評価点:48点/2017年/アメリカ/117分
監督:M・ナイト・シャマラン
もはやそのネタ、旬じゃありません。
同級生の女子高生3人は一人の父親の車で帰宅するところだった。
しかし、いきなり車に乗り込んできた男によって3人は誘拐されてしまう。
どこにいるのかもわからない一室で目覚めた3人は、逃げようと画策するが……。
我らがシャマランの閉鎖型スリラー。
公開当時少し話題になって、犯人が24人もの人格をもつ男である、という触れ込みだった。
また、シャマランお得意の、「ミスディレクション」が仕組まれている、ということも伝え聞こえていた。
私は見たかったが、タイミングを逃し、今になってGWに眠気眼をこすりながら見た。
すでにブーム?が人通り過ぎた後なので、特に気になる人以外は見ることもないだろう。
正直、人に勧められるほどの出来でもない。
これを見るくらいなら、他のことに時間を使った方がよいかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
この映画のどんでん返しに対して、不満が起こるのは仕方がない。
衝撃のラスト、というやつをどうしても期待せざるを得ないのは、監督がシャマランだからではない。
それまでの展開がドラマとしてつまらないから、ほとんど唯一の望みとして「どんでん返し」に期待してしまう。
けれども、まったく期待されたような衝撃の真相は訪れない。
え? それだけ? というような肩すかしを食らうような内容だ。
だからこの映画に対する評価が低くなるのは必然である。
シャマランには珍しいくらい、演出部分(真相の明かし方)に瑕疵がある。
彼はこの映画を「アンブレイカブル」と同等に位置づけようとしたらしいが、完全に失敗している。
ネタとしてはもっとおもしろくできたかもしれないが、それを生かし切れていない印象を受ける。
具体的に指摘しよう。
この映画はほとんど3人くらいしか登場人物がいない。
犯人の男ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)、被害者の女ケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)、そしてケヴィンの主治医であるフレッチャー博士だ。
ケヴィンのなかに複数の人格が同居する、という点が恐怖を煽るわけだが、それは予告編でもわかることで、驚きはない。
もちろん、マカヴォイの怪演はあるにしても、予想の範囲内だ。
ポイントになるのは、やはりケイシーだったと思う。
しかし、彼女が虐待されていることは早くから読めるし、ケヴィンとの邂逅で助かることもそれほど違和感なく受け入れられる。
そこに感動や膝を打つような快感はない。
だから、結末はそれほど意外でもないので、カタルシスが小さい。
「おもしろい!」とうならせるポイントが、もはやラストのラストにしかなくなる。
つまり、「アンブレイカブル」同様、ケヴィンがモンスターになっていく物語だった、という視点のずらしである。
だが、それももはやヨメヨメで、15年も前の作品を引っ張り出されてももはや「タイムリー」ではない。
旬を過ぎた冷凍食品を、さも今できたてのお造り(刺身?)のような顔で出されても、お客さんは納得できない。
ジョジョをこよなく愛する人であればなおさらだ。
「すでにその【攻撃】は終了しているんですよ」というようなものだ。
ジョジョの第五部で描かれた、体格や性格、顔つきまで変わってしまうのが多重人格である、というのは物語では常識だ。
(実際にどうなのか私には分からない)
だからもはやケヴィンが覚醒していくのはまったく驚かない。
よって何も得られないサスペンスになってしまった。
この期待感はどこにぶつければ良いのか、というような虚無がエンドロールで観客を支配する。
やり方によってはもっとうまく描く方法はあったはずだ。
そのポイントが、ケイシーだった。
彼女の過去を、回想や夢というわかりやすい方法ではなく、もっと映像で、所作で、見せることが出来ればそちらがミスリードとなって、ケヴィンの覚醒というオチが楽しめたかもしれない。
けれどもこの映画はどこにもミスリードが存在しない。
そのまま映画として進んでいってしまう。
行き先が見えたジェットコースターのようなものだ。
さらにいただけないのが、ケイシーの過去や、博士とのやりとりを丁寧に見せすぎたことで、閉鎖的空間という怖さが半減してしまったことだ。
「ムカデ人間」などは、閉鎖的な空間でのみ物語が進行するからこそ、おもしろいのだ。
要所要所で外の世界が描かれてしまうと、緊迫感が薄れてしまう。
観客の意識が逃げてしまうわけだ。
そんな当たり前のことに気づかないシャマランではなかったはずだ。
