評価点:84点/2004年/アメリカ
監督:エリック・ブレス、J・マッキー・グルーバー
「たら」「れば」を追求したラブストーリー
七歳の頃のエヴァン(アシュトン・カッチャー)は、一時的に記憶を喪失する病気に悩まされていた。
それは父親の遺伝であることを、母親は気づいていた。
ある日、幼なじみのトミー(ウィリアム・リー・スコット)の父親に呼び出された。
しかし、そこで記憶が途絶え、裸にされたエヴァンとトミーの妹・ケイリー(エイミー・スマート)が泣いていた。
六年後、十三歳になったエヴァンは、トミーの家の地下室にあったダイナマイトで、家のポストを爆破させようとたくらんだ。
しかし、爆破する寸前にまた、エヴァンの記憶は失われてしまう。
ケイリーに恋心を抱いていたエヴァンは、再会の約束して引越ししてしまう。
七年後のエヴァンは大人になり、大学に通いながら記憶についての研究をしていた。
ある日、日記を読んでいると、リアルな夢にさいなまれた。
その頃の記憶をすこし取り戻した彼は、かつて住んでいた町に戻り、七歳の時地下室で何があったかをケイリーにたずねた。
翌日、留守番電話には、兄のトミーから電話が。
「妹が自殺した」
ケイリーを救えなかった悲しみと、自分の記憶への興味から、再び当時の日記を読むと……。
アシュトン・カッチャーといえば、アメリカでは有名なイケメン俳優。
そのカブを、ただ容姿だけではないことを証明したのが、この「バタフライ・エフェクト」である。
公開当時から、アメリカで話題になっていたことを知っていた。
映像とその設定から、本当に面白いのだろうかと疑いながら、その話を聞いていたのを今でも覚えている。
今回、日本でもようやく公開にこぎつけたことを知って、なんとしてでも、観てやろうと思っていたのだ。
上映館数が余りにすくないため、観られる人はごく僅かだろうが、これは、稀にみる傑作だ。
是非観に行くべきだと思う。
アシュトン・カッチャーの顔を目当てで行く人も、きっと面を喰らうだろう。
▼以下はネタバレあり▼
この話は、タイムトラベルをモティーフにしたラブストーリーになっている。
昔別れてしまった恋人の運命を変えるべく、失われた記憶を頼りに、何度も彼女(あるいは自分や母親)を救おうと時空を超えて運命に挑む。
オチは意外と単純だったので、先読みは可能になっているが、何と言ってもリアリティある配役と演技によって、臨場感は高まり、感動作となっている。
子どもの頃から、記憶を一時的に喪失する「病気」に悩まされていたエヴァン。
いつも肝心なときに、記憶がなくなってしまう。
「あのとき何が起こったのか」
これが、物語のサスペンス的な部分になっている。
過去にさかのぼり、それを変えようとすることによって、自分の運命と、周りの人の運命を変えようとするのだ。
記憶が喪失したポイントは、いくつかある。
授業中将来の夢というタイトルで絵を描いたとき。
トミーの家の地下室でビデオ・カメラの前で裸になっていたとき。
母親が目を話した隙に、包丁を持っていたとき。
病院にいた父親と面会したとき。
爆弾で悪戯していたとき。
飼い犬がトミーに殺されたとき。などである。
これらの出来事はすべて、エヴァンやケイリーの運命を大きく左右する(した)出来事ばかりだ。
彼はこれらの出来事に対して悩む。
だからこそ、二十歳になったエヴァンは、大学で心理学を専攻し、記憶について研究しているのだ。
彼のタイムトラベルのやりかたは、SF映画にあるような車に乗ったり、タイムマシンに乗ったりはしない。
日記を読み、記憶を手繰り寄せることで、過去を変えることが可能になるのだ。
幼い頃、記憶が途切れてしまった理由もここにある。
未来の自分が入り込んでしまうから、当時の自分は記憶(意識)をなくし、何も覚えていない状態になってしまう。
記憶をなくすたびに、彼の周りではささやきあう。
「父親と同じ症状ですね」
