評価点:73点/2018年/アメリカ/116分
監督:クリント・イーストウッド
ごく普通の老人に訪れた第二の人生。
退役軍人のアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は花を育てる農家だった。
家族の記念日にも出ないほど、仕事にのめり込み、数々の表彰も受けた。
しかし、そんなある日、インターネットに押されたこともあり、農場が差し押さえられた。
困り果てた彼は、別れた妻の元を訪れると、孫の結婚式の日だった。
娘の結婚式にも来なかった彼に浴びせられたのは、娘からの怒号だった。
途方に暮れていたところへ、娘婿の知人が新しい仕事をしないか、と名刺を渡してきた。
仕事がなくなった男は、仕方なく連絡先に電話をしてみると、シカゴへ荷物を届けて欲しい、と告げられる。
ずっと見たかったイーストウッド監督・主演の映画。
実際にあった事件に着想を得て、麻薬の運び屋をしていたという老人の話を描いている。
着想を得た、というだけで、ほとんどはフィクションだろう。
麻薬を運ぶために行ったり来たりするだけの、とても狭い世界を描いている。
ともすれば退屈な話だ。
だがそこに、普遍性を描こうとするところが、さすがイーストウッドだ。
今更感が強いけれど、気になる人はどうぞ。
それほど重い内容ではないので、見やすい映画ではある。
▼以下はネタバレあり▼
男は、花を育てて、その花をアメリカ全土に売りに行くという仕事を生業にしていた。
しかし時代の波に押されて、農場を手放すことになった。
男はその長年の経験と、犯罪とは無縁だったということを買われて、麻薬の運び屋になる。
メキシコに近い南の州から、北のシカゴまで110キロを往復するロードムービーだ。
単純に一度きりの旅ではないが、いわゆる往来の物語と言っていいだろう。
アールは荷物を運ぶごとにあり得ないほどの大金を手にする。
最初は知らなかったが、あるとき荷物を見てしまい、仰天する。
しかし、彼は全く動じることもなく、荷物を運ぶという仕事に徹する。
大金を手にすることで、再び彼の周りに人が集まってくる。
退役軍人の集会であったり、家族であったり。
そのお金は間違いなく汚れた金であり、それは彼にも分かっている。
けれども、それに動じることなく、続けられたのはおそらくそれが彼には花を育てるのと同じ「仕事」にすぎなかったからだ。
家族や周りを幸せにするには金が要る。
仕事をしなければ金は手に入らない。
それがどんな仕事であろうとも、やれる仕事をする。
それが、彼の生き方であり、もっと言えばアメリカという国の生き方そのものだ。
「ロード・オブ・ウォー」や「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の主人公にも通じるところがあるかもしれない。
善悪の判断は二の次だ。
外からこの物語を体験する私たちは、「それはだめなことだ」ということは簡単だ。
だが、当事者からしてみれば、求められていることを、しかもできることをする、そのことと、善悪の判断は全く関係がない。
おそらく創作だろうと思われる、麻薬商人のボスに招かれる場面が象徴的だ。
彼は懇意にしている下っ端のフリオに「この仕事を辞めるべきだ」と忠告する。
単なる運び屋が麻薬商人に呼ばれる、という設定はすこし荒唐無稽だし、(実際どうだが知らないが)物語にとっては不要な印象を受ける。
だが彼がその忠告をすることが、この物語の中での、アールという人間の考え方が象徴的に表れている部分だ。
彼は明らかに間違ったことを意図的に行っているにもかかわらず、フリオという人間には全くまっとうな考えを伝えるのだ。
なぜなのか。
それは彼にとって花を育てることも、麻薬を運ぶことも、全く違和感のない「自分にできること」であるという考えが貫かれているからだ。
しかし、フリオはそうではない。
彼は、ここにいるべき人間ではない、そうアールは見抜いていた。
非情にもなれない、決断力もない、そういうフリオにはこの仕事は「自分にできること」ではないのだ。
だが、そういうアールも、この仕事を辞めるべき時を見つける。
それが、離婚した妻の臨終に立ち会うときだ。
長い旅をしたアールは、自分がなぜ長い旅をするべきだったのか、という原点に気づく。
いや、もはやその旅の目的は、家よりも旅の方が居心地が良かった、「自分にできること」だっただけかもしれない。
けれども、余命幾ばくもないことを悟った彼にとって、生きることは家の外ではなく家の中にある、ということを知る。
そこではじめて仕事を降りる決断をする。
麻薬カルテルを裏切ったから彼は仕事を辞めなければならなくなったわけではない。
あるいは、麻薬取締捜査官に逮捕されたから仕事を辞めたのではない。
90歳になって、ようやくそのことに気づいたのだ。
麻薬、仕事、土地の抵当、離婚、あらゆることがアメリカそのもののような物語の舞台装置だ。
仕事に疲れ切ったアメリカという国は、自分の帰るところを見つけることができるだろうか。
イーストウッドという映画人が、アメリカという国をどう憂えているか、おもしろい作品である。