「アンブレイカブル」の時点での構想を、今鑑賞に耐えうるほどのパッションはない。
大いに期待外れな印象を拭えない。
監督:M・ナイト・シャマラン
もはやそのネタ、旬じゃありません。
同級生の女子高生3人は一人の父親の車で帰宅するところだった。
しかし、いきなり車に乗り込んできた男によって3人は誘拐されてしまう。
どこにいるのかもわからない一室で目覚めた3人は、逃げようと画策するが……。
我らがシャマランの閉鎖型スリラー。
公開当時少し話題になって、犯人が24人もの人格をもつ男である、という触れ込みだった。
また、シャマランお得意の、「ミスディレクション」が仕組まれている、ということも伝え聞こえていた。
私は見たかったが、タイミングを逃し、今になってGWに眠気眼をこすりながら見た。
すでにブーム?が人通り過ぎた後なので、特に気になる人以外は見ることもないだろう。
正直、人に勧められるほどの出来でもない。
これを見るくらいなら、他のことに時間を使った方がよいかもしれない。
▼以下はネタバレあり▼
この映画のどんでん返しに対して、不満が起こるのは仕方がない。
衝撃のラスト、というやつをどうしても期待せざるを得ないのは、監督がシャマランだからではない。
それまでの展開がドラマとしてつまらないから、ほとんど唯一の望みとして「どんでん返し」に期待してしまう。
けれども、まったく期待されたような衝撃の真相は訪れない。
え? それだけ? というような肩すかしを食らうような内容だ。
だからこの映画に対する評価が低くなるのは必然である。
シャマランには珍しいくらい、演出部分(真相の明かし方)に瑕疵がある。
彼はこの映画を「アンブレイカブル」と同等に位置づけようとしたらしいが、完全に失敗している。
ネタとしてはもっとおもしろくできたかもしれないが、それを生かし切れていない印象を受ける。
具体的に指摘しよう。
この映画はほとんど3人くらいしか登場人物がいない。
犯人の男ケヴィン(ジェームズ・マカヴォイ)、被害者の女ケイシー(アニャ・テイラー=ジョイ)、そしてケヴィンの主治医であるフレッチャー博士だ。
ケヴィンのなかに複数の人格が同居する、という点が恐怖を煽るわけだが、それは予告編でもわかることで、驚きはない。
もちろん、マカヴォイの怪演はあるにしても、予想の範囲内だ。
ポイントになるのは、やはりケイシーだったと思う。
しかし、彼女が虐待されていることは早くから読めるし、ケヴィンとの邂逅で助かることもそれほど違和感なく受け入れられる。
そこに感動や膝を打つような快感はない。
だから、結末はそれほど意外でもないので、カタルシスが小さい。
「おもしろい!」とうならせるポイントが、もはやラストのラストにしかなくなる。
つまり、「アンブレイカブル」同様、ケヴィンがモンスターになっていく物語だった、という視点のずらしである。
だが、それももはやヨメヨメで、15年も前の作品を引っ張り出されてももはや「タイムリー」ではない。
旬を過ぎた冷凍食品を、さも今できたてのお造り(刺身?)のような顔で出されても、お客さんは納得できない。
ジョジョをこよなく愛する人であればなおさらだ。
「すでにその【攻撃】は終了しているんですよ」というようなものだ。
ジョジョの第五部で描かれた、体格や性格、顔つきまで変わってしまうのが多重人格である、というのは物語では常識だ。
(実際にどうなのか私には分からない)
だからもはやケヴィンが覚醒していくのはまったく驚かない。
よって何も得られないサスペンスになってしまった。
この期待感はどこにぶつければ良いのか、というような虚無がエンドロールで観客を支配する。
やり方によってはもっとうまく描く方法はあったはずだ。
そのポイントが、ケイシーだった。
彼女の過去を、回想や夢というわかりやすい方法ではなく、もっと映像で、所作で、見せることが出来ればそちらがミスリードとなって、ケヴィンの覚醒というオチが楽しめたかもしれない。
けれどもこの映画はどこにもミスリードが存在しない。
そのまま映画として進んでいってしまう。
行き先が見えたジェットコースターのようなものだ。
さらにいただけないのが、ケイシーの過去や、博士とのやりとりを丁寧に見せすぎたことで、閉鎖的空間という怖さが半減してしまったことだ。
「ムカデ人間」などは、閉鎖的な空間でのみ物語が進行するからこそ、おもしろいのだ。
要所要所で外の世界が描かれてしまうと、緊迫感が薄れてしまう。
観客の意識が逃げてしまうわけだ。
そんな当たり前のことに気づかないシャマランではなかったはずだ。
「アンブレイカブル」の時点での構想を、今鑑賞に耐えうるほどのパッションはない。
大いに期待外れな印象を拭えない。
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