「あの子も、父親のようになってしまうのですか」
この悲しい能力は、父親の遺伝であるということが、物語のはじめのほうからほのめかされている。
だが、このアメリカ映画の面白い点は、「なぜそんな能力があるのか」という点には一切触れられることなく、話が進められていくことだ。
少し話は横道にそれる。
そもそもアメリカというお国柄は、理由や過去(歴史)を問題視しない傾向にあるという。
なぜそうなるのか。
自分の過去はどうだったのか。
もちろん、ここで言う過去とは、20年やそこらの浅い過去ではなく、もっと長いスパン、血統や血筋などというレベルの過去の話だ。
アメリカが元々歴史の浅い(あるいは無い)国だからなのか、アメリカ人の多くは、過去がどうであったのかではなく、現在どうなのか、どうするべきなのか、という考えを持つ。
「グラディエーター」などの歴史映画がウケルのは、その裏返しだ。
歴史がないぶん、歴史深いものにあこがれるのだ。
だからアメリカ映画には重みがあまりないのだ……。
この映画も、「遺伝」というブラックボックスに「なぜなのか」という問いは、放り込まれてしまって、それを利用していかに救うのか、という点に、物語の中心が置かれている。
「アンブレイカブル」で主人公が「なぜスーパーマンなのか」という点に、関心が寄せられないのも同じ理由だろう。
話を戻そう。
彼は何度も過去を訪れ、そこで自分と周りの人がうまくいく方法を探そうとする。
だが、いつもうまくいかない。
自分とケイリーが幸せになると、トミーがその不幸せな部分を背負い込んでしまう。
そこで、ケイリーだけでなくトミーまで救おうとすると、友人のレニー(エルデン・ヘンソン、「マイ・フレンド・メモリー」)が、
不幸になってしまう。
どうしてもうまくいかない。
誰かを救おうとすると、誰かが不幸になる。
少しずつ運命のいたずらに気づき始めたエヴァンは、自分を犠牲にすることで、未来を変えようとする。
郵便ポストに爆弾をしかけ、それをこっそり覗くといういたずらをしていたとき、一台の車が訪れる。
住人は赤ん坊を抱えて帰宅し、郵便ポストに近づく。
「本当の未来」では、そこで爆発し、母親と赤ん坊が死んでしまう。
これを変えるために、エヴァンは自らが郵便ポストに近づき、爆発に巻き込まれる。
未来に戻ってきたエヴァンには、両手が無かった。
悲しみに暮れるエヴァンだったが、周りの人々は、幸せに暮らしていた。
トミーもケイリーも、レニーも幸せだった。
それをみて安心したエヴァンは、自らの役目を終えたというように、死を選ぼうとする。
だが、寸前で止められ、母親の元にいく。
そこには肺がんになってしまった母親が横たわっていた。
また違う誰かを不幸にしたわけである。
だが、この未来には一つの光明があった。
両親が離婚してしまったケイリーはこう話すのだ。
「私が暴力をふるう父親の元に引き取られたのはあなたに恋していたからよ」
つまり、彼はケイリーとの「出会い」から変える事を思いつくのだ。
これはまさに「切ない結論」に違いない。
二人が出会わなければよかった。
これが結論なのである。
二人が幸せに、恋を成就させるための代価は、あまりに多く、そしてあまりに大きい。
全てを丸くおさめるためには、「出会わない」ことだったのである。
これは読めた人も多かっただろう。
勘のいい人なら、観なくても設定を聞いただけでも分かるような、シンプルでオーソドックスな結論だ。
だが、それでもこの結論が重い意味を持っているのは、間違いなく、結論に至るまでの長い過程にある。
それこそが、この映画の最大の魅力と言ってもいい。
つまり、彼は、なんども人生を経験することによって、山も谷も体験した。
最高の幸せを知り、刑務所も、精神病院も、身体障害者になり周りが幸せになるという経験もした。
そのさまざまな試行錯誤を、帳消しにしてしまうこの結論は、非常に重たく、切ないものになっている。
