画のテーマだ。
死んだときの悲しみや不条理感をなくすために、死後も別れを告げる、あるいは死後それを納得するための時間を与えられるというテーマは魅力あるものになっている。
変な言い方だが、「夢がある」のである。
死んでも希望があるのだ。
それを実感させるのは姉と和解に至るラストのシーンだ。
死後のクレアの部屋に訪れた姉は、クレアの書いた手紙を見つける。
ここで、クレアと姉は和解に至るのだ。
それは死後という確かに不本意な形ではあるが、それでも映画的に、物語的に、和解に至るというのは重要だ。
そして、それがミスディレクションとは別のカタルシスをもたらすことになる。
人間ドラマとしての浄化作用である。
だから、「そりゃ読むのは無理だよ」と思いつつも、なぜか心が温まる印象を受けるのは、そのためだ。
この映画を支えているのは、こうしたシナリオの展開にあるのではない、と思う。
この映画を支えているのは、アン・ハサウェイだ。
彼女のミステリアスな雰囲気と、息をのむ美しさに、謎の解明を忘れてしまう。
物語に引き込まれてしまい、本来なら冷静に謎を解こうとする考えを見失ってしまうようになっている。
彼女を主人公に据えた時点で、この映画は「負けることのない」映画になっている。
やられた感があるのは、その一点のみだろう。
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