監督:クリント・イーストウッド
ごく普通の老人に訪れた第二の人生。
退役軍人のアール・ストーン(クリント・イーストウッド)は花を育てる農家だった。
家族の記念日にも出ないほど、仕事にのめり込み、数々の表彰も受けた。
しかし、そんなある日、インターネットに押されたこともあり、農場が差し押さえられた。
困り果てた彼は、別れた妻の元を訪れると、孫の結婚式の日だった。
娘の結婚式にも来なかった彼に浴びせられたのは、娘からの怒号だった。
途方に暮れていたところへ、娘婿の知人が新しい仕事をしないか、と名刺を渡してきた。
仕事がなくなった男は、仕方なく連絡先に電話をしてみると、シカゴへ荷物を届けて欲しい、と告げられる。
ずっと見たかったイーストウッド監督・主演の映画。
実際にあった事件に着想を得て、麻薬の運び屋をしていたという老人の話を描いている。
着想を得た、というだけで、ほとんどはフィクションだろう。
麻薬を運ぶために行ったり来たりするだけの、とても狭い世界を描いている。
ともすれば退屈な話だ。
だがそこに、普遍性を描こうとするところが、さすがイーストウッドだ。
今更感が強いけれど、気になる人はどうぞ。
それほど重い内容ではないので、見やすい映画ではある。
▼以下はネタバレあり▼
男は、花を育てて、その花をアメリカ全土に売りに行くという仕事を生業にしていた。
しかし時代の波に押されて、農場を手放すことになった。
男はその長年の経験と、犯罪とは無縁だったということを買われて、麻薬の運び屋になる。
メキシコに近い南の州から、北のシカゴまで110キロを往復するロードムービーだ。
単純に一度きりの旅ではないが、いわゆる往来の物語と言っていいだろう。
アールは荷物を運ぶごとにあり得ないほどの大金を手にする。
最初は知らなかったが、あるとき荷物を見てしまい、仰天する。
しかし、彼は全く動じることもなく、荷物を運ぶという仕事に徹する。
大金を手にすることで、再び彼の周りに人が集まってくる。
退役軍人の集会であったり、家族であったり。
そのお金は間違いなく汚れた金であり、それは彼にも分かっている。
けれども、それに動じることなく、続けられたのはおそらくそれが彼には花を育てるのと同じ「仕事」にすぎなかったからだ。
家族や周りを幸せにするには金が要る。
仕事をしなければ金は手に入らない。
それがどんな仕事であろうとも、やれる仕事をする。
それが、彼の生き方であり、もっと言えばアメリカという国の生き方そのものだ。
「ロード・オブ・ウォー」や「キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン」の主人公にも通じるところがあるかもしれない。
善悪の判断は二の次だ。
外からこの物語を体験する私たちは、「それはだめなことだ」ということは簡単だ。
だが、当事者からしてみれば、求められていることを、しかもできることをする、そのことと、善悪の判断は全く関係がない。
おそらく創作だろうと思われる、麻薬商人のボスに招かれる場面が象徴的だ。
彼は懇意にしている下っ端のフリオに「この仕事を辞めるべきだ」と忠告する。
単なる運び屋が麻薬商人に呼ばれる、という設定はすこし荒唐無稽だし、(実際どうだが知らないが)物語にとっては不要な印象を受ける。
だが彼がその忠告をすることが、この物語の中での、アールという人間の考え方が象徴的に表れている部分だ。
彼は明らかに間違ったことを意図的に行っているにもかかわらず、フリオという人間には全くまっとうな考えを伝えるのだ。
なぜなのか。
それは彼にとって花を育てることも、麻薬を運ぶことも、全く違和感のない「自分にできること」であるという考えが貫かれているからだ。
しかし、フリオはそうではない。
彼は、ここにいるべき人間ではない、そうアールは見抜いていた。
非情にもなれない、決断力もない、そういうフリオにはこの仕事は「自分にできること」ではないのだ。
だが、そういうアールも、この仕事を辞めるべき時を見つける。
それが、離婚した妻の臨終に立ち会うときだ。
長い旅をしたアールは、自分がなぜ長い旅をするべきだったのか、という原点に気づく。
いや、もはやその旅の目的は、家よりも旅の方が居心地が良かった、「自分にできること」だっただけかもしれない。
けれども、余命幾ばくもないことを悟った彼にとって、生きることは家の外ではなく家の中にある、ということを知る。
そこではじめて仕事を降りる決断をする。
麻薬カルテルを裏切ったから彼は仕事を辞めなければならなくなったわけではない。
あるいは、麻薬取締捜査官に逮捕されたから仕事を辞めたのではない。
90歳になって、ようやくそのことに気づいたのだ。
麻薬、仕事、土地の抵当、離婚、あらゆることがアメリカそのもののような物語の舞台装置だ。
仕事に疲れ切ったアメリカという国は、自分の帰るところを見つけることができるだろうか。
イーストウッドという映画人が、アメリカという国をどう憂えているか、おもしろい作品である。
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