ここまで努力し、ここまで辛酸をなめてきたのに、結論は、「ゼロ」になること。
このかなしみは、おそらく先が読めるからといっても、映画を全編観ないとわからない重さを持っている。
だが、僕はそれだけではない、もう一つの「かなしみ」もよめるのではないかと思う。
それは父親のかなしみだ。
父親は精神病院に入れられ、アルバムも日記も失ってしまった。
だから運命を変えるすべを失ってしまい、精神病院に入る他なくなってしまった。
だが、僕は、父親が自ら精神病院に入ったのではないかとも思うのだ。
つまり、理由は自分が不幸になる(精神病院に入る)ことで、息子が生まれることが分かったから、彼は自ら不幸になることを選んだのではないか。
そうだとすれば、なんというかなしみだろうか。
もちろん、これは深読みだが、深読みしたくなるほどの、いい作品だと思う。
そして、役者。
アイドル的な人気を誇るアシュトン・カッチャーだが、この映画ではすばらしい演技を見せている。
彼と彼以外の周りの役者が、未来を変えたと思わせる演技を見せたことによって、
リアルな「書き換え」が可能になった(レニーがあの「マイ・フレンド・メモリー」の役者だなんて。ちょっとショック)。
シナリオもさることながら、役者の力を改めて見せ付けられた印象だ。
だが、不満もある。
未来を変えることができるかもしれない。
この前向きなテーマに対して、幼少の頃のいくつかの出来事だけで未来が変わってしまうというのは、あまりに後向きではないだろうか。
確かにトラウマになってしまう出来事も起こりうるだろう。
だが、それにしても、その一つの出来事で、180度変わってしまうというのは、あまりに安易だ。
人の運命は、一つの出来事で決まるのではなく、日常的な行いや、積み重ねが決めるのではないのか。
その意味で、人の運命をもてあそんだのは、制作者なのかもしれない。
(2005/5/22執筆)
監督:エリック・ブレス、J・マッキー・グルーバー
「たら」「れば」を追求したラブストーリー
七歳の頃のエヴァン(アシュトン・カッチャー)は、一時的に記憶を喪失する病気に悩まされていた。
それは父親の遺伝であることを、母親は気づいていた。
ある日、幼なじみのトミー(ウィリアム・リー・スコット)の父親に呼び出された。
しかし、そこで記憶が途絶え、裸にされたエヴァンとトミーの妹・ケイリー(エイミー・スマート)が泣いていた。
六年後、十三歳になったエヴァンは、トミーの家の地下室にあったダイナマイトで、家のポストを爆破させようとたくらんだ。
しかし、爆破する寸前にまた、エヴァンの記憶は失われてしまう。
ケイリーに恋心を抱いていたエヴァンは、再会の約束して引越ししてしまう。
七年後のエヴァンは大人になり、大学に通いながら記憶についての研究をしていた。
ある日、日記を読んでいると、リアルな夢にさいなまれた。
その頃の記憶をすこし取り戻した彼は、かつて住んでいた町に戻り、七歳の時地下室で何があったかをケイリーにたずねた。
翌日、留守番電話には、兄のトミーから電話が。
「妹が自殺した」
ケイリーを救えなかった悲しみと、自分の記憶への興味から、再び当時の日記を読むと……。
アシュトン・カッチャーといえば、アメリカでは有名なイケメン俳優。
そのカブを、ただ容姿だけではないことを証明したのが、この「バタフライ・エフェクト」である。
公開当時から、アメリカで話題になっていたことを知っていた。
映像とその設定から、本当に面白いのだろうかと疑いながら、その話を聞いていたのを今でも覚えている。
今回、日本でもようやく公開にこぎつけたことを知って、なんとしてでも、観てやろうと思っていたのだ。
上映館数が余りにすくないため、観られる人はごく僅かだろうが、これは、稀にみる傑作だ。
是非観に行くべきだと思う。
アシュトン・カッチャーの顔を目当てで行く人も、きっと面を喰らうだろう。
▼以下はネタバレあり▼
この話は、タイムトラベルをモティーフにしたラブストーリーになっている。
昔別れてしまった恋人の運命を変えるべく、失われた記憶を頼りに、何度も彼女(あるいは自分や母親)を救おうと時空を超えて運命に挑む。
オチは意外と単純だったので、先読みは可能になっているが、何と言ってもリアリティある配役と演技によって、臨場感は高まり、感動作となっている。
子どもの頃から、記憶を一時的に喪失する「病気」に悩まされていたエヴァン。
いつも肝心なときに、記憶がなくなってしまう。
「あのとき何が起こったのか」
これが、物語のサスペンス的な部分になっている。
過去にさかのぼり、それを変えようとすることによって、自分の運命と、周りの人の運命を変えようとするのだ。
記憶が喪失したポイントは、いくつかある。
授業中将来の夢というタイトルで絵を描いたとき。
トミーの家の地下室でビデオ・カメラの前で裸になっていたとき。
母親が目を話した隙に、包丁を持っていたとき。
病院にいた父親と面会したとき。
爆弾で悪戯していたとき。
飼い犬がトミーに殺されたとき。などである。
これらの出来事はすべて、エヴァンやケイリーの運命を大きく左右する(した)出来事ばかりだ。
彼はこれらの出来事に対して悩む。
だからこそ、二十歳になったエヴァンは、大学で心理学を専攻し、記憶について研究しているのだ。
彼のタイムトラベルのやりかたは、SF映画にあるような車に乗ったり、タイムマシンに乗ったりはしない。
日記を読み、記憶を手繰り寄せることで、過去を変えることが可能になるのだ。
幼い頃、記憶が途切れてしまった理由もここにある。
未来の自分が入り込んでしまうから、当時の自分は記憶(意識)をなくし、何も覚えていない状態になってしまう。
記憶をなくすたびに、彼の周りではささやきあう。
「父親と同じ症状ですね」
「あの子も、父親のようになってしまうのですか」
この悲しい能力は、父親の遺伝であるということが、物語のはじめのほうからほのめかされている。
だが、このアメリカ映画の面白い点は、「なぜそんな能力があるのか」という点には一切触れられることなく、話が進められていくことだ。
少し話は横道にそれる。
そもそもアメリカというお国柄は、理由や過去(歴史)を問題視しない傾向にあるという。
なぜそうなるのか。
自分の過去はどうだったのか。
もちろん、ここで言う過去とは、20年やそこらの浅い過去ではなく、もっと長いスパン、血統や血筋などというレベルの過去の話だ。
アメリカが元々歴史の浅い(あるいは無い)国だからなのか、アメリカ人の多くは、過去がどうであったのかではなく、現在どうなのか、どうするべきなのか、という考えを持つ。
「グラディエーター」などの歴史映画がウケルのは、その裏返しだ。
歴史がないぶん、歴史深いものにあこがれるのだ。
だからアメリカ映画には重みがあまりないのだ……。
この映画も、「遺伝」というブラックボックスに「なぜなのか」という問いは、放り込まれてしまって、それを利用していかに救うのか、という点に、物語の中心が置かれている。
「アンブレイカブル」で主人公が「なぜスーパーマンなのか」という点に、関心が寄せられないのも同じ理由だろう。
話を戻そう。
彼は何度も過去を訪れ、そこで自分と周りの人がうまくいく方法を探そうとする。
だが、いつもうまくいかない。
自分とケイリーが幸せになると、トミーがその不幸せな部分を背負い込んでしまう。
そこで、ケイリーだけでなくトミーまで救おうとすると、友人のレニー(エルデン・ヘンソン、「マイ・フレンド・メモリー」)が、
不幸になってしまう。
どうしてもうまくいかない。
誰かを救おうとすると、誰かが不幸になる。
少しずつ運命のいたずらに気づき始めたエヴァンは、自分を犠牲にすることで、未来を変えようとする。
郵便ポストに爆弾をしかけ、それをこっそり覗くといういたずらをしていたとき、一台の車が訪れる。
住人は赤ん坊を抱えて帰宅し、郵便ポストに近づく。
「本当の未来」では、そこで爆発し、母親と赤ん坊が死んでしまう。
これを変えるために、エヴァンは自らが郵便ポストに近づき、爆発に巻き込まれる。
未来に戻ってきたエヴァンには、両手が無かった。
悲しみに暮れるエヴァンだったが、周りの人々は、幸せに暮らしていた。
トミーもケイリーも、レニーも幸せだった。
それをみて安心したエヴァンは、自らの役目を終えたというように、死を選ぼうとする。
だが、寸前で止められ、母親の元にいく。
そこには肺がんになってしまった母親が横たわっていた。
また違う誰かを不幸にしたわけである。
だが、この未来には一つの光明があった。
両親が離婚してしまったケイリーはこう話すのだ。
「私が暴力をふるう父親の元に引き取られたのはあなたに恋していたからよ」
つまり、彼はケイリーとの「出会い」から変える事を思いつくのだ。
これはまさに「切ない結論」に違いない。
二人が出会わなければよかった。
これが結論なのである。
二人が幸せに、恋を成就させるための代価は、あまりに多く、そしてあまりに大きい。
全てを丸くおさめるためには、「出会わない」ことだったのである。
これは読めた人も多かっただろう。
勘のいい人なら、観なくても設定を聞いただけでも分かるような、シンプルでオーソドックスな結論だ。
だが、それでもこの結論が重い意味を持っているのは、間違いなく、結論に至るまでの長い過程にある。
それこそが、この映画の最大の魅力と言ってもいい。
つまり、彼は、なんども人生を経験することによって、山も谷も体験した。
最高の幸せを知り、刑務所も、精神病院も、身体障害者になり周りが幸せになるという経験もした。
そのさまざまな試行錯誤を、帳消しにしてしまうこの結論は、非常に重たく、切ないものになっている。
ここまで努力し、ここまで辛酸をなめてきたのに、結論は、「ゼロ」になること。
このかなしみは、おそらく先が読めるからといっても、映画を全編観ないとわからない重さを持っている。
だが、僕はそれだけではない、もう一つの「かなしみ」もよめるのではないかと思う。
それは父親のかなしみだ。
父親は精神病院に入れられ、アルバムも日記も失ってしまった。
だから運命を変えるすべを失ってしまい、精神病院に入る他なくなってしまった。
だが、僕は、父親が自ら精神病院に入ったのではないかとも思うのだ。
つまり、理由は自分が不幸になる(精神病院に入る)ことで、息子が生まれることが分かったから、彼は自ら不幸になることを選んだのではないか。
そうだとすれば、なんというかなしみだろうか。
もちろん、これは深読みだが、深読みしたくなるほどの、いい作品だと思う。
そして、役者。
アイドル的な人気を誇るアシュトン・カッチャーだが、この映画ではすばらしい演技を見せている。
彼と彼以外の周りの役者が、未来を変えたと思わせる演技を見せたことによって、
リアルな「書き換え」が可能になった(レニーがあの「マイ・フレンド・メモリー」の役者だなんて。ちょっとショック)。
シナリオもさることながら、役者の力を改めて見せ付けられた印象だ。
だが、不満もある。
未来を変えることができるかもしれない。
この前向きなテーマに対して、幼少の頃のいくつかの出来事だけで未来が変わってしまうというのは、あまりに後向きではないだろうか。
確かにトラウマになってしまう出来事も起こりうるだろう。
だが、それにしても、その一つの出来事で、180度変わってしまうというのは、あまりに安易だ。
人の運命は、一つの出来事で決まるのではなく、日常的な行いや、積み重ねが決めるのではないのか。
その意味で、人の運命をもてあそんだのは、制作者なのかもしれない。
(2005/5/22執筆)
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